goo blog サービス終了のお知らせ 

みーちゃんとまーくんの2人言

Mダックス・レオン&みーちゃんとまーくんの日記から、2008.11.27以降、すっかりみーちゃん母の乳ガン日記に移行

4月21日(2)

2011-06-07 10:27:39 | レオン
4月21日


火葬場に向かう霊柩車からも 満開を少し過ぎた桜が見えた。

また母に“お母さん桜だよ、見てる?”と話しかける。

ほんの10分ほどで着く距離。

あっという間に火葬場に着いた。

霊柩車から降りる。

母の棺も下ろされ、火葬場へと運ばれた。

お経をあげてもらいながら、最後のお別れ。

皆で母の顔の回りを花で埋めつくす。

叔母達、母の親友は手紙も入れた。

私は 母の側から離れたくなかった。

最後の花がなくなるまで、母の頭を撫でたり 頬に触れたりしていた。

ありがとう、ありがとう。と何度も言いながら。

父が近付いてきて“お母さんの棺に涙を入れちゃ駄目だぞ。こちらに未練が残るから”と言われる。

そして“紫の花(デンファレ)は顔から離そう。色が着くから”と言った。

母の棺の蓋が閉められる。

火葬炉の前に運ばれる。

火葬炉の扉が開く。

本当に最後のお別れ。

読経と共に 母の棺が火葬炉へと進む。

本当に嫌だった。

声を出さなくても、目を開けなくても 家で横になってくれているだけで良かった。

そこにいてくれるなら。

これで本当にお別れ。

涙が溢れ、お母さん、お母さん と何度も叫んでしまった。

すぐ横に叔母、従姉妹がついていてくれ、叔母はしっかりとした声で

“みーちゃん、お母さんを安心させてあげよう。ちゃんとお別れを言おう”と言ってくれた。

私は“お母さん、ありがとう”と 何度も言った。

火葬炉に入り、扉が閉まる。

一時間半ほどです と言われる。

皆で控室に行き、お寿司や精進料理を食べた。

やはりお腹は空かない。

稲荷と太巻き、煮豆を食べて終えた。

従姉妹についてきてもらい、外に出た。

ここにも桜の花が咲いている。

母も見ているだろうか?と思った。

従兄弟にカメラを預け、母の記録として写真を撮ってもらっていた。

青空の下で、皆で写真を撮った。

出来上がった写真を見ても、私たち家族に笑顔はなかった。

お骨になったと連絡が入る。

皆で移動する。

母のお骨と対面。さっきまで見ていた顔はそこにはなく、ほんのりとピンク色に染まったお骨があった。

悲しい というよりも、あぁ骨になっちゃった という落胆の方が大きかった。

お骨に 喉仏はなく、歯が二本、あとは頭蓋骨を少し割り 別の小さい容器に入れる。

順番に骨を拾う。

皆が拾い終わり、まだ残っていた骨を 父と兄と共に 手で拾った。

最後に頭蓋骨で蓋をした。

歯が二本残っていて、最後まで歯を大切にしていて、歯磨きをしたがった母らしいな と思った。

お骨がピンクに染まったのも、花が大好きな母らしく、向こうの世界にもお花を持って行ったんだろうな、お花と一緒だ、と思った。

私はお骨を持ち、セレモニーホールへと戻った。

初七日の法要をした。


全てが終わった。

着物を脱ぎ、洋服に着替えた。

今までお世話になった皆にお礼を言って回った。

本当に 全てが終わった。

従姉妹はそのまま東京に戻り、叔母たちも帰った。

私は骨壷に入った母を抱きしめ、家へと帰った。

家の床の間には 祭壇が用意されていて、母の骨壷を一番上に置いた。

位牌、遺影も置いた。


これで本当に終り。

もう病院にも行かなくていい、胸にどんどん広がっていく癌も見なくていい。

そして母は、もういない。


本当にありがとう。ありがとう。と、それしか言えなかった。




これが通夜、葬儀の様子です。

読んでくださってありがとうございました。

4月21日

2011-06-07 06:07:14 | レオン
4月21日


葬儀の日。


朝5時には目が覚めてしまった。

また母の顔を見に行く。

何度見ても、話しかけても名残は尽きず、あぁ、遂に最後の日の朝が来たか と思った。

棺に入った母にしてあげられることは、もう何もなかった。

6時を過ぎたころ、私は顔を洗う為、部屋を出た。

外は快晴。

晴れ女の母らしい、澄み渡った青空。

顔を洗って少しした頃、父と祖父が出てきた。

“最後の日やなぁ。いい天気になったなぁ”

