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愛しのロニー/My Dearest Ronnie

LONG LIVE RONNIE JAMES DIO。永遠にあなたを愛しています。

BLACK SABBATH BAND HISTORY

2011年02月06日 11時11分46秒 | BLACK SABBATH
前の記事でブラックサバスの非公式サイトにヒストリー・ページが出来たことをお伝えしましたが、長かったのでそのままリンクだけしてほったらかしておりました。
読んでみると、結構興味深い事実が記載されているので、個人的に興味深いとこだけ抜き出して書いてみます。
全文はこちら。


第三期(1979-1980.8.17)

オジーがバンドをクビになった、あるいは脱退した後、ロニーの加入の少し前にギーザもバンドを離れていた。この間、ジェフ・ニコルズがベースを弾いていた。
1979年の夏から秋にかけて、いつからいつとは断定できない、もやのかかったグレーな時期がある。
アルバム製作の終盤になった頃、ギーザは戻ってきた。ギーザが戻ると、ジェフはキーボードに移行し、それから2004年までの長きに渡ってバンドに留まることになる。
またギーザがバンドを離れている間、クレイグ・グルーバー(元レインボー)が"使われた"。クレイグがどの程度関わっていたのかは不明だ。アルバム"Heaven & Hell"で実際にベースを弾いているのはクレイグ・グルーバーだという噂もあったが、これを立証するデータはなく"伝説"に留まっている。ギーザはセッションの後半までバンドに戻っておらず、彼が実際に曲作りに参加したのは、曲作りもレコーディングも最後の一曲だった"Neon Knights"だけだったと言われている。アルバムのタイトル曲のメインのベースラインは、明らかにジェフ・ニコルズが書いたものだ。
なんというバンドのスタートだろうか?

一方で、ジェフ・ニコルズはこの時から1998年の再結成アルバムに至るまで、全てのサバスのアルバムにおいて、キーボードにクレジットされている。だがバンドの正式メンバーとして挙げられることはほとんどない。だが彼は長年に亘りリズムギターを弾いたり、コーラスを務めてきたのだ。
(そ、そうだったのか!では2007年以降のツアーでコーラスをやってるのは誰なんだろう?そして明らかに入っているもう一本のギターは・・・)


第三a期(2006年3月-11月)

2004年にBlack Boxがリリースされた後、"Black Box II"(DIO作品)と、"Black Box III"(その他全て)のリリースが予定されていると聞いた。
だが2005年、発売されたのは"Black Sabbath: The Dio Years"で、ロニー期の3つのスタジオ盤と"Live Evil"を収録する予定だった。

トニー・アイオミがDIOのショーを見に行き、バックステージでロニーと再会した。
二人は話をして、このアルバムには新しい曲を作っていくつか入れようということになった。そこで彼らは2006年初頭、一緒に新曲を作ったのである。
ロニーはこの時のセッションについて、インタビューでこう述べている。

「素晴らしかった!楽しかったよ。俺はトニーがずっと好きだった。彼はいい奴だし、一緒にいて楽しいし、紛れもなく卓越したプレイヤーだ。これは人を惹き付ける第一の要素だよ。だって一緒にやるプレイヤーを好きじゃなかったら、それは不運なことだからね。
トニーと会ったのは10年、11年、12年ぶりくらいかな。彼が数ヶ月前にバーミンガムであった俺たちの(DIOの)ショーに来てくれた。そこで彼と会ったわけだけど、以前と何も変わらなかった。それで俺たちは一緒に曲を作ったときも、以前と同じように実りの多い時間だった。俺たちはトニーのスタジオで二人だけで・・俺がベースを弾いて、トニーがギターを弾いて、ドラムマシンを流して・・素晴らしかったよ!俺たちは二人共、心の中で思ったと思うよ。"ちくしょう・・・奴がこんなに素晴らしいことを俺は忘れていたぜ"ってね」

そこで書き上げた3曲が後の "Shadow of the Wind", The Devil Cries", "Ear in the Wall"であった。
(二人だけで作ったのか・・・・・・・いや、記憶を呼び起こせばロニーがベースを弾いていた話は聞いていたんだった)

