花子のすすめで蓮子は一歩前に進みだしました。
実際に蓮子(宮本燁子)は、1946(昭和21)年5月、NHKラジオで、戦争で子供を亡くした母親にむけ て、世界平和に立ち上がることを呼びかけます。そしてそれがきっかけで「悲母の会」が結成されます。 のち にこの会は「国際悲母の会」となり、世界連邦運動に発展しました。
そして、白蓮は婦人部の中心となり湯川秀樹夫人スミらとともに全国を行脚します。純平を失った当初はこのような歌を詠んでいたのですが…
海見れば海の悲しさ山見れば山の寂しさ身のおきどころなく
悲母の会の結成後、70を過ぎてからも体に鞭打って全国の講演旅行に駆け巡りますが、この時の歌は、自然と我とが一体になった至高の歌になっています。
巡礼の心してゆく旅なれば 北のはてにも わがゆくものか
遠つ祖の なみだに見たる秋の空佐渡はけぶりて小雨となりぬ ・・・・・・・ 過酷とも見える無理の多い講演旅行を続けた結果、やがて白蓮は目を苛み緑内障に侵される結果となりました。そして、1961年、76歳で両眼を失明してしまいます。しかし作歌は永眠の前年まで続けられました。 眼を病めば 思い出をよぶ声のして 今を昔の中にのみ居り そこひなき 闇にかがやく星のごと われの命をわがうちに見つ
最後の歌は神々しいほどに心に響きます。そして1967年(昭和42年)81歳で生涯を閉じます。晩年は家族と共に穏やかに過ごしたそうです。