まだ朝の空気は冷たく、受付にあったストーブをつける。

温かい飲み物はまだなく、自動販売機を見つけてコーヒーを買う。

6:30過ぎ。皆が起きてきた。

7:00。朝食。

食べ終えた人から準備を始める。

二人の叔母は、母への手紙を書いてくれていた。

私は髪を整えてもらい、着付けをしてもらう。

従姉妹もいて、目覚ましテレビでは 小雪と松山ケンイチの結婚の話題が流れていた。

従姉妹が“小雪だから、これだけ年下の子と結婚できるんやよね”と言った。

葬儀の日なのに、笑えた。着付けをしてくれたおばちゃんも明るい感じの人で、皆で笑った。

あぁ、こんなときでも笑えるんだなぁ と思った。

髪のセットと着付けを終え控室に戻ると、既に棺はなく、母は祭壇にいた。

親戚の皆も集まってきた。

母の親友も早くに来てくれ、朝、迷ったけど母への手紙を書いてきた と言ってくれた。

もう一人の人は、入院中の母に出すはずだった絵手紙を納棺の時に入れてくれていた。

9時過ぎ。

お参りに来てくださった方を迎えるため、父と兄と共に受付に立つ。

この日も、小中高と一緒だった私の親友が来てくれた。

私の母のことを慕ってくれ、年末に家に来て、夕食を一緒に食べたりした。

それだけに、まさかこんなことになるとは 彼女も思っていなかった。


この日もたくさんの方が来てくださった。

10:00

葬儀が始まる。

私たち家族は 皆に一礼して席に着く。

読経が始まると、やはり 私の横に母が座っていないことが不思議 という気持ちになる。

近付いてくる別れを思うと悲しくなる。涙が溢れる。

私の横で、祖母はやはり両手をモゾモゾさせている。

焼香。

葬儀委員長の挨拶が終わると、遺影、位牌、私は空の骨壷を抱いて会場を出る。

こんなに小さい所に入らなきゃいけないのかと思うと、本当に寂しい気持ちになった。

霊柩車の横に家族で並ぶ。棺が運び出される。

棺と 小さな骨壷を見ると涙が止まらなくなってしまった。

皆に一礼し、霊柩車に乗り込む。

霊柩車が走り出す。クラクションが鳴る。

これで本当にお別れなんだなぁ と思った。

4月20日(2)

2011-06-07 02:11:40 | レオン
4月20日


納棺。


母の顔の回りが 菊で埋めつくされる。

皆でお別れをし、葬儀屋さんが棺にふたをする。

棺が運び出される。

私も祖母も、ただ泣きながら棺を見つめることしかできなかった。

母の棺には兄が付き添い、斎場に向かった。

私は 叔父の車に乗せてもらって行った。

斎場までは、海沿いと そうでない道と、二つのルートがある。

叔父は海沿いを選んで行ってくれた。

明け方に降っていた雨もこの頃には上がり、青空もみられた。

こちらの道は海が見えるだけではなく、桜もたくさん咲いていて、とても綺麗だった。

お母さんも見てる?と言いながら 満開の桜を見た。

一緒に公園に行って見たかったなぁ。

叔母と車椅子用のタクシーまでチェックしていたのに、叶うことのなかった今年の公園でのお花見。

毎年、桜を見ると母を想うんだろうな と思いながら桜を見ていた。

斎場に着くと、母の棺がもう祭壇に来ていた。

たくさんのお花。

遺影の回りには 約束通りカーネーションもあった。

母の遺影の笑顔がとても優しく、温かい写真だった。

通夜までの間に夕食を済ませる。

食べ終わるとすぐに祭壇に行き、母の遺影を見ながら、

母が寂しくならないよう、棺のそばで過ごした。


18:00

父と兄と共に入口に立ち、弔問に来てくださった方たちを迎える。

本当にたくさんの方が来てくださった。

父は、仕事はしているが 定年を迎えパートの身。

そんなにたくさん来ないよ と言っていたけど、父の職場の方もたくさん来てくださった。

私の中学や高校の同級生も来てくれた。

高校卒業以来や、成人式以来会ってなかった友達も来てくれた。

知った顔を見ると、また涙が出てくる。

母は友達をとても大切にしていた。

“友達は大切。どこかに行こうと誘われたら断っちゃ駄目だよ”

