みーちゃんとまーくんの2人言

Mダックス・レオン&みーちゃんとまーくんの日記から、2008.11.27以降、すっかりみーちゃん母の乳ガン日記に移行

4月17日 <4>

2011-04-30 05:07:17 | レオン
4月17日


この日の当直の医師が入ってきて 母の死を確認する。

4月17日(日)23時5分 永眠





叔母や従兄弟が部屋の荷物をまとめて運び出してくれている間、

私は母の側で泣き、感謝を伝え続けた。

少し落ち着いた頃、私も荷物をまとめ始めた。

病院で借りた本を返しに行こうと、廊下に出たとき、向こうから主治医が来た。

思わず駆け寄り“先生、ありがとう。お母さん、いっちゃった。”と伝えると、また泣けてきた。

一緒に病室に行き、母の顔を見てもらった。

主治医は“よく頑張られましたね。最後は体力がね”と言った。

主治医が来てくれたのは、この日、二回目。

熱が下がらないのを心配して、休みの日にも関わらず、夕方も来てくれていた。

その時は“体力が落ちているなぁ”と言っていた。


主治医は死亡診断書を書きますね と言って 部屋を出ていった。

部屋の片付けをしているとき、診断書を書き終えた主治医が来た。

父がいなかったので、私がナースステーションに行って説明を受けた。

死亡時刻。病名。手術の時期。解剖はと聞かれ 首を横に振る。

主治医も 可哀想でできないと言った。

説明を聞き終えたので、主治医に聞いてみた。

私は高リスクか?乳癌になる可能性は高いのか?と。

今 乳癌は凄く増えている。みんな働いていて、結婚が遅く 出産も遅い。

食生活の変化も原因ではあるけど、授乳をしたかしてないかでまた確率は違ってくる。

検診は受けなさい。乳癌はこう言ったらお母さんに申し訳ないけど、

4人に3人は助かる病気だからね。早い方がいいんだよ。

乳癌は、約10年かけて1cmほどの大きさになる。

でもその大きさから、たった三ヶ月で倍に、また三ヶ月で倍になることもあるんだよ。

気付いたらアッという間に大きくなっちゃうから、

そしたら怖くなってねぇ。

なかなか病院に来れなくなる。だから検診は大事だよ。

胸の大きい人なんかだと、2.5cmくらいにならないと気付かなかったりして、

そうなると その時点でスタートが違うからね。

だから検診は大事だよ。と 何度も言った。

以前母も、急に大きくなった と言っていた。母は凄い前から胸にシコリを抱えていたのだろう。

もしも 娘の私が側にいたなら、不安な気持ちを私には打ち明けてくれていたかもしれない。

もし なんてことを言っても 母が帰ってくるわけじゃないけど、

もしかしたら 今が違っていたかもしれないと思うと、悔やまれて仕方がない。




主治医に挨拶をして母の元に戻ると、看護師さんと叔母が 母の体を拭いていた。

亡くなって直ぐに看護師さんが、

娘さんも一緒に体を拭いてあげませんか と言ってくれていたので、私も加わった。

最後の胸の皮膚転移の処置もしてくれた。

胸のガンを見ると、既にそこに赤味はなく、黄色っぽくなっていて

あぁ、ガンも死んだんだ と思った。

母の体の色は 何も変わっていないのに、ガンの顔だけが変わっていた。

こんなにも簡単に ガンは死んでしまうんだ と思った。

人が死ぬとガンも生きていられないのに、何の為に 人の体に広がっていくんだろう と思った。


看護師さんは、いつもと変わらない処置をしてくれた。

丁寧に洗浄をし、ガーゼを当ててくれた。

そしてオムツを変え、浴衣を着せてくれた。

私は 毎朝母にしていたように 顔の左半分にタオルを当て拭き、右半分も同様にして拭いた。

看護師さんが 娘さん、お化粧もしませんか?と言ってくれたので

ファンデーション、眉、チーク、口紅を順に付けていった。

ほんのりと頬がピンクになっただけなのに、本当に寝ているみたいな顔になった。

