今日は節分、明日は立春です。暦の上では春到来、これから三寒四温で徐々に温かくなっていくことでしょう。
節分とは、そもそも、季節を分けるの意味で、季節の始まりを指す立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分と呼んだが、今は立春の前日だけが節分として残っている。1年の始めに位置し、春がくることは他の季節よりも人々にとって特別重要な位置を占めていたということでしょう。
節分は新しい年を迎える前日、大晦日に位置し、前年の邪気を払って新年を迎える意味から古く追儺(ついな)の行事が行われていた。
追儺の始まりは、文武天皇の時代に疫病が流行り多くの人が死んだ為、“土牛”を作って疫気を祓ったことだった。この儀式は中国の礼記を参考にし、それを陰陽師らがやり方を平安時代に整えられたとされている。
その方法とは、大寒の日に宮中の12の門に12組の土牛童子(牛を引く童子の人形)を立てる。東の陽明門・待賢門には青、南の美福門・朱雀門には赤、西の談天門・藻壁門には白、北の安嘉門・偉鑒門には黒、残りの東の郁芳門・南の皇嘉門・西の殷富門・北の達智門に黄色の土牛童子を立てる。そしてこれを立春の日の前夜半に撤去する、というもの。この五色は以前説明した陰陽五行説の各方角の色を使用したもの。何故牛かというと、十二支の丑は五行では土にあたる。12月は丑の月、そして、童子は八卦で艮(うしとら)に当たり、東北の方角(丑寅)を指す。この童子は丑の月の12月(節分)から寅の月の1月(立春)への時間の切り替わりを表し、これに邪気を集めて捨てて邪気を祓う意味があったようです。これはネットで調べていて知りました。興味深い話です。
鬼は古来は“陰”と書いておにと読み、目に見えない気や姿の見えない災いを表すものでした。十二支の丑もまた陰陽では“陰”となる。いたるところに陰陽五行の思想が見られます。
平安時代に宮中で行われた儀式では、陰陽師が祭文を読み、黄金の4つ目の面をつけた方相氏が矛と盾を持ち、鬼やらう!といって宮中を走り回り、その後を殿上人たちが桃の木の弓で葦の矢を射って邪気を祓うものとなった。桃と葦という植物は祓いの呪力を持つとされているそうだ。この古式ゆかしき追儺は今も平安神宮で行われている。
現代、節分の日には豆まきをするが、平安時代には存在しなかった。豆は呪物で魔を祓う力があるとされ、宮中の追儺と神社が行った豆打ちの儀式から、やがて豆まきとして一般家庭にも広まったとされる。桃や葦を用意することは一般民衆には難しかったのもあるだろう。
豆まきでは年男か一家の主が「鬼は外、福は内」といいながら煎った大豆をまいて、自分の年の数か、年齢+1だけ食べると健康でいられるといわれる。また鰯のお頭を柊の枝に刺して家の入り口に刺す風習もある。これは鰯の悪臭ととがった柊で邪気が家に入るのを防ぐ意味がある。
最近では、恵方巻きといって太巻きをその年の恵方に向かって無言でまるかじりすると福が訪れるいう習慣が広まってきて、今日もデパートの太巻き売場は行列をなしていた。しかし、この習慣、昭和52年に大阪のローカルな風習だったのを大阪海苔問屋協同組合が節分のイベントとして開催し、以後、海苔屋さんとお寿司屋さんが便乗する形で全国に広まっていっただけのもの。バレンタインと同じですね。。。。儀式は時代によって様々に変化していくものですね。
節分とは、そもそも、季節を分けるの意味で、季節の始まりを指す立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分と呼んだが、今は立春の前日だけが節分として残っている。1年の始めに位置し、春がくることは他の季節よりも人々にとって特別重要な位置を占めていたということでしょう。
節分は新しい年を迎える前日、大晦日に位置し、前年の邪気を払って新年を迎える意味から古く追儺(ついな)の行事が行われていた。
追儺の始まりは、文武天皇の時代に疫病が流行り多くの人が死んだ為、“土牛”を作って疫気を祓ったことだった。この儀式は中国の礼記を参考にし、それを陰陽師らがやり方を平安時代に整えられたとされている。
その方法とは、大寒の日に宮中の12の門に12組の土牛童子(牛を引く童子の人形)を立てる。東の陽明門・待賢門には青、南の美福門・朱雀門には赤、西の談天門・藻壁門には白、北の安嘉門・偉鑒門には黒、残りの東の郁芳門・南の皇嘉門・西の殷富門・北の達智門に黄色の土牛童子を立てる。そしてこれを立春の日の前夜半に撤去する、というもの。この五色は以前説明した陰陽五行説の各方角の色を使用したもの。何故牛かというと、十二支の丑は五行では土にあたる。12月は丑の月、そして、童子は八卦で艮(うしとら)に当たり、東北の方角(丑寅)を指す。この童子は丑の月の12月(節分)から寅の月の1月(立春)への時間の切り替わりを表し、これに邪気を集めて捨てて邪気を祓う意味があったようです。これはネットで調べていて知りました。興味深い話です。