友達に関しては、これが口癖で、今回の入院中、兄が“友達から誘われて”と言うと、

“行ってこられ。行ってこられ。”と言って見送っていた。

これまで言い出す者もおらず、同窓会をしてこなかった私たちの学年。

今回母が亡くなったことで再会でき、同窓会の話が出てきた。

きっと母が、友達と再会させてくれたんだろうな と思った。

通夜は椅子が足りなくて追加で用意しともらうくらい、たくさんの人が来てくださった。

きっと母もびっくりしていたことだろう。


19:00

通夜が始まる。

私たち家族は皆に向かって一礼をし、席に着いた。

読経が始まる。

やはり溢れる涙を止められなかった。

この時は、あと一日か という思いでいっぱいだった。

通夜の終りに焼香。

葬儀委員長の挨拶が終わり、私たち家族は出入口に向かう。

皆を見送る。

高校の同級生が駆け寄って来てくれた。

その子も、お父様を高校の時に亡くしていた。確か、がんだった。

その子は私に“大丈夫だから。今でも何かあると夢に出てきてくれて叱ってくれるんだよ。

話したくなったら今でもお墓に行くし。大丈夫だよ”と言ってくれた。

この言葉は本当に心強く、私の心の支えになった。

母ではないが、友達というのは本当に有難いものだと感じた。



お参りに来てくださった全ての方達を見送り、控室に行く。

部屋には母の棺が来ていた。

私たちは棺の窓を何度も開け、母に話しかけた。

この日は私たち家族と一緒に、祖父、叔母3人、東京の従姉妹、地元の従兄弟が泊まってくれた。

順番にお風呂に入り、皆で母の話をして過ごした。

最後の夜は線香をつけないので、線香の番もいらない。久しぶりに皆でゆっくりと眠った。

私は時々目が覚め、その度にそっと母の棺の窓を開け、母に話しかけた。




今まで本当にありがとうね。ありがとう。ありがとう。

4月20日

2011-05-27 06:52:27 | レオン
4月20日


納棺、通夜の日。


この日も朝から慌ただしく過ぎていく。

朝一番に、従姉妹、叔母と共に母に最後の化粧直しをしてあげる。

母が亡くなってから、毎朝 私が頬紅をつけ、紅をさしていた。

最後の日は、入院中、本当に私たちを支えてくれていた二人にもお願いした。


何度母の顔を見ても 穏やかに眠っているようにしか思えない。

17日に亡くなった母。19日、母に触れても温かかった。

祖父の時は、亡くなった翌日には体が冷たかったことを覚えている。

やはり母の場合、最後の高熱がそうさせたのかなと思っていたけど、

3日目にもなると、母の体もドライアイスで冷やされ、冷たくなっていた。

まだ母が目の前で寝ているから、それほど寂しさはなかったけど、

冷たい体が不思議だった。。


11:30

15時からが納棺予定。でもお寺さんの都合で読経だけを早めに済ませる。

やはりお経が聞こえてくると 悲しさと寂しさが込み上げてくる。

母が私の横に座っていないことが不思議だった。

読経が終わりお寺さんも帰った後、喪服に着替える。

母が生きている時に買い揃えた喪服。

複雑な気持ちになった。


この日は本当に慌ただしく過ぎていった。

ただ、母の側にいただけ。

線香を見て、母と話して、みんなと話して。昼食をとって。

食事の用意をしている叔母達も、順番に母の顔を見に来る。

皆が、母の顔がスッキリしてきたね と言う。

皆で思い出話をする。

前日に出した母の若い時の写真を見ながら、従姉妹たちと話す。

結婚式、新婚旅行、中学生の頃、働き始めた頃。

たくさん見て、祖父から 昔の母の話を聞く。

“意思の強い子でなぁ。中学が終わって、高校に行けって何度も言ったけど、働く!って言ってきかなかった。

美容院で働きながら、通信教育で美容師の資格取るんだ って、もう15歳の時に決めてたんだぞ”って。

このことは母からも何度も聞いていた。

“昔は実家が裕福じゃなかったからねぇ。姉ちゃんが高校に行って何かとお金いったし、

お金が必要になると、父さんと母さんが話しててねぇ。私は嫁に行く身やし、働こうと思ったんだよ”と。

父と共に母が長い間 コツコツと働いてくれていたお陰だ。

兄も私も、不自由を感じることなく育ててもらった。

感謝してもしきれない。

私は習い事もいっぱいさせてもらった。

写真に写っている若い頃の母は とてもオシャレだった。私たちが産まれる前の写真。

私の記憶の中の母もオシャレではあったけど、決して高いものは買ってなかった。

母は私たちに不自由をさせないように、自分よりも子供たちに と思うことが沢山あったんじゃないかと思った。

私は親になっていないから分からない。

でも母の思いの強さを 祖父との話で改めて強く感じた。



14:30

葬儀屋さんが、予定より30分早く到着。

元々の納棺予定は15時。

母の親友が読経の後、一度用事を済ませてから納棺に間に合うように戻って来るね と言って出ていった。

その方がまだ戻ってなかったから少し待ってもらった。

私はまだ母に家にいてもらいたかったのと、母の親友にも立ち会ってもらいたかったから