夜で看護師さんが少ないのに、看護師さんみんなが病室に来て、母の顔を見てくれた。

約三ヶ月過ごさせてもらった病棟。

看護師さんたちも一緒に泣いてくれた。

主任看護師さんも泣きながら、私を抱き締めてくれた。

病室を後にしエレベーターに乗るとき、看護師さんたちが見送ってくれた。

父と叔母、私の3人は 看護師さん達に何度もありがとうございました とお礼を言った。

4月17日 <3>

2011-04-29 05:30:42 | レオン
4月17日


気が付いたのは14時頃からだったか。

高い熱があるのに、母の手先と足先は冷たくなっていた。

叔母は アイスノンで冷やしているから血流が悪いのかもしれない と言っていたけど、

この時から 母の体の状態は悪かったんだろう。

あまりに足が冷たかったので、ホットタオルを作って母の足を温めるように拭いた。

そしていつものように、少量のオイルで保湿。

少しでもリラックスして欲しくってラベンダーの香りを使った。

ホットタオルを使っても、母の足は温かくならない。

息は荒い。脈も早い。叔母が計ってくれたとき、脈が140ほどあると言っていた。





夕方~夜。

病室には 母の従兄弟とその奥さんが来てくれた。

この時、たぶん19時頃だったと思う。

みんなが母の手を握り、その冷たさに驚く。

体の熱さに驚く。

荒い息遣いを心配する。

母の従兄弟は“頑張られ!また来るからね!”と声をかけ、帰った。

病室には、父、兄、私、祖母、叔母(母の姉)、祖父(母の父)、従兄弟、叔母(父の妹2人)がいた。

22時頃になっても、状態は変わらない。

辛そうな息遣い。私は母のすぐ横で 手を握って温めたり、

腕をさすったり、髪を撫でたりして声を掛け続けた。

“お母さん、私もここにいるよ。大丈夫だよ。辛いね。ごめんね。大丈夫だからね。”

荒い呼吸の中に、いつからかア゛ー ア゛ーと言う声が混ざるようになる。

唇が乾く度に スポンジで湿らせてあげる。頻繁に。

しばらく座って母を見つめていた祖父。

たぶん祖父は、辛そうな娘の姿を見ていられなかったんだろう。

一旦家に帰ると言い始めた。それで従兄弟が送っていくことになった。


祖父が病室を後にした頃だったか、祖父がいたときだったか、母の右目が少し開いてきた。

私たちは母を呼んだ。

“お母さん!”と呼ぶ声。名前を呼ぶ声。

その声に応えるように、母の黒目が右に左に動く。

嬉しかった。

でも 息は荒く、何か言いたげなアーアーという声。

唇を濡らしてあげ、手を握ってあげることしかできなかった。

この頃は、スポンジを噛んで水分を欲することもなかった。

右目に続いて 左目も僅かだけど開いてきた。

アーアーと言っている。脈が早い。息はハッハッと荒い。

不意に、母に東京の従姉妹の声を聞かせてあげたいと思い、電話した。

母に会うため、東京から駆け付けてくれてから 僅か1週間。

突然のことに従姉妹は驚きながらも、私が携帯を母の耳にあてると、母に向かって話してくれた。

母の耳から携帯を離すと、従姉妹は私に ありがとう と言った。

携帯を切ってから20分ほどたったときだっただろうか。母の呼吸が穏やかになってきた。

ハッハッから、フー、フーと変わった。

私と兄は、熱でも下がってきたのかと思った。

しかし そうではなかった。

看護師の叔母。脈を取り“脈が弱くなってる!これ、冷や汗やよ!”と言って母の名前を呼んだ。

そしてナースステーションへと走った。

看護師さんが来た。モニターの脈は200を超えていたが、脈も血圧も呼吸もある。

まだ大丈夫ですよ と言われる。

看護師さんが出ていってしばらくして、また母の目がだんだんと閉じていった。

私たちはみんなで 母を呼んだ。

“お母さん!お母さん!ダメ!行っちゃダメ!お母さん!ヤダ!”

