ma-marinの徒然日記-☆素敵にサトシック☆

大野智くんと嵐と猫と映画と美しいものと美味しいものを愛してやまない、シングルマザーの徒然ブログです。

奈良・興福寺11月27日

2015年12月01日 20時47分37秒 | 阿修羅

先日、大阪の11月26日のコンサートの翌日、せっかく関西に来たのだからと、奈良・興福寺の阿修羅像に会いに行ってきました。

近鉄奈良駅を出たら冬晴れ。

青空に冷たい風。

五重の塔

 

数年ぶりの阿修羅像。

やはりじっと見ていると、自分の内面に深く潜り込んでいく感じがします。

闘うとは何か。

悟りとは何か。

諸行無常の何か。


平日、金曜日の午前中ということで、海外からの観光客と年配の方がちらほら。

とても静かに阿修羅と向かい合えました。


自分というものを見失いがちな日々の忙しさの中、静かに阿修羅と対面出来てとても良かったです

 

 

 

 


不足しているものは…

2010年01月06日 20時51分56秒 | 阿修羅

脳内に何かが足りない気がします。
テンションが上がらない感じ。
足りないのは時間かも…。
睡眠時間とか、ぼんやりする時間とか…。
映画も観てないし、読書も最近してないな。
忙しすぎるアラシゴトのツケがまわってきたとか…。

フジテレビの昨日の点灯式のイベントは完全なシークレットだったそうですね。
めざましテレビ、5時、6時では言ってませんでしたが、7時の時にそう言ってました。
もう会社に出かけるギリギリ。
年明けから、化粧もそこそこに出かける日々の私。
今日も大慌てで仕度しながら、聞いてました。
(遅刻するかと思ったけど、とりあえずセーフでした)
たまたまあの場にいた人だけが、昨日の嵐くん達に会えたとか。
あの寒さの中、フジの放送用だけに嵐くん達を点灯式に使ったのかな。
ファンも残念だけど、嵐くん達も寂しくなかったのかな。
寒さが余計身にしみたりしなかったでしょうか。
不思議な感じです。
こういう出来事はどう考えたら落ち着きがいいんでしょう?
なんだかよく分からなくて気持ちがゆらゆらします。

悩むようなことでもないところ、どうでもいいことなんですが、ひっかかってます。
昔からそんなところがあります。
なんでかな。

朝日新聞の夕刊が今年に入ってから、仏像日和というコラムを連載しています。
3回目の今日は、阿修羅像でした。
白州正子は「見る人にまつわりつくように色っぽい」とたたえ、堀辰雄は「なんという ういういしい、しかも切ないまなざしだろう」「こういうまなざしをして、何をみつめよとわれわれに示しているのだろう」と書いているそうです。

阿修羅に会いたいな。

1ヶ月半ほど前に会ったばかりですけど、またとても会いたくなりました。
阿修羅に向き合うのは、自分の内側と向き合う行為なのだという気がしています。

こんなに阿修羅に会いたいと思ってしまうということは、今の私に不足しているものが、深く自分を見つめることなのかもしれません。


自分を見つめるための装置

2009年11月17日 18時17分24秒 | 阿修羅
阿修羅には60分待ちで逢えました。
興福寺のお堂で見る阿修羅像はまるで命在るもののようで、彼を見つめている私を見つめかえされるような錯覚を覚えました。
大きい釈迦如来座像の前に立つ三つの顔と六本の腕を持つ異形の神、阿修羅。
周りに配された他の八部衆や四天王像の中央で静かに立つその姿を見つけた途端、胸を締め付けられて、泣かないよう唇を噛み締めました。
東京で見た時には、心を動かされませんでした。
今回も東京同様の人混みでしたが、香の焚かれたお堂には、人のざわめきを忘れさせるものがありました。照明も明る過ぎず、阿修羅の赤い色がちゃんとわかります。
今回、私が彼を見つめて感じたことは、生きることは常に闘いであり、命の営みは無常であり、その命が悠久の時の流れを織りなしているのだということ。
阿修羅が苦しむ人間の声を聞き、憂えているように感じました。
阿修羅を見つめて感じたことは私の脳内で引起されるもの。彼を見つめることで自分の深部を見つめているのかもしれません。
コンサートの興奮覚めやらぬ私が何故、阿修羅の苦悩を感じたのかわかりませんが、無理にでも逢いに行って本当に良かったです。
少し冷静になって、また次の一歩が踏み出せそうです。