15時からにしてください と葬儀屋さんに伝えた。

葬儀屋さんは、こちらが早く来てしまったんです。時間通りにしますね と言ってくれた。

時間通りに母の親友が来た。


15:00

母が見えるように 皆が座る。

納棺が始まった。

母に掛けてあった布団が外される。

浴衣姿の母。少しむくんだ上半身に細い足が分かる。

その姿を見て、私の横で祖母が泣き崩れた。

みんな祖母を心配していた。

私も線香のばんをするからと言って、祖母も3時間の睡眠が続いていた。

順番が逆だ と何度も言って 肩を落としていた祖母。

20日の朝からずっと、座ると指をモゾモゾさせていて、気持ちが落ち着かない様子だった。

私は祖母の肩を抱き、大丈夫だからね と言うことしか出来なかった。

私の従兄弟たちが、母の旅立ちの準備をしてくれる。

足袋を履かせ、手甲、脚絆を付けてくれた。

その後 棺に納める。

叔父たちも手伝ってくれ、母を棺へと運ぶ。

ドッと涙が出てきた。叔母が隣で私を支えてくれた。

これでこの家から出なきゃいけないんだ と思うと いたたまれない気持ちになった。

母が棺に納まる。

ピンクで花柄の着物が被せられる。

パッと華やいだ雰囲気になる。

葬儀屋さんが、父、兄、私にカーネーションをくれ、お顔の横に置いてあげてください と言った。

私がお願いしていた、母の日のカーネーション。

母の顔の横に、ピンクのカーネーションが添えられる。

そして、棺に入れる物も渡してくれた。兄は歯ブラシを、私はCDを、父は手紙を。

順番に棺に納める。

納棺に来てくれた皆も 菊の花を母の顔まわりに置いていく。

皆が泣いている。

泣けて泣けて仕方がなかった。







なかなか思うように書けません。

体も精神も、凄く疲れてきました。

四十九日までは 母のことだけを想っていたい。

それだけが今の私の願いです。

4月19日〈 2〉

2011-05-18 06:19:39 | レオン
4月19日


19:30

内輪夜伽

40人ほどの人が家に来てくれた。

お経が聞こえてくると、やはり悲しくなる。

母が亡くなってからいっぱい泣いたけど、涙がなくなることはなく

内輪夜伽の間も、いろんなことを思い出しては泣き、

まだまだしてあげたいことがあったのに と思っては泣いた。

お経をあげてもらい終わりかと思うと、今度は大きい数珠のようなものが出てきた。

母を囲むよう、全員で楕円をつくり、皆でその大きな数珠を持つ。

再びお経が始まり、数珠を皆で回す。

この数珠の意味もよく分からず、この時だけは、涙もひいていったのを覚えている。

内輪夜伽が終わり、皆が帰って行く。



この夜が 母が家で過ごす最後の夜となる。

家族、祖父、従姉妹、それに亡くなる前夜に付き添いを代わってくれた叔母も泊まってくれた。

22時過ぎ。叔母がお風呂に入り、私たちが母の側で思い出話をしているとき、

突然、部屋が縦にガタガタと揺れだした。

5秒くらいだったが、地震だと思い、すぐに携帯で調べてみた。

しかし、この辺での地震はない。

30分経って確認してみても やはりここで地震はなかった。

お風呂からあがった叔母に聞いてみても、何も感じなかったと言う。

翌日、叔父に聞いても 揺れなかった。多分、部屋で母が暴れてたんだろう と言われる。

そう言われると 少し納得。

これまで、お盆やお正月に集まってた皆で母のことを話してたんだもん。

母も話しに参加したかったのかなぁ と思った。



この翌日、納棺となる。

棺に入れる物を用意する。

入院中、毎食後必ず歯を磨いていた母。

最後の2日程は、水を上手に吐き出すことが出来なくなり、

歯磨きが出来なかった。

ブラシの代わりにスポンジが付いた物で 私が磨こうとすると、

母はスポンジをガシガシ噛み、歯の汚れを落とそうとした。

亡くなった直後、看護師さんと叔母と一緒に体を拭いたとき、

叔母が母の口の中も少し拭こうとしたんだけど、

既に硬直が始まっていたのか、口が開かなかった。

歯磨きも出来ず、舌が白くなっていて、私が母の体調を見て 拭いてみることになっていたのに、

その前に亡くなってしまった母。

絶対に歯ブラシは入れようと思っていた。


あとはCD。母と行った最初で最後となったドリカムのライブ。

すごく喜んでくれ、また今年も一緒に行く為に チケットを取っていた。

父と兄と、従姉妹も一緒に行くことになっていたライブ。

入院中も、ドリカムの曲を二人で聞いていた。

亡くなって 家に戻ってからも、母のお気に入りの曲『またね』を一緒に聴いた。

母が最後に“この曲好きなんだ”と言ったのは、前向きな旅立ちの曲だった。

~今までみたいには会えなくなるね。でも、またね。またね。絶対。またね。~

その曲が入っていたアルバム『AND I LOVE YOU』を用意した。


もうひとつ。私が棺に入れたかったのが、母への手紙。

19日の夜、私が母への手紙を書き始めると、皆が書くと言ってくれた。

それぞれの思いを書いた。

一番に書き終えた祖父の言葉は“長い間、ありがとうございました”

