国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

神政復古

2016年09月25日 | 考察

論点を整理する。

現代の日本人には受け入れがたいこと。

①神々が実在するということ。神々の中にヒエラルキーがあり、皇室の祖先が日本統治の神であること。

神には見えない神と人間の形を持って存在する神が存在するということ。

神には善神と悪神が存在するということ。

人間の姿をした神は、人間との区別がつきにくいこと。(ナガスネヒコは最後まで認めなかった。)

天皇は神の直系であるということ。

②祭政一致が正しいということ。天皇親政が正しいということ。天立君主立憲がただしいということ。

③民主という言い方は君主を裏返した、虚構論理であり、多数の民をそのままでは意見が分裂してしまうから、多数決と代表制、議会などで一つの意見を選びだしてそれを国民の意見として通す方法を民主主義とみなした。

もし複数の君主がいる場合、彼らが議論して一つの意見を出しても君主制とは言わない。主は一人であり、民は複数であるため主になり得ない。なり得ないものをなるとみなして擬制したのであるから当然矛盾が起きる。

こうみると決定的な理解の違いは「神」を認めるかどうかということになってくる。

これは難しい。日本の神は、キリスト教の神と違い、むしろギリシャの神に近い。

キリスト教でいう天使も含んでおり、ゆえに堕天使もある。

出口王仁三郎は見えたというが、一般的には見えない。

宇宙がその姿とすれば、宇宙の精神であり、地球が姿とすれば、地球にある魂ということであろうか。

人間的な思考を持ちつつも、それを越える思惟がある。

天皇はシャーマンとして活動することでで、国政を総攬する。神の意思を伝える。本来は。

しかし日本書紀などを見ると、天皇も悩んでいることがあり、あの崇神天皇でさえ、神の意思を夢で問うている。

すなわち、神と天皇とに距離がある。天皇は神と民をつなぐ祭司長であろう。

 

故に天皇が退位を表明すれば、大臣国民がそれを許さないというのは本来ならば天則違反である。

天皇が政治的意思を表明しない、表明してはならないというのは憲法の檻であり、国民は神を信ずることができず、欧米の民主主義という虚構論理で国が運営できると信じて、天皇を政治から引き離して象徴にしている。

神はいままでこれを許容してきた。天皇は人間の側に立って国民との協調に配慮してきた。国民が決めたことを守り、また神への祭祀も行ってきた。

これは無理強いでは、国民と神と天皇との一体化は生まれないからである。

自然のうちに化するという方法でなければ、国民が心服し、自然のうちに悟るようにならなければ、上下そろわず、神政はうまくゆかないからであろう。

まず、我々は神への信仰を取り戻すべきだろう。

団塊の世代は神を否定した者が多く、若者はその世代に育てられた。そしてその次の世代は全く神を知らない。すべてでないにしても。

天皇とは統治者という意味である。統治者は政治にかかわらず、統治される国民が統治者であるというのは全く理屈になっていない。それが日本国憲法の正体である。

占領軍は天皇制が問題だと考えて、天皇の権威を制限する憲法を作った。そこで育った国民は天皇制の意味が分からなくなった。

遡れば明治憲法の誤りは、天皇制を強化したことでなく、天皇に制限を設けたことである。

世間一般の戦前の憲法解釈が逆なのだ。これに気づかねば改憲は失敗する。

天皇の意思が通るような憲法の構造であれば、天皇親政が原則であり、議会も政府も軍も天皇直轄であり、立憲君主でなく、君主立憲であれば、統制が取れ、ロシアとの戦争も、中国との戦争も起きなかった。

元帥らの良かれと思う行動が、陛下の意思を歪め遮った。

議会と軍部が対立したのは、陛下が号令をかけるシステムができていなかったからであろうが、

その遠因となったのは天皇制の根幹である国教が崩壊して、神道内部で祭神論争などがおき、国政を安定させることができなかったからである。

天皇家が縦の糸とすれば、横糸は国教樹立し、それを教育し、習慣を確立すべく、国民を育ててゆかねばならないが、そのような人材が明治初頭にはいなかった。

私は出口王仁三郎が、天皇家を縦糸とし、王仁三郎自らを通して広がる世界観を横糸として、両方が絡み合って行動が実現すると考えていたとみている。

つまり出口王仁三郎の言う皇道とは、天皇家を証する本来の神道だったのである。

だのに政府官憲は、天皇を僭称する存在として勘違いして大弾圧を行ったのである。

 

 

 


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