国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

戦前戦後の勘違い

2013年05月05日 | 考察

 権力にはそれを制限するための機構が必要だと言う。

 戦前が政府が権力をほしいままにし、暴走して戦争に突っ込んだとみているからだ。

 しかしこれは厳密に言うと誤解している面がある。

 わが国の最高権力者は天皇陛下であり、実は天皇陛下の権限を中途半端に制限する明治憲法をつくったものだから、天皇陛下は憲法の仕組みに遮られて軍部の統率、経済の統率が十分出来なくなってしまったのである。

 嘘だと思うなら憲法成立過程と戦前の混乱を詳しく精査するといい。

 元田永孚(もとだながざね)は明治憲法成立時にこのことを懸念していた。

 伊藤博文が中心になって憲法は作られたが、伊藤はドイツで散々国教の重要性についてアドヴァイスを受けながらも、我が国の伝統的な祭祀について判断する知見がなかった。わが国の神道の真髄にめぐりあうことなく、立憲君主制を日本に導入した。彼がいかに日本の風土にあった憲法にといってもそのあとは見て取れる。大日本帝国憲法もまた欧米の憲法を日本に合わせたものに過ぎない。

 ただ保守的な考えをもった重鎮の反対にあって解釈の余地あるものにしておいたので、穂積八束、上杉慎吉らが大日本帝国憲法により君主立憲論を説き、美濃部らの立憲君主論である天皇機関説を排斥したが、陛下ご自身が憲法を遵守され時代の流れを御心に映されていた。つまり憲法停止などの議論に組されなかった。

 残された資料では陛下は立憲君主としてのお立場を極力通されようとされていたご様子である。これには若いころの経験が影響しているそうだ。張作霖爆殺事件で軍部が陛下の指示に従わなかいばかりか、陛下の意思にたがうような行為を行った。陛下は間に立って苦慮した田中義一総理に辞職を迫った。総理が辞職、内閣が総辞職してしまった。このことがあってから陛下は反対の意見があっても裁可を与えるという形をとるようになったといわれている。

 つまり陛下の意見表出は時には組織が腐っていると組織を崩壊させてしまう。戦争の開始についての陛下は反対であった。しかしその意思を強く表出して何が何でも軍部の、総理の意見を否定することになれば国の中枢組織が崩壊し、機能が停止するおそれがあった。

 秩父宮様は憲法停止と天皇陛下親政の考えを持ち陛下とも口論されたといわれている。出口王仁三郎も君主立憲、わかりやすくは天皇陛下の独裁でいいといっている。

 しかしこの時それを行えば、国論は割れ、責任者が腹を切ったり辞退するなどして国が機能を果たさなく恐れがあった。陛下が表に出てなぜ国論が割れるのかと思われるが、そもそも中国への侵攻を陛下は望んではいなかった。それを軍部が既成事実を作って前に進めてしまった。その前例がまた軍部に連鎖的に起こり満州事変の立役者石原でさえとめられなくなるほどの勢いをもっていた。

 つまり、すでに軍部は天皇陛下を崇めながら天皇陛下のいうことをきちんと聞いていなかったということになる。

 陛下は大局的に判断されていた。張作霖を爆殺すればいいという陸軍の判断はのちに国としての判断としては非常に稚拙であったということが分かる。

 日本の君主政治というのは欧米の専制主義とは違う。君主と国民の気持ちが一体となって初めて機能する。機構だけを当てはめても、国民が納得しなければ、君主立憲は意味をなさないばかりか機能しない。

 ゆえに陛下はぎりぎりのところで立憲君主として行動せざるを得なかった。

 

 君主立憲とは美濃部らの説く憲法によって君主をする立憲君主ではなく、天皇陛下の独裁で憲法作成を指示し、天皇陛下が憲法を道具として国政を動かし、必要とあれば陛下の独裁で憲法を改正も停止もできるものということである。

 現在からすれば乱暴な説であるが、国教樹立ということも含めて宗教的統一国家を考えるならばこれは世界最強の平和国家になる。

 ただ日本国民は神など存在しないという人も増えて、まして天皇陛下の神話などに耳を傾けようとはしない。これも教育のせいなのだろう。

 実際にシャーマニズムは存在し、脈々と生きている。ただ表層には現れずまた玉石混交、危ういものも多い。

 正しい宗教が確立して思想の背骨が確立すれば、教育も政治も悩むことはない。

 しかしそんなものがないと思っているところが現代人が蠢動してうつになる原因でもあるのだろう。

 


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