一旦閉じた目が 少し開く。

母を呼び続ける。

私たちの声は届いたのだろうか?届かなかったのだろうか?

母の両目は 再び白眼になり、そのまま そっと閉じていった。




一回は頑張って 止まろうとしてくれた。

でも、こちらの世界にいるには 少し闘い疲れたのかもしれない。


看護師さんが入ってきて、呼吸も止まりました、と告げた。


直後、私は泣いて 泣いて 泣いた。

呼吸がおかしくなるくらいに泣いた。

ありがとうをたくさん言った。

育ててくれてありがとう。

お母さんの娘で良かった。幸せだったよ。

ワガママなことばかり言ってごめん。

心配かけてごめん。

本当にありがとう。ありがとう。

何度も何度も言った。


知らせを受けた祖父と従兄弟が病室に戻ってきた。

みんなが泣いている。

苦しそうな母の呼吸は、もう聞こえなかった。

4月17日 <2>

2011-04-28 06:13:13 | レオン
4月17日


記憶が曖昧で、話が前後しています。


〈最後の日の 母の様子〉


・11時。ガーゼ交換の後、ナースステーションでも状態が分かるようにと 母の胸にモニターが付けられた。

・朝の叔母の話。亡くなる二日ほど前から歯磨きができず、舌が真っ白だった母。叔母が拭こうとしたら 少し出血したそうだ。





14時過ぎ。二度目の座薬を入れてもらった前後で、私は買ってきたお花を生けた。

母が目覚めたとき、見てもらいたい!向日葵を見て 元気を出してほしい!と思ったから。

叔母も帰らず側にいてくれた。

母の状態はと言うと、やはり高熱の為、辛そう。

唇も乾いている。ハァッハァッ ハァッハァッ と少し口を開き、荒い呼吸をしている。

この二日程前から、歯磨きをしたくても出来なくなっていた母。

口腔の衛生を保つ為にと思い、歯ブラシの ブラシの代わりにスポンジが付いたものを買っていた。

そのスポンジに、少し水を含ませ唇を濡らした。

この時だったか午前中だったか、定かではないんだけど、

母はこのスポンジを口に含み、スポンジをガシガシと噛んだ。

喉がカラカラで、水が飲みたかったのだろう。

本当は水をゴクゴクと飲ませてあげたかった。

飲んで欲しかった。

でも、しっかりと目を開けず、誤咽してしまいそうで 飲ませてあげられなかった。

この辺の記憶が定かではない。何をしていたのか。

手を握ったりさすったり、首元に手を当てて 熱を確認したり。

母に私がいることを伝えるように、常に母に触れていた気がする。


座薬を入れて少しすると、母の腕がしっとりと湿ってきた。

叔母が“汗が出てきたね。これで熱、下がるわ”と言った。

兄も私もホッとした。

二度目の座薬から1時間少しして、看護師さんが見にきた。

この時の熱、39.3度。

下がっていなかった。

看護師さんに、普通はどれくらいで下がるものなのかを聞いてみた。

大体30分ほどすると効いてくるんですけど…と言われる。

母の熱は下がらない。

座薬を使うにしても、次に使えるのは夜。それに 座薬を入れると血圧も下がってしまうかもしれない。

看護師さんは、熱の原因は、もしかしたら脳の中の熱を司る場所の影響かもしれない。

もしそうなら、座薬を使っても熱は下がらないかもしれない と申し訳なさそうに言った。

兄も私もショックだった。

前日から泊まってくれていた叔母。疲れているだろうと思い、一旦家に帰ってもらった。


その後、父方の叔父と従兄弟二人が来てくれた。

みんな母の側で“おばちゃん、頑張って”と言ってくれた。

叔父達が帰るとき、エレベーターまで見送った。

