極楽とんぼは風まかせ

東は東、西は西。交わることなき二つとはいえ、
広い太平洋、東の風が吹き、西の風が吹き・・・

ノーベル賞と平和憲法と教育と

2014年10月12日 | 今日の風の吹きまわし
ノーベル平和賞がすべての子供に教育をと訴えるマララ・ユサフザイと世界の児童労働をなくそうと活動
して来たカイラシュ・サティアルティに贈られることになったと発表されたとき、ワタシはノーベル平和賞が
やっと本来の理念を取り戻したと思った。異なる世界を恐れ、自分たちに心地よい伝統文化や宗教の戒
律を固守して自己の安泰を得ようとする無知な勢力に身の安全を脅かされながらも、国境を越え、偏狭
な宗教や政治の枠を超えて怯まずに世界に寛容と理解を訴え続けているこの2人が共同で平和賞を受
賞したことは「すばらしい」の一言に尽きる。人間は誰でも知識欲を持って生まれて来るはずだから、たと
え基礎教育だけでも学ぶ機会を否定されて来た子供たちに自分で考える力を与えることができる。

自分で考えることができる力こそが教育の真の成果であり、未知の世界を発見する喜びと学びが異なる
ものへの寛容の源泉になるものであり、日本を含めた先進社会の教育が見失いつつあるものではない
かと思う。異質なものへの寛容と共存の意思がなければ世界は平和にならない。そして教育による学び
がなければ寛容の気持は生まれて来ない。いくら高等な知識を詰め込んでも、自分で考えなければ何も
学ばないから、真の教育とは言えないと思う。他人を心身共に支配下に置くことでしか自己を肯定できな
い人間にとっては、個人がそれぞれに自分で考え、その判断に基づいて最善の決定を導き出して行動
する力を持つことは、自分を否定されるようなものなのかもしれない。元々人間の支配欲というのは動物
本能的な怖れから生まれたもので、原始社会ではその怖れから宗教が生まれ、やがて信仰を同じくする
者の結束を強めるために戒律が生まれ、その戒律を維持するために組織が生まれ、組織の秩序を確立
するために序列階級ができ、影響力であれ暴力であれ力のあるものが当然その頂点に立ち、その権力
に魅せられた者がそれを奪われるのを恐れて防衛策を講じるようになり、宗教組織は戒律を厳格化し、
政治組織は法律や規則を作って、いずれも違反には過酷な罰で支配力を示す・・・。

そうやって人類は小さなコミュニティから民族、国家に至るまでの支配体制を生み出して来たんじゃない
かと思うけど、元々動物的な本能から来る欲望だから、そこかしこで暴走が起きる。それを制御するのが
人間の理性というものなんだろうけど、悲しいかな、人間として生まれれば黙っていても理性が備わって
いるわけではないらしいし、理性も動物本能を制御し切れるほどの力はない。アラブ世界での女性の扱
いは男が動物的本能を制御できないと認めているようなものじゃないかと思うけど、自分を制するよりも
暴力を用いてでも人の行動や思考を支配するのがあたりまえの人たちに理性や個人の権利を説いたと
ころで馬の耳に念仏で、理解されるどころか逆に権威を脅かすものとして攻撃されるのがオチ。そういう
無知蒙昧な人にとっては理解できない概念は脅威でしかないから、自分が理解できない教育を支配の
対象に受けさせるのは自分の首を絞めるようなものなんだろうと思う。

話がどんどん逸れてしまったけど、先週だったか日記ブログの方で、日本国憲法第9条がノーベル平和
賞候補になっていて、もしも受賞したらアベクンは困るだろうなと書いていた。最有力候補という憶測が
流れていたから、アベクンは内心ピリピリしていたんじゃないのかな。「けっこう政治的だ」と評したらしい
けど、実際には「日本国憲法第9条」は受賞しなかった。妥当な選択だと思う。世界平和と政治は切って
も切れない関係にあるから当然だとしても、近年のノーベル平和賞は政治色が濃すぎたと思う。「平和」
憲法を世界各国に広めるためというのは崇高だけど、憲法は一国の政治思想の基本なんだから、いくら
すばらしい憲法でも他国にそれを採用しなさいと勧めるのは内政干渉とも取られかねない。第9条で戦
争を放棄した日本国憲法は日本という国の礎で、改憲は民主国家日本の内政問題でしかないから、時
の政権が画策する改憲を阻止する目的でノーベル平和賞候補に推すというのは政治的すぎると思う。

改憲の是非は日本国民が民主的に議論して決めることだけど、ノーベル賞受賞は第9条を岩に刻み込
むようなもので、もしも将来大多数の国民が改正を求めることがあっても、その時の政府はノーベル賞を
盾に国民の意思を無視するかもしれない。国民の反対を押し切ってでも「平和憲法」を改変しようとする
アベクンとは正反対だけど、民主主義のプロセスを阻害することには変わりはないと思う。まあ、日本の
人は何事につけても、ことを荒立てなければ安全でいられると思っているふしがあるから、世界が国家
の実体を持たない集団からの脅威に直面している中で、例えばISが日本に脅しをかけて来たら、「憲法
で武力行使をしないことになっているので、日本は攻撃しないにようにしてほしい」と言うのかもしれない。
あんがい、イスラム世界の内戦や過激派のテロの問題は西洋諸国とキリスト教の歴史的責任で、日本
には関係ないと思っている人も多いのかもしれないけど。

日本でもシリア渡航を企てて捕まった大学生がいたけど、その前にも反政府勢力に加わって戦闘に参加
した日本人がけっこういたらしい。イスラム教に改宗したそうだけど、参加の動機と言うのが「力試し」とか
「生きるか死ぬかの勝負をしたかった」とか、まるでゲーム感覚。主義主張のかけらもないから、改宗も
そう言われて便宜上そうしただけなんだろうと思う。だから「ママにばれて家から出してもらえない」なんて
いう呆れた「戦士」も出て来るんだろうな。それでも、いずれは渡航してISに洗脳されて、異教徒殲滅の
ために日本に帰って来る人が現れるかもしれない。外見だけで目立ってしまう外国人と違って、日本人
は注目されずに日本中どこでも行けるし、その権利を民主国家によって保障されている。まあ、ゆとり教
育世代がそこまで本気になれるかどうかは疑問だけど、日本のかっての連合赤軍は本気で共産主義を
狂信していた。

最近は政治や宗教の狂信的な過激主義者でなくても、がちがちに固まった主義主張を何が何でも変え
るものかという人たちが世界を支配しつつあるような気がする。おびただしい情報や映像が瞬時に世界
中に拡散する時代に疲れて来た人たちが、ある日どこかで見たもっともらしく思える見解を鵜呑みにして、
My mind is made up so don’t confuse me with factsと、異論に耳を傾けるのを拒むようになったのか
もしれない。つまり、自分の意見はもう決まっているんだから、事実なんか持ち出して来て混乱させるな、
ということだけど、そういう「ダメなものはダメ」式のある意味でデジタル思考が巷にも浸透しつつあるの
かもしれない。人間がここまで多様化を推し進めて来られたのは元々アナログ思考だからだと思うんだ
けど、今の世界は物事についてれこれ考えるよりも感性で物事に「反応」する方がよほど楽なんだろうな。
若い頃に何度も聞いて感銘を受けた『サウンズ・オブ・サイレンス』に「People hearing without listening」
という一節が予言的に思えて来る。人々は聞こえて(hear)いるけど、聞いて(listen)はいない。また話が
逸れて来た・・・。

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