極楽とんぼは風まかせ

東は東、西は西。交わることなき二つとはいえ、
広い太平洋、東の風が吹き、西の風が吹き・・・

「らしさ」と言う呪縛

2014年11月16日 | 今日の風の吹きまわし
ほんの短い間だったけど、日記ブログの方をちょっと留守がちにして、「気持の上での放浪の旅」をして
みた。この年になっても、知らずにストレスになっていたりすると些細なことで心が揺れることがある。半
分引退したつもりでも半分はまだ現役なので、毎日英語、日本語の新聞を読んで回るんだけど、日本の
大手新聞の記事に不気味なxenophobiaのトーンを感じるようになって、気が滅入って来ていた。前から
「何にも伝えていないじゃないか」という感じはしていたけど、知的でやや左よりの教養人だと思っていた
人までがねっとうよのようなことを口にするようになって、何となくぞっとするものを感じた。

日本で最初にエボラ熱騒動が起きたときの報道はかなりきな臭かった。最初は「40代の男性ジャーナリ
スト」だったのが、「カナダ国籍の日系人」、最後には「カナダ人男性」と変わって行った。ねっとうよが目
の敵にするアメリカの有力新聞の記者だと言われているけど、それが正しければ日本生まれの日本人
で、カナダ育ちのカナダ国籍。カナダのパスポートには「出生地」の記載があるから、ひと目で日本生ま
れだとわかる。それが、ノーベル賞受賞のように都合のいいときは外国籍でも「日本人、日本人」なのに、
今回は「日本人ではない」と強調するように「日系人」、「カナダ人」で、エボラ熱報道のために行ったアフ
リカでは患者に触れなかったからそう申告したんだろうに、「(外国人が)嘘をついた」と言わんばかりの
書き方だった。(陰性とわかった後は「未明」という変則的な時間にこっそり退院させて、幕引き。)

日本のメディアは読者にいったい何を知ってもらおうとしたのかな。有力な全国紙でさえこうなんだから、
ネットのメディアのトーンは押して知るべしだけど、「不都合な真実」は知らせるべからずが日本のメディ
アの姿勢だとしたら、お隣の中国とどこが違うのかと思ってしまうし、(特に海外から)ちょっと批判的なこ
とを言っただけで反日だ!と攻撃するねっとうよ族は、イスラム以外の存在は冒涜だ、殺せと喚く狂信者
の蒙昧さとあまり変わらないように見える。だけど、日本人は新聞への信頼度が世界でも際立って高い
国民なんだそうな。素直と言えば素直な国民なんだろうけど、裏を返せば世界でもきわめてマインドコン
トロールしやすい民族とも言えるかもしれない。まあ、(ブックマークを削除した)某新聞を毎日(信頼して)
読んでいたら、知らないうちに排外的思考になっても不思議はないかな。

それにしても、日本はもうワタシが育った日本ではなくなってしまったのかと思うたびに、心の中でさざ波
が立つのはどうしてだろう。日本へ行けば常にパスポートを所持していないと入管法違反で逮捕される
「外国人」だけど、それを不満に思ったことはない。That’s thatなんだから。カナダでは地のままでいても
よそ者扱いも、差別も、排斥もされない。ここがワタシの国なんだから。でも、カナダ的にはごく普通のカ
ナダ人のワタシも、日本的には自意識が強くて、空気を読めない自己中的な存在ということになるらしい。
いや、日本にいた時からそうだったんだけど。でも、それが問題だったのなら、日本に籍さえない今はもう
問題ではないはずなのに、何で・・・。

2人の1日が終わって、グラスを傾けながら話をしているうちに酔っ払って泣き上戸になってしまうワタシ
(昔は楽しい酔っ払いだったのに)。どうして日本を離れて20年以上も経ってから、会ったこともない日本
人に、日本人らしくない、日本人を捨てた外国かぶれ、日本人の恥だと糾弾されなければならなかった
のか。その話になるとカレシもつらいのはわかっている。わかっていても、15年も答が見つからないから、
蓋をしてある感情が溢れ出して来てしまう。いつも結局は答が見つからないままだったけど、それが「キ
ミが日本人らしくないから恥ずかしいと言った連中の方がよっぽど日本人らしくなかった。やっとそれがわ
かった」と言うカレシのひと言で目からうろこが落ちたような気がした。

日本人らしさ。女らしさ。○○らしさ。日本ではどこを向いても○○らしく、○○らしく。地の果てまで行って
も異文化に染まらないことを誇りとする人たちは、ほんとに日本人らしい日本人ということなんだろうな。
だから、世界のどこにいても精神空間では日本で暮らせて、どれだけ長く日本を離れていても、浦島さん
にはならないし、どんなに日本が変わっても気持がざわつくことがないんだろうな。すごいことだよね。い
くら絶対にDNAが日本人でも、子供のときから何かと世間一般の「枠」からはみ出していたワタシには
できそうにない。「らしさ」というのは他人について「持っているはず」と思い込んでいる性質(ステレオタイ
プ)のことのように思えるから、ワタシにとって「らしさ」を求められるのは自分とは別の人格であることを
要求さるようなもので、本能的に抵抗してしまうだろうと思う。「自分らしさ」だって、「自分」を肯定できてい
ないから、「かくありたい姿」として探し求めるんじゃないかと思う。「らしさ」は人を縛る黒魔術なんだ。

この夏、北海道から駆けつけてくれた幼なじみと東京で積もる思い出話をしていて、やぶから棒に「あん
た、日本を出て正解だったね。日本にいたら潰されてたわ」と言ったのを思い出すな。潰されていたかど
うかはわからないけど、幸せではなかったかもしれない。別の友だちには「何度突き放されても、それで
も母親を追いかける子供みたい」と言われたこともあって、そのときも同じようにもやもやしていたような
気がする。ワタシのさびた日本語ではよく言い表せないけど、まさに「らしさ」の呪縛にかかって、本来の
「自分」を疎かにして、自分自身が知らない「自分らしさ」をありもしないところで探していたのかもしれな
い。気持が落ち着いてやっとベッドに入って、カレシが言ってくれた。「キミには日本人が要求するような
Japanesenessはないかもしれないけど、日本はもうキミの国じゃないんだし、カナダはキミはカナダ人
なんだからそのままでいいよって言ってるんだし、オレとしても今のままのキミでいてくれるのが一番うれ
しい」。ありがとうね。やっと呪縛が解けたような気がする。Let it goだよね、Let it go。

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