熱が下がらなくって、あまり状態が良くない。でも、もう少し頑張ってもらうから と伝えた。

病室に戻ると 再び看護師さんが熱を計りに来てくれた。

この時、39.4度。やはり下がらない。

私だけ廊下に呼ばれた。

看護師さんは私に“分かっておられるかもしれないけど、もしかすると そんなに長くないかもしれません。

会いたい方はみんな、会われましたか?”と聞いてきた。

私は“明日とか明後日とかではなく、もしかして、このまま ってこともあるんですか?”と聞いた。

“あるかもしれません”と言われた。

慌てて父に電話した。父方二人の叔母に連絡してもらった。

私は ずっと一緒に付き添ってくれていた叔母(母の姉)に電話した。

“看護師さんに、会いたい人、みんな会いましたか?って言われた!じいちゃんを連れてきてあげて!”と伝えた。

叔母は、ご飯を食べさせたらすぐに行くから と言った。

この時多分、17時半頃。

少しして、母の友達が 母の好物のポテトサラダを作ったからと持ってきてくれた。

こちらからは連絡していない。

母は熱があって寝ている と伝えると、顔を見ないで帰ると言われた。

私は、今会ってあげて と頼み病室に入ってもらった。

母の最後の日、母に会ってもらうことができた。

仲良くしてくださっている方だったので、最後に母が会いたくて、呼んだんじゃないかと思った。

この友達も“熱が下がったら大丈夫だから、負けたらダメやよ”とだけ言って、病室をあとにした。



この後、すぐに父が祖母を連れて病室にやって来た。

そして、母の大親友とご主人も来てくれた。

10日ほど前に来てくれたときは、車椅子に乗って散歩に出ている時だった。

だから突然の連絡に驚き、すぐに来てくれ、廊下で涙してくれた。

そして母のベッドサイドで“頑張られ”と声をかけ、帰った。


叔母(母の姉)と祖父が到着。

良くケーキを買ってきてくれていた従兄弟も来た。五日ほど前に来てくれたばかりだった。




誰もが驚いた 母の急変。

この日父は、親戚の家をまわって、二日前に主治医から言われたことを伝えていた。

みんなに会ってもらいたかったから。

父が親戚の家をまわっているとき、私からの電話を受けた。

父はもちろんのこと、皆が驚いた。


まさか そのままいなくなってしまうなんて。

早すぎるよ、お母さん。



ごめんなさい 続きはまた書きます。

4月17日

2011-04-26 05:15:32 | レオン
4月17日



〈最後の日の 母の様子〉

前日の夜は、叔母に泊まってもらった。ゆっくりしてきなさいと言われたものの

夜に熱が上がったと連絡を受けていたので落ち着かず。

朝、8時半頃に電話をしてみた。

やっぱり熱が下がっていないと言う。

熱が下がらなかったので、解熱の座薬を入れてもらった。

量は、母の体力が落ちているため、子供が使う量の物を使った。

座薬を入れたとき、看護師さんの指に血が付いたという。

朝食は食べていない。

またしっかり起きたときに少し食べさせて 薬も飲ませるから

ゆっくり休んできなさいと言われる。

どうしようかと悩んでいたけど、いつもの一週間の始まりと同じように

病室に飾る花を買って、早めに行くことにする。

父は午前中に用事があったので、私たちよりも先に病院に行き 母の顔を見てきた。

やはり熱が下がっていないと言う。

朝10時。花屋の開店時間に合わせて兄と私は家を出、カーネーションと小さな向日葵、ガーベラを買う。

昼食も買い、病院に向かう。

私と兄が病室に着いたとき、母は眠っていた。

叔母が母に向かって“みーちゃんと ○○君が来てくれたよ”

