マオ猫日記
「リヨン気まま倶楽部」編集日記
 



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 この世の中には無数の「正義」(実質的事件)がありますが、全ての「正義」の根底には、「等しい者を等しく扱え」(あるいは、「実質的正義は平等に適用されるべし」)という「形式的正義」という概念が存在します。例えば、「年少者は年長者を敬うべきだ」という(実質的)正義を主張する者は、その主張を全ての場合において均等に適用しなければならないのであって、「自分や○○さんだけは例外で、年長者は敬わなくてもよい」というのは形式的正義に抵触し、もはや正義ですらありません。その意味では、殺人とは「他人の生命を尊重しない」行為であり、かかる行為を行った加害者の生命を尊重することはむしろ不正義であって、加害者は他者に対して「自分の生命を尊重してくれ」と主張することはできません。無論、殺人事件といっても情状は様々であり、場合によっては「他人の生命を尊重する」意思が認められる場合もあり得るので、その程度に応じて罰を軽減することは当然であり、また軽減することが普遍的正義の要請に叶っている場合もあります。しかし、かかる例外的軽減は別として、原則として殺人事件の加害者に対しては死刑こそが原則であるべきであり、またそれだけが正義の要請を満たすと言えるのです

 ところがこれまで、我が国の刑事司法は、専ら政府がその秩序を維持するために、犯罪者たる国民を権力的に逮捕・起訴・拘禁することで行政目的を達成するという「刑事行政」として行われ、刑法学や刑事関係の弁護士らもまた、この「刑事行政」を前提に、国家の強大な行政権限から被疑者・被告人たる国民を守るという方向でしか議論を行ってきませんでした。被害者は検察側が提示する「証拠」の一つでしかなく、被害者が刑事裁判に出席する「権利」や意見を陳述する「権利」は認められず、加害者に損害賠償を請求するためには別途民事事件として裁判を起こすしかありませんでした(一連の法改正後も、被害者の出席や陳述は裁判長の裁量権に任されており、「権利」として確立されたとは言えない)。刑法学者や人権派の弁護士らは長らく「被害者の権利を強めることは刑事行政における国家の権力を強化し、加害者=被告人の人権を弱める」として被害者の権利を擁護することはほとんど無く、被告人に対する刑罰にしても「できるだけ軽くする」ことに主眼が置かれ、ために被害者は自らの正義を実現する機会すら奪われていました(昔は法廷内に遺影を持ち込むこと自体、裁判長によって禁じられたことが多かった)。

 そもそも刑事裁判は、国家が犯罪者に刑罰を課して治安を維持するという「行政」的側面とともに、「司法」、即ち過去に発生した平等な当事者間の具体的な紛争について、その法的側面に中立な第三者が法的な判断を下すことによって紛争を処理するという側面も存在します。この場合その「当事者」とは加害者と被害者であって、刑事事件であると民事事件であるとを問わず、この当事者たる被害者が裁判に参加できないような制度は、そもそも「司法」制度とすら呼べません。しかも、その法廷において、「他人の生命を尊重しない」態度をとった者の声明を尊重するような、即ち形式的(普遍的)正義論からして不正義の判決が出るのであれば、今回の事件の一審判決時に本村さんが吐露したように、そもそも刑事裁判制度自体の存在意義、その正義性が問われる事態に立ち至ります。無論、仮に本村さんが福田被告に仇討ちをすれば本村さん自身も罪を免れることは無いでしょうが、それは「他人の生命を尊重しない」罪(殺人罪)ではなく、「『他人の生命を尊重しない人間』の生命を尊重しなかった」罪に減じられることでしょう。

 以上の点からすれば、今回の事件においては、「他人の生命を尊重」する態度が微塵も認められない被告人(ちなみに、裁判中、拘置所で知り合った知人に宛てた手紙では、「ありゃーちょーしづいてる」と遺族を中傷・侮辱する言葉を記していたことが報道されており、その一点からしても改悛の情は認められない)は死刑にこそ処されるべきであり、無期判決を「著しく正義に反する」(ここで使われている「正義」の語は正に「形式的正義」を表すものと言えましょう)として破棄した最高裁判所の判断は極めて適切だったということができるのではないでしょうか

 最後に、被害者の権利確立に奔走している本村洋さんの活動に深甚なる敬意を表するとともに、被害に逢われた御二人の冥福を改めて祈念したいと思います。
  



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
Unknown (imaichi)
2006-06-25 09:41:26
相変わらず論理的な素晴らしい文章ですね。



「裁判所が加害者を死刑にしないのなら、自分が死刑にする」

父として、夫として、ごく当然の言葉だと思います。

この言葉に対する心ない罵声の数々に耐え、自らの感情を押し殺して、被害者権利拡大に紛争する彼の意志の強さは本当にすごいと思います。

私ならどうするか・・・想像すらできません。

最古の法典「ハムラビ法典」に記載されている「目には目を、歯には歯を」というのが最も合理的かつ抑止効果の高い考え方なのでしょう。

欧州を中心に死刑制度への反駁が強まってる昨今の風潮に甚大なる危惧を抱いております。
 
 
 
imaichiさん (菊地 健(マオ猫日記))
2006-06-26 07:53:50
 コメント投稿、ありがとうございました。



 上記は年来の私の主張で、数年前に青少年による凶悪犯罪の増加に対応するため少年法改正問題が議論されていた際も、当時主催していた別のサイト(今の残骸?が残っておりますが・・)で同趣旨のことを色々と書かせて頂きました。法学会や矯正保護関係者からは、「青少年の保護・矯正」という少年保護「行政」の視点からの狭い議論(厳罰化しても少年非行の抑止効果は期待できない、刑務所は犯罪学校であり却って再犯率が高まる、少年は立場が弱いので検察官と対決させる対審構造はとるべきではない、等々)しか出てこず、形式的正義論の観点からの議論が全くなされなかったのが極めて遺憾でした(例えば、厳罰化は正義論の観点からは抑止効果を狙ったものではなく、ために抑止効果がたとえ0であっても正義論者には(議論の地平が異なるため)何等の反駁にもなりません)。



 それでは。

 
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