シンプルすぎて、みんなで笑った。

私はA4の紙2枚に書いた。

思いはいっぱいあるけど、紙に書ききれないけど、母への思いを書いた。

全員が書き終わった。ひとまとめにし、リボンで結びカーネーションを添えた。

この日が 線香を絶やさないように見ている最後の夜。

線香を見ながら、皆で母との思い出を語り合った。


お母さん、まだ何日もいてくれてもいいのに。

明日、家を出なきゃいけないんだなぁ と思った夜だった。

4月19日

2011-05-09 12:38:03 | レオン
4月19日


内輪夜伽の日。

朝から葬儀屋さんが来て打ち合わせをする。

私と従姉妹、叔母の着物と着付けを頼む。

袖の長さをどうしようか?と 従姉妹と話していたけど、

叔母たちの意見に従い、長い袖に決まる。

従姉妹と二人“30過ぎてるのに長い袖って、なんかねえ”と苦笑い。


あとは遺影に使う写真。

前の日に、家族や親戚で だいたいの写真を決めていた。

みんなで決めた一枚は、私と二人で大阪・京都に旅行したときの写真。

私と一緒に写っているんだけど、色が少し暗めなのが心配。

ガンが分かる前の年の2007年。母と初めての二人旅。

母を初めてドリカムのライブに連れて行き、母娘で買い物をし、いっぱい歩いて観光をした、

私にとって、思い出の詰まった旅行。

私が撮った物は、すましていたり凄く笑っているものだったり。


葬式で家のことを手伝ってくれているおばちゃん達にも、どの写真が母らしいか聞いてみた。

みんな、私と一緒のが母らしいと言った。

カツラの写真だと がんのことも思い出すんじゃないか?と言われ、

がんが分かる前の年の京都旅行の一枚に決めた。

でも葬儀屋さんに見せると、“少し暗いですねえ”と言われる。

やっぱり。と思い、最後まで残った6枚の写真をもう一度見直す。

カツラでの写真、元気な時の自毛の写真。

面白いもので、それぞれが良いと言う 母の顔が違っていた。

父は10年ほど前の、キリッと写っている写真が良いと言う。

私はその写真は好きじゃなかった。冷たい感じがしたから。

母じゃなく思えるほど、私に向けてくれていた笑顔がなかった。

私と兄は、柔らかい笑顔の写真ばかりを選ぶ。

祖父は、祖父と母と 二人で写っているのが良いと言う。

確かに悪くはなかったけど、はにかんだような笑顔だった。

結局、一番最初に“これ、いいけど カツラだしねぇ”と言っていた物に決定。

2009年、秋。抗がん剤を終え、夏に手術も終えた後、親友とお寺の行事で行った京都での写真。

母も入院中“この旅行に行けて良かった”と何度も言いながら見ていた写真。

カツラだったけど、この時期は まだまだ頑張るぞ!と意気込んでた時で、

いろんな行事に参加していた。

元気とやる気と 優しさの出ている一枚。

ただ兄は“もう少し明るい服の方が 母さんらしくって良かったよなぁ”と言っていた。

病気前のように、花柄とか、薄手の生地の物とかをあまり着なくなっていたから。

今の遺影は、昔のように無理矢理着物に合成するのではなく、

その人の洋服のままで残すのが主流らしい。

カツラ姿の写真になってしまったけど、花柄の可愛い洋服じゃないけど、

母の優しさが出ていた一枚に決まって良かった。



この日も 本当に泣いたり笑ったり。

母の友達が来て 思い出話を聞けば泣き、面白い話を思い出しては笑い。


そんな合間に、もうひとつ決めることが。

母に掛ける着物をどうするか、母の友達や 叔母たちと決めた。

叔母たちが選んだ二枚は、歳相応の地味な色のと、若いときに着ていたであろう、ピンクに花柄の着物。

私は迷わず ピンクのを選んだ。

桜の花にピンク色。

母の好きなピンクと、母の好きな花と。

顔の布を外し、母に当ててみる。

やっぱりこっち!明るい色の方が似合う。

こうして いろんなことを決め、母に会いに来てくださった方たちと話し、

叔母たちが用意してくれたご飯を食べ過ごした。

4月18日〈 2〉

2011-05-04 06:51:59 | レオン
4月18日


お坊さんに、母の寝ている場所を少しずらした方が良いと言われる。

数人の男性が、布団を持ち 移動させてくれる。

母のカツラがずれた。慌てて直す私。

父がボソッと“納棺”のときに気を付けてやらなきゃな”と言った。



葬儀屋さんが来て、諸々のことを決めた。

祭壇はどうするか?

棺の中に入れたい物があれば用意する。

最後、母に掛ける着物はどうするか?

葬儀の日程。

おまいりに来てくれる方の大体の人数。

香典返し。

母を知っている人は皆“花が好きな人だったよねぇ”と言うくらい、花が大好きだった母。

父と話して、お花の多い祭壇にしてもらう。

葬儀屋さんは、分からないことや要望があれば、何でも言ってくださいね と言ってくれた。

大体のことが決まり 葬儀屋さんが帰るとき、聞いてみた。

祭壇のお花は どんな花になるのか?