阿修羅に逢いに行ってきます

2009年11月17日 07時10分17秒 | 阿修羅
突然ですが、今新幹線の中です。
札幌から昨日帰って来たばかりですが、奈良まで日帰りしてきます。
自分でもびっくりしてます。
札幌ドームコンサートで大野くんのこと考えてる間、私の心の中には、彼が良く似ている、私の大好きもう一人(?)の方もずっといました。

阿修羅に逢いに行ってきます!

今、奈良に帰山した阿修羅像は八部衆を従えて、興福寺のお堂に居ます。
ガラスケースに遮られず、逢えるのは11月23日まで。
関西にお会いしたい嵐友もたくさんいるのですが、突然の決断で連絡を取る暇がなかったのが残念…。

いつも考えるばかりで行動出来ないことも多い私ですが、何かにつき動かされるまま、奈良に向かってます。

『一歩踏み出せたなら、景色も変わる~♪』

そんな感じ。

かなりお逢いするのに並ぶようですが、今日何を感じて来れるのか、とても楽しみです。

私の阿修羅

2009年05月22日 23時20分20秒 | 阿修羅
上野の東京国立博物館で開催中の「国宝 阿修羅展」、5/14で入場者数が50万人を超えたそうです。

阿修羅は世代を超えて多くの日本人に愛されるスーパーアイドル。

私も阿修羅好きの一人です。

阿修羅の出自について、雑誌『サライ2009 6/4』(小学館)28P~の興福寺貫主・多川俊英氏の解説を引用すると、

「…阿修羅はもともと、現在のイランやアフガニスタンで信仰されたゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー(至賢なる神)でした。その後、インド古代神話の世界でアスラ(後の阿修羅)として、温和で親しみやすいインドラ(後の帝釈天)と勢力争いを重ねていく。そして次第に、善神インドラに敵対する悪神アスラという構図が出来上がったのです。
 仏教がアジア各地に広まると、善神インドラは仏教界に迎えいれられ、守護神・帝釈天になった。同様にアスラも阿修羅となり、仏法を守る神に変身します。阿修羅は、釈尊(釈迦)が涅槃に入ったときに必ず傍にいる重要な神です。そして、他のインドの神々と共に八部衆のひとつになりました。…」とのこと。

阿修羅の来歴は上記のようですので、通常は「阿修羅のような形相」と言われるように、憤怒の表情で表現される仏像が多く、興福寺の阿修羅像は珍しいそうです。

このスーパーアイドルの人気の要因は均整のとれた伸びやかな肢体、三面六臂のあの憂いを秘めた表情の美しい顔、三つの顔はそれぞれ違う表情を浮かべています。

あの表情について、仏教に帰依したための穏やかさという解釈が本筋のようですが、いつも違う感覚でみてしまいます。

仏像=偶像=アイドルですから、相対する人それぞれの心模様で好きに感じて良いと思うので、少し私が感じていること書いてみます。

先程、引用させていただいた文章からもわかると思いますが、宗教も人間の政治的な戦いと無縁ではありません。
もともと他民族の至賢の神を敵対する神として取り入れてしまうのは、言語も文化も違う民族に新しい宗教を広めていくのにはとても都合のよい方法です。

神から悪へ、戦いを続けた果てに仏教に帰依する。

阿修羅はどんな気持ちだったのでしょうか。

永い永い戦いの末、戦いを放棄したとき阿修羅は何を考えていたのでしょうか。

戦っても戦っても力は拮抗し、ぶつかりあい、中和され、決着がつかない。

存在の無常を感じ、あきらめを感じたのではないでしょうか。

仏教に帰依したというより、

阿修羅は本当に突然悟ってしまったのでしょう。

そして戦うことに疲れてしまったのでしょう。

自分はなぜ戦ったのか?戦いを放棄したのか?なぜここに在るのか?存在とはなにか?時とはなにか?力とは?悪とは?正義とは?