しばらくしてそのニュースが漏れると、リズム隊が誰になるのか憶測が流れた。明らかに最初に出た名前はギーザ・バトラーとビル・ワードだった。

2006年10月25/26日には、ロニー、ギーザ、トニーのサイトには次のようなプレスリリースが掲載されていた。

「待ちに待ったロニー・ジェイムス・ディオ、トニー・アイオミ、ギーザ・バトラー、ビル・ワードの再結成は、新しい形でその一歩を踏み出そうとしている。様々なプロモーターからマネージメントの申し出があったが、彼らは再結成を願って現在はこれを大変真剣に受け止めている。新しいバンドは"Heaven and Hell"の再生になりそうだが、これはバンドが新たな冒険に使うにはぴったりの名前だ」

これがうまく運べば、Heaven and Hellは2007年初頭ツアーに出るはずだった。

このプレスリリースについて明らかなことは、数日が経過してもビル・ワードのサイトでは掲載されなかったということだ。ビルはサバスの再びの再結成の可能性について沈黙を守っていた。2006年11月26日、ビル・ワードは次のような声明を自身のサイトで発表した。

「本日ビル・ワードは、"Black Sabbath: The Dio Years" のCDの新曲のレコーディングにも"Heaven & Hell"のツアーにも参加しないことを表明した」

ビルはこう述べている。「俺がHeaven & Hellのプロジェクトに参加するのかどうか憶測が流れていたのは分かっている。だから新曲にも、その後のツアーにも参加しないってことを確認したかったんだ。トニー、ギーザ、ロニー、そしてヴィニーの成功を願っているよ」

この頃、ラジオのDJエディ・トランクがイギリスにいてサバス(ヴィニー加入前)にインタビューをしているが、写真はこの時のものだ。
(・・・明らかにおっきなオーブがいくつも映りこんでますなあ・・・。これはロニーを連れて行こうとして、待機している、かつ守っている天使だろうなあ。。。。こんなにおっきく映りこむとは凄い・・)


後にビルは、2009年8月7日のエディ・トランクとのインタビューで、Heaven & Hellについてなぜ参加を拒否したのかについて語っている。(長いのでザックリと)

「微妙な問題だから公には話さなかったんだ。音楽的な違いがあった。とても長い間、俺が心地よいと感じた唯一のバンドはオリジナルのメンバーのバンドだけだった。俺はロニーのサバスともやろうとしたし、イアンのサバスとも、ほかのシンガーたちのサバスとも一緒にやろうとした。でも誰であろうと、俺にとっては同じには感じられなかった。
トニーとギーザが他のシンガーとやろうとすると、俺はうまくいかなかった。
だけど俺は最初にロニーのことについて話し合ったとき、"よし、心を開こう”と思ったのさ。でもやってみると、俺はペダルを逆に踏んでいるような気分になった。でも懸命に心を開こうとして、その場に留まった。そのうちいくつかの出来事が起きた。最初はビジネス上の問題だった。これは本当に気分が悪かった。それから個人レベルで解決できない問題もあった。いつか明らかにして、解決できる日がくるといいと思う。
でも主な原因は、とても速いある曲で、トニーがギターを強く押し出してきたことにある。ダウンビートのようだった。俺は16の頃から彼と一緒にプレイしてきたけど、俺は彼をさえぎるようなプレイはしたことがなかった。彼のプレイに割って入るようなことはしなかったし、ベースやギターと相互作用が起きるようなプレイを心がけてきた。だが今回俺に求められたのは、ストレート・ビートだった。これは俺が知っているドラミングの全てに反するもので、耐え難い要求だった。終わりだ。俺にはできない。トニーにそんなことはできない。彼は俺の愛する男だ。俺は彼を生涯ずっと愛し続けるだろう。
俺にとっては、この要求はプレイヤーとしてトニーを侮辱する行為だった」

第三十三期(2006年11月~現在)