実は、入院中から母の日にカーネーションをあげようと思っていて、

だからカーネーションも混ぜて欲しい と伝えた。

“母の日も近いですもんね。分かりました。顔のまわりはカーネーションにしましょう”と言ってくれた。

私の自己満足ではあるけれど、母にしてあげられるのは あと数日。

出来るだけのことはしたいと思った。

葬儀屋さんが帰り、私は母の元に行った。

父は忙しそう。

“お父さん、忙しくって、なかなかお母さんの所でゆっくりできないね。最後なのに。”と言うと

“喪主はそんなもんや。でも夜はずっと側にいるし、大丈夫”と答えた。


葬儀の日程も決まった。

17日の夜遅くに亡くなった母。

20日に友引が重なったので、19日に内輪夜伽、20日に通夜、21日に葬儀となった。

18日は丸一日、母とのんびりできる。

母が少しでも長く家にいられて嬉しかった。

“お母さん、一日でも長く家にいたいと思ってこの日を選んでいっちゃったのかなあ”と皆で話した。


18日の夜。東京から従姉妹が来てくれた。

顔を見てもらったら“寝ているみたいだね”と呟いた。

本来、叔母の葬儀なら 2日間の休みだと思う。

でも 有休を使いすぐに駆けつけ、葬儀の日まで一緒にいるからね と言ってくれた。

この日の夜は、従姉妹と母の思い出を話して過ごした。

看護師で忙しい叔母に代わり、夏は一緒に旅行に行ったりもした。

“小さい頃は、休みの日にみーちゃんとおばちゃんと私で出掛けて、洋服を買ってもらったなあ”と、

私が覚えていない話もしてくれた。

最近では、従姉妹の家での夏のバーベキュー、正月のすき焼きの話も。

結局は あぁ、もう今までみたいに母はいないんだ ということになったんだけど。

でも、従姉妹が来てくれて心強かった。

実家に帰るわけでもなく、最後まで母の側にいてくれた。


この日から通夜の日にセレモニーホールに行くまで、叔母やら親戚の皆が食事を作ってくれ、

“体力落ちるから 食べなさい”と言って食べさせてくれた。


皆に助けてもらい、18日は本当に母とゆっくり過ごすことができた。

母の顔を見に来てくれた人と話すたびに泣き、思い出を語り笑い また泣き を繰り返した。

この日の夜は、私たち家族、祖父、従姉妹で線香を見ていた。

時々白い布を取り、母と話しをして過ごした。

のんびりと過ごせるこの日があって 本当に良かった。

4月18日病院を出てから

2011-05-02 06:13:03 | レオン
4月18日


霊安室に運ばれた母。

手を合わせお参りをする。

看護師さんたちも 手を合わせてくれた。

父が連絡をしていたので 既に葬儀屋さんが来ていた。

母の体を布で覆い、車に乗せる。

看護師さんが見送ってくれるなか、母と一緒の車に乗り、私も家に帰った。

病院を出た直ぐの所に、キレイな桜が咲いていた。

“お母さん、桜 きれいだね”と話しかける。


家に着くと、知らせを受けた叔父や従兄弟、母の親友が待っていた。

母を仏間に運ぶのに、近くの窓から運んだほうが入りやすかった。

でも私は 玄関から入れてあげたくて そうお願いした。

葬儀屋さんは分かりましたよ と言い、玄関から入れてくれた。

仏間への廊下で通りにくい所があったんだけど、上手に曲がり、運んでくれた。

玄関から入れてもらえて 本当に嬉しかった。



家に戻った母に、私はカツラをかぶせた。