“最愛の子供たちが来てくれたのに 寝てるの!!”と母に言った。

それでも母は眠っていた。

結局 朝食は食べたがらなかったけど、薬を飲む為、昨夜と同じように、

少量のご飯にリンデロンを乗せて 食べさせてくれていた。

食べたのは、ご飯を3口だけ。

10時半。いつものガーゼ交換。

ここまでずっと眠った状態だったけど、左右を向かせるのにゴロンゴロンさせたときはさすがに目を開けた。

胸の洗浄をしたとき、病衣の左側が少し濡れた。

いつもなら着替えるのだけれども、この日、母に 着替えるかと聞いてみても無反応。

看護師さんが“どうされます?着替えます?”と話しかけても

ボーっと目を開けているだけ。

目を開けてはいたけど、首を振る、目で答えるということはしなかった。

熱があるからダルイのだろう。背中には、尿取りシートも当たっているし、母は直接は冷たくない。

看護師さんに頼み、着替はやめてもらった。

また夜にでもしてください とお願いする。

ガーゼ交換が終わると、また眠っていった。

11:30前、父方の叔母達が来てくれた。

サンドイッチや飲み物を持って。

でも母は眠ったまま。

叔母達が声をかけても、ほとんど目を開けることもなく、眠り続ける。

お昼になっても起きてくれないので、皆でサンドイッチを食べる。

暫くして 叔母達は帰った。

叔母達が帰った後、看護師さんが体温を計りに来た。

朝入れた座薬が効いていて!と思ったけど、熱は39.4度に上がっていた。

脇と鼠径部のアイスノンを変えてもらう。

血圧は 上が99。サチュレーションは95。

母の血圧は いつも上が95くらい~100ちょっとだから そう低いわけでもない。

熱が39度を超えていたので、もう少し強い座薬が使えないか 主治医に聞いてもらう。

日曜日でお休みのところ、申し訳ないなと思った。

主治医の指示で 大人の量の座薬を入れることになった。

座薬を入れてもらう。

やはり看護師さんがはめていた手袋に 血が付いていた。

痔はありましたか?と聞かれたけど、母にはそんな悩みはなかった。

前日から熱があるのに、飲むとむせるので、そして眠り続けているので水分をとれていない。

点滴をしても、ムクミが酷くなってしまう。

いろいろなところが乾燥しているのかもしれない。

薬の量が増えたので、叔母は“これで下がってくれるやろ”と 少し安心して言った。






長くなったので 一旦切ります。

母の熱が39度を超え、心配ではあったけど この時はまだ、絶対に下がると信じていました。

二回目の座薬を入れたのが、確か14時過ぎ。

熱の他に、叔母にはもうひとつ心配事がありました。

それは、朝の6時から尿が出ていないこと。

これは私も心配でした。尿が出なくなると、終りが近いと聞いていたので。

しかしながら、それでも熱が下がれば 飲めるから!食べられるから!と信じていました。

4月16日・夜

2011-04-24 03:47:07 | レオン
4月16日・夜

母が亡くなった日の前日からの様子を書きます。

私の頭の中で、あまり思い出さないようにしているからか、最後の日のことより

母と笑ってご飯を食べていたり、リハビリを頑張っていたり、今はそんな姿ばかりを思い出しています。



〈前日の夕方から〉


前日の土曜日から 看護師の叔母が付き添いを代わってくれた。

夕食を終えるまで 父、兄、私も病室にいた。

この日母は、夕食に玉子かけご飯を食べた。

大胆な叔母。卵一個を割り 醤油を少し入れかき混ぜる。

それを病院食のご飯にたっぷりとかける。

母に食べさせるも、玉子が多すぎたのか、2口目以降、あまり食べたがらない。

なので、病院の冷凍庫に入れておいたご飯を温め、玉子かけご飯に追加。

それでも飽きたのか、それ以上は食べたがらない。

仕方がないので 白いご飯に小さな薬・リンデロンをのせ 食べてもらった。

亡くなる前日でも、薬を飲む?と聞くと 母はウンと頷いていた。

病院食で出た、すき焼きの豆腐も3口食べた。

あと、嬉しそうに食べていたのはメロン。

父が買ってきてくれていた物を、昼間切って冷蔵庫に入れておいた。