ビル・ワードが不参加を表明した後、ヴィニー・アピスが復帰することがすぐにアナウンスされた。ヴィニーは本当に急いでイギリスまで飛んできた。
興味深いのは、ヴィニーがトニーのスタジオにあったドラムキットを使ったということだ。このキットはコージー・パウエルのもので、1998年に亡くなった後、このような形で彼の伝説がサバスに受け継がれたのは素晴らしいことだ。
かつてのレインボーのバンド仲間のロニー・ジェイムス・ディオが歌う新曲で、コージーのキットがサバスのドラマーによって使用されたのは皮肉な話だが。(確かに・・・)

(Dehumanizerの時も、デモはコージーが参加していて、落馬事故があってヴィニーが参加していますもんね。ヴィニーはいつもこんな待遇を受けてきて、色々と思うことはあっても、割り切って折り合いをつけてやってきたんだろうね。。。)

2007年1月のルーディ・サーゾのインタビューで、サバスの新曲のうち2つは、ロニーが元々新しいDIOのアルバム用に用意していたものだと述べている。
記事はここ

(おっと、これはかなりびっくりだ。なぜならロニーはかつてインタビューで、「曲作りは、そのバンドが始まってからするし、他のバンド用に作った曲を別のバンドに使うなんて失礼なことはしないよ」とはっきり言っているのを覚えている。ルーディの言っている通りだとすれば、矛盾するじゃないか・・・。
人には色々と裏表があるな。ロニーも例外じゃない。この時はすでにDIOは自分の手足だと思っていたんだろうな。「俺の曲を、俺が思いついたリフをどこで使おうが俺の勝手だ」ぐらいに。
それにしてもこのルーディのインタビューも面白い〔また掘り当ててしまったじゃないか・・・〕。ロニーの自宅のスタジオでレコーディングを手伝ったから、ルーディはそのことを知っているし、新しく出るサバスのBox Setの中身も一番に聴いたそうだ。
それからルーディはヴェジタリアンだったんだって。。まあ~、ビックリ。さらには自分の妻を「世界一の美女」だと言っている・・ルーディの話はこの辺にしよう)

☆☆☆



その後は驚くような記載がなかったので割愛。
この「ほんのちょっと」だったはずのツアーは、実は他のどのバンドよりも、ファンが待ち望んでいたもので、当然大反響を呼び、世界中から引き合いがきて、その後彼らはフルアルバム"The Devil You Know"を製作することになり、ワールドツアーに出ます。
もう互いを抹殺しあうようなことはなく、互いに尊重しあい、実に楽しみながら曲を創り、レコーディングをし、ツアーを繰り広げたわけです。

それにしてもバンドってのは、本当にすったもんだの連続ですな。
音楽だけが合致していてもやっていけないし。
ロニーとトニーは音楽的に最初から非常にピッタリ合っていたんですね。
それが人間性の面でも、ビジネス上でも、全て収まりがついて、
彼らは2007年以降、初めて蜜月を迎えた。

アーティストとして尊敬しあいながら、相手の人間性にも惚れているという、
そんな貴重な関係を築けたのだから、ロニーがDIOよりもサバスを優先したのは、非常に理解できます。



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2 コメント

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Unknown (sue)
2011-02-07 18:50:40
楽しいのが一番だよね。世界的なミュージシャンの世界だとそれすらも難しいんだろうけど、いろんな意味でロニーはようやく自分と対等なレベルの仲間内で楽しんで仕事をすることができたのでは?DIOではやはりプレッシャーも凄かったんじゃないかな。自分以外のメンバーの面倒をみなければならない立場としては。
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Unknown (Riko)
2011-02-07 21:34:35
そういうことですな。
おんなじメンバーで1980年にも1991年にも集まっているはずなのに、その時はうまくいかなかった。つまり彼ら自身が互いに成長したということなんでしょうね。

ロニーの死後、ギーザが言った言葉。
「俺に魂があるとしたら、ロニーはその一部だ」この言葉がいかに彼らの絆が強かったのかを物語っていますね。

若い時は、自分の好きなことを好きなだけできるDIOで良かったんだろうね。でも円熟して、自分を刺激してくれる人も、分かち合える人もバンドにいなくなってしまったんではないでしょうか。
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