「21年8月25日 M病院にてPET検査
21年9月1日 H病院にてMRIの検査
21年9月2日 夜痛む(腹)
21年9月3日 T也の勤めるS大医療センターに行き
助教授S先生に診て頂き
オキシコンチン錠
オキノーム錠
ノバミン錠
マグラックス錠 を頂く
21年9月4日朝より飲み始める
オキノーム散2回のむ
この薬をのんでいると痛み全然なし
21年9月7日 S大医療センターのS教授にお話を聞き9月9日に造影剤を入れて
CTを撮ることになった
21年9月9日 S大にてCTを撮り造影剤を入れたが造影剤での異状は出なかったが(※註1)
CTの結果は同じで膵臓の尾の方にガンが有り肝臓の方にも3,4個の
転移したガンが見えた。
明日はM先生という女性の方が抗癌剤の注射(※註2)をしてくれるそうだ
S子も毎日で大変だと思う
主人もいつもついて来てくれるので疲れている様だ」
※註1 母は薬のアレルギーが少しあるのでそれまでは念のために
造影剤を入れたことはなかった。
※註2 実際は「注射」でなく点滴。
弟は、最初に母からの電話を受けたときにはそれほど大変な状態とは受け取らなかったようだ。
母自体、楽観的だったし説明もあいまいだったのだろう。
「ガンじゃなくて『のう胞』(良性)なんじゃないか?」と弟は思っていたそうだが
直接担当の医師に電話し説明を受けると予想外の深刻な状況に驚いた。
一度弟の勤めるS大医療センターのほうでも診察を受けてから
今後の方針ーどの病院で治療を受けるかなどーを決めることになったが
2日の夜にまた強い痛みが来たので翌3日、急遽S大に予約を入れてもらい
H病院から全ての資料を受け取って車で1時間強のS大へ初めて向かう。
7日に診察を予約していた教授の先生はこの日休みで、助教授の先生に診てもらう。
手術は不可能なので今後化学療法と薬で対応する、という説明を受ける。
H病院ですでに手術は不可能という説明を受けていて、さらにここでも同じ説明を受けたわけだが
母は「どうしても手術は出来ないのですか?」と食い下がり、できないと言われる。
しかし、帰りの車の中で母は
「助教授の先生はああ言ったけれど教授の先生はどう言うかしらね」
と、まだ手術への希望を捨てきれていなかった。
私はこの日、先生が走り書きした病気の説明書きに「モルヒネ」の文字を見つけてショックを受ける。
私の中では麻薬で痛みをとるのは最終段階というイメージが強かったので
改めて母は「末期癌」なのだという実感が湧いたのだ。
9月7日にはもともと予約を入れてあった教授の先生の診察があり、
「手術はできないか」と3度目の質問をし「抗癌剤で治るんですか」とも訊く。
先生はできない、治らないとはっきり言うことはしなかったがもちろん肯定もせず
母は恐らくこの日に初めて大きな絶望感を味わったのだと思う。
帰りの車の中ではずっと虚ろな表情でぼーっとしていた。
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転移したガンが見えた。
明日はM先生という女性の方が抗癌剤の注射(※註2)をしてくれるそうだ
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主人もいつもついて来てくれるので疲れている様だ」
※註1 母は薬のアレルギーが少しあるのでそれまでは念のために
造影剤を入れたことはなかった。
※註2 実際は「注射」でなく点滴。
弟は、最初に母からの電話を受けたときにはそれほど大変な状態とは受け取らなかったようだ。
母自体、楽観的だったし説明もあいまいだったのだろう。
「ガンじゃなくて『のう胞』(良性)なんじゃないか?」と弟は思っていたそうだが
直接担当の医師に電話し説明を受けると予想外の深刻な状況に驚いた。
一度弟の勤めるS大医療センターのほうでも診察を受けてから
今後の方針ーどの病院で治療を受けるかなどーを決めることになったが
2日の夜にまた強い痛みが来たので翌3日、急遽S大に予約を入れてもらい
H病院から全ての資料を受け取って車で1時間強のS大へ初めて向かう。
7日に診察を予約していた教授の先生はこの日休みで、助教授の先生に診てもらう。
手術は不可能なので今後化学療法と薬で対応する、という説明を受ける。
H病院ですでに手術は不可能という説明を受けていて、さらにここでも同じ説明を受けたわけだが
母は「どうしても手術は出来ないのですか?」と食い下がり、できないと言われる。
しかし、帰りの車の中で母は
「助教授の先生はああ言ったけれど教授の先生はどう言うかしらね」
と、まだ手術への希望を捨てきれていなかった。
私はこの日、先生が走り書きした病気の説明書きに「モルヒネ」の文字を見つけてショックを受ける。
私の中では麻薬で痛みをとるのは最終段階というイメージが強かったので
改めて母は「末期癌」なのだという実感が湧いたのだ。
9月7日にはもともと予約を入れてあった教授の先生の診察があり、
「手術はできないか」と3度目の質問をし「抗癌剤で治るんですか」とも訊く。
先生はできない、治らないとはっきり言うことはしなかったがもちろん肯定もせず
母は恐らくこの日に初めて大きな絶望感を味わったのだと思う。
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私は 母の入院中に フコイダンをちゃんと飲んだか 見舞いに来た身内みんなで記録して 飲んでない日がないようにしようと小さな手帳を母の病室に置きました。
そのうち あまりに急激に、日々弱っていく母の様子をみんなが記録するようになりました。何度読み返しても ついこの間まで食事してたのに・・・ついこの間まで水、普通に飲めていたのに・・・悔しくて悔しくて泣いてしまいます。
でも その手帳には母自身の文字はどこにもないので りりぃさんの経過帳、お母様自身の言葉があって うらやましいです。りりぃさんも 読めば読むほどお辛いと思いますが・・・・。
私は この手帳を 2度と同じ過ちを繰り返さない為に 今も大事に、これからも大事になおしておきます。
苦しさや辛さの表現も実際より淡々と書かれていて、
むしろ感謝や希望の気持ちが書いてあるのを見ると
おっしゃるとおり胸がしめつけられます。
華さんの手帳はご家族皆さんのお母さんへの思いが詰まっていて
辛いけれど宝物でもありますね。