メロンを口の前に持っていくと、口を開いた。

みずみずしいメロンが食べやすかったんだと思う。イチゴも少し食べた。

これだけを食べると疲れたようで、すぐに横になった。

ヨーグルトはすすめても食べなかった。

母が横になったのを確認し、父、兄、私は帰った。



16日(土)の21時半頃、叔母から電話が入る。

何事かと思い、焦って電話に出たが、母の状況を説明する為の電話だった。

特別焦っている様子もない。

夜になって熱をはかったら、熱が上がっていた。38.3度。

引き続き 左脇と鼠径部を冷やしていると言っていた。

熱が上がったから連絡した ということだった。

明日はゆっくりしてきなさいよ と言われた。



ここまでが 亡くなる前日までの話。



亡くなった日は バタバタしすぎていたからか、思い出したくないのか、記憶も途切れ途切れ。

また思い出しながら書いていきます。

無事、終えました。

2011-04-22 05:44:42 | レオン
母の通夜と葬儀を無事に終えました。

近いうちに、母の最後の日の様子を忘れないよう、記録したいと思います。


今まで応援してくださった皆さん、本当にありがとうございました。

4月17日

2011-04-18 05:59:57 | レオン
4月17日


4月17日 日曜日 午後11時5分

約2年半の闘病を終え、母は永眠しました。

メールで励ましてくれた皆様、本当にありがとうございました。


また落ち着きましたら、母の最後の日の様子を記録したいと思います。


お母さん、今日まで本当に頑張ったね。

本当にありがとう。

4月16日

2011-04-17 06:20:00 | レオン
4月16日


朝起きると、テーブルの上にメッセージカードが置いてあった。

付せんがついていて、私宛て、母が信頼していて 大好きな看護師さんから。

カードを開けると


みーちゃんへ

○○(私の名前)いつもありがとう。

後悔のない人生を送っている

明るい○○でいてください。

△△(母の名前)より 2011.4.15


と書いてあった。母と二人で 大切な話をすると言って、私を部屋から出した看護師さんから。

母のメッセージが書いてある、手作りのカード。

見た瞬間、嫌な予感はしていた。

朝から泣いちゃうじゃない!と思いながらも、正直ちょっと嬉しかった。

母がそんなにハッキリと話したかは分からないけど、

いつも言ってくれていた“ありがとう”の言葉。

“あなたは本当にいつも元気だね”と言っていた母の思いがあった。

看護師さんに感謝。




昨日よりも眠いようで 起床時間になってもイビキをかいて寝ている。

少し目を開けた時に顔をふき、オムツを替え、ごはんは?と聞くと少し頷く。

ほんの少し食べ(お米を2割ほど味噌汁に浸して)、ご飯に薬を混ぜて飲ませる。

起こした状態でも目を瞑っていったから、そのままベッドを倒し、寝かせる。

体温は37.8度、血圧は上が99、サチュレーションは93。

看護師さんが来たときは目を開けていた。

熱があるので、左脇と 鼠径部を冷やした。

叔母からのアドバイスで、食事の時間はズレてもいい。

誤えん防止の為に、しっかりと目が覚めた時に食べさせないといけない、と言われる。

主治医も来てくれ“眠ってる時間が増えたかな?”って言っていた。

昼食も、ほんの少し食べただけ。ご飯二口ほど。おかずも二口ずつ。


昼過ぎ、名古屋の親友が、病院の駐車場まで会いに来てくれた。

家族旅行でこちらに来たようで、高山の美味しいパンを持って来てくれた。

大丈夫?と聞き、私と母を思い 泣いてくれた。

久しぶりに親友の顔を見たら また泣けてきた。

友達って 有難い。




夕方、叔母が来てくれた。

昨日、従兄弟が持ってきてくれたケーキを皆で食べようと言うも、母は眠ってしまった。

夕食。兄と二人で話していた時、少し母が頷いたので卵かけごはんを用意した。

ご飯10口、豆腐3口、果物少しを食べる。

そしてまたすぐに眠っていく。



この2日ほど、歯磨きが出来ないでいる。