語弊がありますが、私には、悟ってもなおまだ、自分の存在に悩んでいる、そんな表情に見えます。

そして、そんな阿修羅像の向こうに果てしなく広がる漆黒の宇宙、無限の時間を感じてしまうのです。

だからでしょうか。

阿修羅と興福寺で目線を合わせて相対すると自分の存在の儚さ、頼りなさに涙が出てくるのです。

※阿修羅は東京、福岡で展示された後、帰山記念に、興福寺仮金堂で「お堂でみる阿修羅」として2009年10月17日(土)~11月23日(月・祝)まで特別公開されるそうです。
このときもぜひお会いしたい。そう思っています。

阿修羅展

2009年05月10日 08時03分57秒 | 阿修羅
上野に阿修羅に会いに行ってきました。

土曜の15時過ぎ、入場まで約20分待ち。
連休中ほどではないのでしょうが、阿修羅の人気、本当にすごいです。
込み合っているのは分かっていたし、人込みも苦手。
それでも、昨日はどうしても会いたい気分でした。

館内、特に阿修羅のところ二重、三重に人に取り囲まれて、なんだかよくわからない雰囲気。
係員が少しずつ左周りに移動しながら鑑賞するように注意するのですが、前の人動かない。
私と娘は輪の外側から、1周半阿修羅を鑑賞して戻りました。
こんな時、背が高いのは便利。
娘も166センチ超えてますし、私も5センチパンプス履いてほぼ170センチ。
隙間から、阿修羅の足元まで見てきました。
奈良でお会いする時と違って、ガラスケースもないのですが、
照明が強くて阿修羅の色が分からない。
展示がいつもより高い場所なので、目線が違う。
何より人が多すぎて、静謐さがない。

奈良で阿修羅と対峙するときは、いつも自然に涙が溢れてくるのですが、今回はそうなりませんでした。
初めて阿修羅にお会いしたのは中学の修学旅行。
それ以来阿修羅への思い入れが深い私。
アラフォーもそろそろ卒業の身ですから、かなりの年月が経っています。
昨年、久しぶりに奈良でお会いした時には、自分の内側から溢れてくる想いがあって、人の目が気になるほど涙、涙でした。
今回、実は昨年からイタイほどはまっている大野智と阿修羅が似ているという
発見をした後だったので、自分がどんな風に感じるのか、かなりドキドキでした
(この歳になってジャーニーズ・アイドルにはまるなんて自分が一番ビックリしてます)。
ちょっと安心したのは、大野智をみて、阿修羅を思い出すのに、
阿修羅をみて大野智を連想しなかったこと。
人込みという環境のせいもあるかもしれないのですが、
私の中では、まだ阿修羅の方がアイドル=偶像として重さをもっているようです。

人の渦の中での鑑賞で、阿修羅より人のエネルギーが優っていた感じ。
それだけの人間を惹きつけるほど、阿修羅が魅力的ということなんですが…。
ちょっと残念な部分もありますが、美術品としての阿修羅を360度から眺められたのは素敵でした。
三つの顔は見る場所によって、少しづつ違った表情になり、受け取る感じが異なります。
静かな場所でお会いできたら、もっと自分の内側からいろんな感情が溢れ出して、大変なことになっていたかも…。

奈良、彼の地には、また独特の神通力(?)が働いているように思えます。
やはり阿修羅は博物館で美術品として鑑賞するのではなく、
彼の地で神としてお会いするのがいい。
阿修羅が帰ったら、また奈良に会いに行きたい。
そう思いました。