全脳照射で抜けていった髪を そう気にすることもなかった母。

二人で“2年もしたら またあの長さになるからね”と言っていたんだけどな。


皆が布団に横になった母に手を合わせる。

私の従姉妹も、臨月で、少し前まで入院していたりと大変だったのに 夜中、母の顔を見に来てくれた。

2時頃だったか?叔父、叔母、母の親友は 一旦家に帰った。

家には 母と家族と祖父と。

この日はみんな、あまり眠れず、線香が絶えないように見ていた。

家で横になっている母を見ると、不思議な感じがした。

寝ているだけなのに。


何度も 母の顔を覆っている白い布を取り、顔を見る。

話しかける。

私は明け方、2時間ほど眠った。



4月18日・朝

母が亡くなった直後に、メールで母の死を伝えた 母の親友に電話をした。

どうやらメールを見ていなかったようで “熱 下がった?”と聞かれた。

“ごめん、おばちゃん。辛い話をするけど…”と言って 母の死を伝えた。

すぐに来てくれた。

母の顔を見、一緒に泣いた。

入院中よく来てくれ、母の好きな食べ物を作ってきてくれたおばちゃん。

涙もろくって、母の顔を見ると泣いちゃうからと、病院の廊下でいつも私に言っていた。

最後の日に 母に会ってもらえて本当に良かった。


この日は朝からたくさんの方が来てくれた。

親戚、お友達。ご近所さん。

みんな母の顔を見ると“本当に寝ているだけだね”と言った。


寝ているだけ。本当にそう思えるほど、穏やかな顔の母がいた。

ここ最近で一番穏やかな顔で寝ていた。


お寺さんが来てくれ、お経をあげてくれた。

何で母が横たわって、お経をあげてもらっているんだ?と思うとまた悲しくなり 涙が止まらなくなった。。

4月30日

2011-05-01 05:38:18 | レオン
4月30日


4月30日は私の誕生日でした。

母と 病室ででもいいから、ケーキでお祝いしてね と約束していたのに、叶いませんでした。

そんな今年の誕生日は 母の ふた七日でした。

お寺さんがお経をあげに来てくれ、家族の他に 叔母たち、叔父、祖父、親戚、母の親友が 参ってくれました。

叔母が 昼食の料理の味付けを教えてくれ、母の親友が仏事のことを教えてくれる。

みんなが私たち家族を助けてくれています。

本当にありがたいです。


お経の最中、何故母がこの場にいないんだ?と思うと泣けてきました。

先週の初七日の読経の時は泣かなかったのに。


今日は いつもより母を思う一日になりました。

お母さん、やっぱりあなたの娘で幸せだったよ。

本当にありがとう。

4月17日 <4>

2011-04-30 05:07:17 | レオン
4月17日


この日の当直の医師が入ってきて 母の死を確認する。

4月17日(日)23時5分 永眠





叔母や従兄弟が部屋の荷物をまとめて運び出してくれている間、

私は母の側で泣き、感謝を伝え続けた。

少し落ち着いた頃、私も荷物をまとめ始めた。

病院で借りた本を返しに行こうと、廊下に出たとき、向こうから主治医が来た。

思わず駆け寄り“先生、ありがとう。お母さん、いっちゃった。”と伝えると、また泣けてきた。

一緒に病室に行き、母の顔を見てもらった。

主治医は“よく頑張られましたね。最後は体力がね”と言った。

主治医が来てくれたのは、この日、二回目。

