戦前の天皇制は複雑ではあるが大きく分けて2種類に分けられる。
国家の枠組みの中に天皇を配置して考える天皇制と・・・天皇機関説
国家の枠組みを超えて、天皇制を考える天皇制・・・天皇主権説
後者の方が極端に見えるだろうが、北一輝、大川周明らの理論は前者であり、美濃部達吉も前者である。
出口王仁三郎といわゆる皇道派は後者にあり、前者は統制派である。
統制派に属する永田鉄山は殺害されたが、その部下であった東條英機もまた統制派であ。
永田がいれば軍部が変わっていたともいわれるほど存在感のある人物であったが、実はファシストを崇める謀略家で、実際には皇道派を陥れたといわれている。
2.26事件は皇道派が仕掛けたといわれているが、実はバックには統制派がいた。
しかしながら当時の青年将校達はこうした理論の違いが結局どういう結果を産むかをしらなかった。
有名な2.26の仕掛け人いわれていた北一輝は統制派の一人であった。
北一輝は出口王仁三郎に協力を求めたが、うまくあしらわれて返されたとい。
皇道派の真崎甚三郎は評価が低く、昭和天皇からも疎まれていたようだが、
彼の北一輝、大川周明評は正しい。
彼は「思想問題を研究し、北一輝の『日本改造法案大綱』はロシア革命におけるレーニンの模倣でありそれを基にした国家改造は国体に反する、大川周明の思想は国家社会主義であって共産主義と紙一重の差である、と結論づけた。そして軍人の革新運動への参加は、軍を破壊するだけでなく、国を危うくすると認識し、軍人がそうした思想家に近づくことを警戒していた」
・・・・ウィキペディア
極東裁判でも「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」との評価から無罪になり、釈放された
彼の日記によれば「日本の滅亡は主として重臣、特に最近の湯浅倉平、斎藤実、木戸幸一の三代の内大臣の無智、私欲と、政党、財閥の腐敗に因る」
としている。
木戸幸一については、統制派のトップ東条英機を推挙した人物として有名である。
東條に罪ありとせば、東條を推挙した木戸にも大きな罪があるが、そのことはあまり語られていない。
内大臣に問題があったことを指摘する資料はあまり表面に出てこないが、事実であろうと推察する。
昭和天皇は天皇機関説に反対さえていなかった。といわれている。
イギリスの立憲君主制を学び、過去に直接介入して失敗した苦い経験をもっていたからである。それゆえ、皇道論者が極端に見え、人選を誤られたともいえる。
昭和天皇は明治天皇の時のように人がいないといわれたが、在野には出口王仁三郎のごとき天才がいた。戦略の天才としては石原莞爾もいた。
内大臣が人選を誤ったということに尽きる。
石原莞爾は、満州事変を成功させたが、中国に侵攻しないという天皇の大局的な判断に反していた。
結果を考えると日本は満州事変をおこすべきではなかった。天皇陛下の判断が正しかった。
石原莞爾は戦略の天才ではあっても、外交のすべての事情を呑み込んでいるわけではなかった。
彼はどちらかといえば、真崎甚三郎を馬鹿にしていた。
2.26事件の時は反乱軍を穏やかにおさめようとする彼を面罵して、強硬鎮圧に動いた。
このときの石原完爾の行動は天皇陛下の考えと一致していたため、陛下は満州事変を起こした石原を分からない人物と評している。
つまり陛下は石原完爾の欠点と長所を完全に把握してはいなかった。
石原完爾は統制派とみなされていたが東条とは対立していた。
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