歯ブラシを少し入れ、磨いてみる。

短時間×3回、磨いてみた。少しは良くなったみたいだけど、まだ口をモゴモゴさせている。

また明日も体調をみて磨こう。


昼過ぎに36.8度まで下がった熱が、消灯前は38.3度まで上がっていた。

夜もまた冷やさなきゃいけない。

ただでさえダルいだろうに。熱が上がったのはキツイ。


今日は夕食前に 父が祖母を連れてきた。行きたい!と煩かったからだろうけど、

来た瞬間から グッタリな顔に 心配で今にも倒れそうな息切れしたような声。

少し話して すぐに父が連れて帰った。

本当に嫌になる。どれだけ私が頑張って笑顔を作っていると思っているのか。

泣きたいのは、心配な顔をしたいのは 私だって同じなのに。

本当に疲れた。



10時、21時 ガーゼ交換



母の熱が下がりますように。

4月15日

2011-04-16 06:40:34 | レオン
4月15日


今朝の母

体温37.7度。サチュレーションは言わなかった。

朝食は、ヨーグルト1個。果物少し。牛乳少し。

昼食。お米5割、おかず2割。食後に、朝飲まなかったリンデロンを飲む。

夕食。お米全部、おかず8割。最後の方は眠そうにしていたけど、リンデロンも飲んだ。



夕方、従兄弟夫婦が来てくれた。

いつも美味しいケーキを持ってきてくれる従兄弟。

今日も美味しそうなケーキを持ってきてくれた。

母に伝えるも、一瞬は目を開けていたけど、すぐに眠っていった。

叔母から様子は聞いていただろうけど、驚いたんじゃないかと思う。




今日父と二人で主治医から話を聞いた。

覚悟はしていても、やはり厳しい。

これ以上、積極的な治療はできない。




10時、20時半 ガーゼ交換

4月15日主治医からの話

2011-04-16 06:00:43 | レオン
4月15日


(兄や叔母に送ったメール)

今朝、父と二人で主治医からの話を聞いてきました。覚えてることだけ書きます。



・今のボーッとした状態(反応の鈍さ)には2つの原因が考えられる

1 3月に撮ったMRIでも、まだ脳の表面にガンがあった。それが原因かもしれない。

2 1月にした全脳照射の副作用で、脳の萎縮が起こってるのかもしれない。症状としては、痴呆のような状態になる。表情が乏しくなる。発言しなくなる。


・これから悪化すると、全身にムクミがくる。血管を流れるはずの水分が、血管には行かず、皮下にたまる。もっと悪化すると、内蔵にたまることもある。


・口から食べられないからと言って、点滴(ブドウ糖)で栄養を補給しようとしても、ムクミが酷くなり、栄養はガンにもっていかれるだけ。→しない方が良いし、ムクミで腕から点滴は出来ない。ポート?中心静脈カテーテル?を入れようと思っても、皮膚転移があるから無理。


・薬は、出来るだけステロイド(リンデロン)は飲んで欲しい。薬を口からとれなくなったら、座薬とか、できる限りで対応する。


・脳に腫瘍があるから、突然 という可能性はある。脳の血管に腫瘍が出来て 血管が破裂したら 脳出血になる。でもその場合、手術はできない。


・もし、他の臓器に転移していたとしても、今、抗がん剤をする体力はない。


・寝ていても声は聞こえるから、話してあげて。ふと目を覚ましたとき、一人だったら寂しいだろうけど、その点、○○さんは幸せだと思いますよ。


・ボーッとはしていても、しっかりとしている時間はある。全脳照射前みたいに、全く記憶がない というわけでは、今はない。




・母と過ごせる期間は、週単位~2、3、4ヶ月くらいだろう。前にも書いたけど、突然ということもあるから。




食べたい物を食べてもらい、辛いことは緩和してあげ、出来るだけ薬は飲んでもらう。
結論はこんな所です。




もっと聞きたいことがあれば言ってください。
先生に個人的に聞きます。
あと、父が今朝、ばあちゃんにも話したそうです。あまり状態は良くないということを。そしたら突然“今日行く!”と言い出したようで。 父が止めてくれました。



気になることがあれば、連絡ください。
またメールします。