鬼は古来は“陰”と書いておにと読み、目に見えない気や姿の見えない災いを表すものでした。十二支の丑もまた陰陽では“陰”となる。いたるところに陰陽五行の思想が見られます。
平安時代に宮中で行われた儀式では、陰陽師が祭文を読み、黄金の4つ目の面をつけた方相氏が矛と盾を持ち、鬼やらう!といって宮中を走り回り、その後を殿上人たちが桃の木の弓で葦の矢を射って邪気を祓うものとなった。桃と葦という植物は祓いの呪力を持つとされているそうだ。この古式ゆかしき追儺は今も平安神宮で行われている。
現代、節分の日には豆まきをするが、平安時代には存在しなかった。豆は呪物で魔を祓う力があるとされ、宮中の追儺と神社が行った豆打ちの儀式から、やがて豆まきとして一般家庭にも広まったとされる。桃や葦を用意することは一般民衆には難しかったのもあるだろう。
豆まきでは年男か一家の主が「鬼は外、福は内」といいながら煎った大豆をまいて、自分の年の数か、年齢+1だけ食べると健康でいられるといわれる。また鰯のお頭を柊の枝に刺して家の入り口に刺す風習もある。これは鰯の悪臭ととがった柊で邪気が家に入るのを防ぐ意味がある。
最近では、恵方巻きといって太巻きをその年の恵方に向かって無言でまるかじりすると福が訪れるいう習慣が広まってきて、今日もデパートの太巻き売場は行列をなしていた。しかし、この習慣、昭和52年に大阪のローカルな風習だったのを大阪海苔問屋協同組合が節分のイベントとして開催し、以後、海苔屋さんとお寿司屋さんが便乗する形で全国に広まっていっただけのもの。バレンタインと同じですね。。。。儀式は時代によって様々に変化していくものですね。
みんな商魂たくましいですね。
でも知ってしまうとちょっとがっかり。
無言で節分豆と一緒に太巻きを黙々と食べるなんて
想像しただけでのどがつまりそう。
今年は南南東が縁起の良い方角だとか。
明日はできればその方面の御鮨屋さんによりますか。
季節を分ける節分。これは満点トレビアです。
早く春が訪れんことを!!
恵方巻き、夢を壊してごめんなさい!
でも、大阪船場のローカルな風習としてはあったわけなので、風習は変化するもの、ということで。でも、黙々と1本食べ尽くすのは正直結構大変です。。。できれば皆で楽しく食べたいですよね。それじゃ鬼祓いにならないか?!
立春は見事に寒い一日になりました。春まだ遠きといったところでしょうか。
いずれにしても、今日からまた素敵な一年になりますように。
太巻きを恵方の方角に向いて食べるのってしますね^^
暦や方角は不思議なものですね。
ほんと立春だけどかなり寒い一日でした。
今年もやりましたよー。
でも大阪特有の風習とは知りませんでした。私の両親は大阪&京都の出身なので当たり前だとおもってました。
たしか、健康にすごせる、と聞かされた気がします。海苔問屋組合の陰謀(?)かもしれませんが、おもしろい風習ですよね。
昨日はお稽古のあと、湿し灰つくりのお手伝いをさせていただきました。腰が痛いです、、、
地元の恵方の寺社をわかっているなんて、すごいですね~。うちはどこなんだろう?
本当に暦とか方角って知るほどに面白いです。最近、陰陽師関係の本を読んでいますが、へぇ、ほぉ連発です。
本当に立春寒かった、今日も寒い~。
恵方巻き、関西方面では昔からあったようですね、関東ではここ数年です。最近広まったといっても商法の罠といわれても、広まったってことはそれだけ皆に受け入れられたってことだから、いい慣習なんだと思います。
我が家も食べてます。(一家の主婦にはメニュー考えなくてよくてうれしい慣習かも?!)
湿し灰作りのお手伝いなさったのですか。先生に話伺うと大変な作業みたいですが、私はやったことがなく、そういう経験ができて羨ましいです。どんな手順でした?
腰、お大事に~。
自分は真夏 かっ!!!と お天道様の出てるとき作ります そうしないと つぶつぶの色や粒が上手く出ません
本当は真夏につくるものだそうですが、在庫がなくなってしまったので、応急処置ということで作りました。
「これは、あくまでも応急処置だからね!」と先輩にいわれましたよ(笑)
先生も夏、暑くて太陽が照っている日を選んでやるから、事前にこの日に手伝ってとはいえないのよ~とおっしゃいます。
真夏に作るより気温という意味では今の方が楽なのかなぁ。。。。でも出来上がりの色やつやがやはり違ってくるのでしょうかね。
お疲れ様でした!!