熱が下がらないのを心配して、休みの日にも関わらず、夕方も来てくれていた。

その時は“体力が落ちているなぁ”と言っていた。


主治医は死亡診断書を書きますね と言って 部屋を出ていった。

部屋の片付けをしているとき、診断書を書き終えた主治医が来た。

父がいなかったので、私がナースステーションに行って説明を受けた。

死亡時刻。病名。手術の時期。解剖はと聞かれ 首を横に振る。

主治医も 可哀想でできないと言った。

説明を聞き終えたので、主治医に聞いてみた。

私は高リスクか?乳癌になる可能性は高いのか?と。

今 乳癌は凄く増えている。みんな働いていて、結婚が遅く 出産も遅い。

食生活の変化も原因ではあるけど、授乳をしたかしてないかでまた確率は違ってくる。

検診は受けなさい。乳癌はこう言ったらお母さんに申し訳ないけど、

4人に3人は助かる病気だからね。早い方がいいんだよ。

乳癌は、約10年かけて1cmほどの大きさになる。

でもその大きさから、たった三ヶ月で倍に、また三ヶ月で倍になることもあるんだよ。

気付いたらアッという間に大きくなっちゃうから、

そしたら怖くなってねぇ。

なかなか病院に来れなくなる。だから検診は大事だよ。

胸の大きい人なんかだと、2.5cmくらいにならないと気付かなかったりして、

そうなると その時点でスタートが違うからね。

だから検診は大事だよ。と 何度も言った。

以前母も、急に大きくなった と言っていた。母は凄い前から胸にシコリを抱えていたのだろう。

もしも 娘の私が側にいたなら、不安な気持ちを私には打ち明けてくれていたかもしれない。

もし なんてことを言っても 母が帰ってくるわけじゃないけど、

もしかしたら 今が違っていたかもしれないと思うと、悔やまれて仕方がない。




主治医に挨拶をして母の元に戻ると、看護師さんと叔母が 母の体を拭いていた。

亡くなって直ぐに看護師さんが、

娘さんも一緒に体を拭いてあげませんか と言ってくれていたので、私も加わった。

最後の胸の皮膚転移の処置もしてくれた。

胸のガンを見ると、既にそこに赤味はなく、黄色っぽくなっていて

あぁ、ガンも死んだんだ と思った。

母の体の色は 何も変わっていないのに、ガンの顔だけが変わっていた。

こんなにも簡単に ガンは死んでしまうんだ と思った。

人が死ぬとガンも生きていられないのに、何の為に 人の体に広がっていくんだろう と思った。


看護師さんは、いつもと変わらない処置をしてくれた。

丁寧に洗浄をし、ガーゼを当ててくれた。

そしてオムツを変え、浴衣を着せてくれた。

私は 毎朝母にしていたように 顔の左半分にタオルを当て拭き、右半分も同様にして拭いた。

看護師さんが 娘さん、お化粧もしませんか?と言ってくれたので

ファンデーション、眉、チーク、口紅を順に付けていった。

ほんのりと頬がピンクになっただけなのに、本当に寝ているみたいな顔になった。

夜で看護師さんが少ないのに、看護師さんみんなが病室に来て、母の顔を見てくれた。

約三ヶ月過ごさせてもらった病棟。

看護師さんたちも一緒に泣いてくれた。

主任看護師さんも泣きながら、私を抱き締めてくれた。

病室を後にしエレベーターに乗るとき、看護師さんたちが見送ってくれた。

父と叔母、私の3人は 看護師さん達に何度もありがとうございました とお礼を言った。