象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

意外にもハマる映画〜「アイ・イン・ザ・スカイ」(2016年、英国)

2023年12月24日 15時33分20秒 | 映画&ドラマ

 1人の可憐な少女の命か?
 自爆テロによる推定80人の命か?

 ケニアのナイロビ上空を飛ぶドローンを駆使し、ロンドンから英米合同軍事作戦を指揮する英国軍諜報機関のパウエル大佐(ヘレン・ミレン)だが、長年の願いでもあったテロ計画の主導者を突き止めた彼女は、ドローンによる攻撃を本司令部へ要請するも、殺傷圏内に1人の少女がいる事が判明する・・・

 オモチャのイメージが強いドローンだが、元々は戦争の道具として発展し、今でもドローンが最も活躍してる舞台は戦場である。
 ドローンを題材にした映画に「ドローン・オブ・ウォー」(2015)があるが、PTSDに苦しむ操縦士を描いた、1人の人間に焦点を当てたドラマであった。
 一方で今作は、あるミッションに焦点を当て、ドローンでの爆撃を”実行するのか?しないのか?の判断を巡り、現場と作戦司令部と政府の生々しいやりとりが続く。勿論、現実にも同じ様な作戦がなされてるかもだが、ドローン戦術もここまで来ると、映画とはいえ、見る者を夢中にする。


トロリー問題?

 戦争の詳細な犠牲は国民が知る由もなく、軍関係者のみが知る所とはなるが、軍の論理からすれば、1人の少女の命なんて眼中にはなく、テロで死傷する人間の数と犠牲の規模の大きさだけである。一方で政府の倫理は違う所にあり、それは国民への宣伝と理解である。
 ”1人の命も80人の命も同じ命に変わりはない”と考える現場と、テロ組織を一気に壊滅させようと血眼になる作戦司令部、そして出来るだけ犠牲を少なくして成功を収めたがる政府。
 この三つ巴の喧々諤々の議論は”もう1つの戦争が会議室の中で起きている”の典型だが、”ある人を助ける為に他人を犠牲にするのは許されるか?”という形で功利主義と義務論の対立を扱う倫理学上の「トロリー問題」やその課題を有する事も忘れてはならない。

 つまり、戦争に絶対的な判断は存在しなく、科学的な妥当性に頼ってもデータ上の計算ではどうとでも弄れてしまう。
 故にこの作品では、単なる安易な”善悪二元論”で終わらせる事なく、ドローンによる敵の存在の確証が「トロリー問題」を呼び覚ます所も、実によく描いている。
 一方で、鳥形ドローンや虫形ドローンでテロリストのアジトを監視する辺りは、リアル感満載だが、そんな危険地域のすぐ近くでパンを売る少女の存在も実によく描かれている。
 例えば、少女をその場から少しでも遠ざけようと、現地の諜報員がパンを全て買い占めるが、身元がバレて、パンを放り投げて逃亡する。が、そのパンを拾い上げ、再び売ろうとする娘の強かさには思わず笑ってしまう。勿論、事情を知らない彼女はそこから去ろうとはしない。

 結局、押し問答の末に作戦司令部は一度は爆撃に踏み切るが、無人偵察機の攻撃班が涙ながらに反対した為に、司令部は一旦は作戦を保留し、少女の安全性が50%以上確保される為の数値を割り出す。攻撃班は渋々ながら再計算された座標に爆弾を落とす。
 着弾まで僅か60秒。その間に少女が逃げ切れる保証はない。時間は規則正しく、現実は冷酷である。が、人間が入力してAIが弾き出した数値は、お世辞にも正しいとは言えなかった。
 ただ、副題が「世界一安全な戦場」というのはアンマリで、今作では悲しい結果に終わったが、全員が各々の理念と正義をもち、可能な限りのベストを尽くした結果である。つまり、彼らにとっても”立派な戦場”なのだ。
 戦争映画にしては、とても考えさせられる、高い評価通りの作品とも言えるが、この手の映画の出来が”火薬の量とは反比例する”のも教えられた気がする。 


「サマー・オブ・84」(2018年)

 アマプラでは、もう一本気になる映画があった。まるで、「スタンド・バイ・ミー」(1986)をホラーサスペンスに作り変えた、80年代を彷彿させる良きアメリカの作品である。
 1984年、アメリカの片田舎を舞台に連続殺人事件の謎に挑む少年たちの”ひと夏の恐怖体験”を描いたカナダ・アメリカ合作の青春ホラーだが、思春期のオタク少年ら4人が隣家の警察官を殺人鬼と疑い、調査を始めた事から、思わぬ恐怖に直面する・・・

 タイトル通りのシンプルな展開で、中盤まではグイグイと進んでいく。しかし、殺人犯が隣家の警察官である事を少年らが突き止め、その証拠を警察に突き出すと、事件は一件落着かに思えた。
 しかし、残り15分で展開は大きく反転する。これ以降はネタバレになるので省略するが、エンディングで”人は本性を隠して生きている”とのテロップが流れると、何とも言えない複雑な気持ちになる。
 確かに、隣人と仲良く付き合っていくには、本性を隠す必要がある。全てを曝け出しては社会生活は営んでいけない。
 人は人類である前に社会的動物である。顔も見たくない相手にも挨拶をするし、明らかに大嘘のお世辞も言う。殺したくて仕方がない上司にもお歳暮を贈り、ゴマを摺る。
 つまり、無差別に本音で生きれば、隣人は皆殺人犯となり果てる(多分)。

 ブログなんかも同じで、皆自分の事を良くも悪くも書くが、ある程度はウソを混ぜる。でないと誤解を招くからだ。勿論、真実を語る事もあるが、所詮はノンフィクションの類に過ぎない。
 結局は、ブログもSNSも言葉の遊び(錯綜)に過ぎない。
 人は自分を正当化する時に限ってウソをつく。これは無意識に起きる自己防衛反応であり、責められる事でもない。
 つまり、人は加害者でもあり被害者でもある。加害者は本性を隠して生き延びるし、被害者はトラウマを背負いながら生きていく。
 そうやって、善と悪のバランスを上手く取りながら人は生きていく。

 しかし、大きくバランスを崩せば、凶悪な殺人犯にもなるだろうし、運よく良い方向に傾けば、名誉市民になる事もあろう。事実、模範市民と慕われた人でも凶悪な殺人鬼になりうる。
 例えば、資産家の名士であるジョン・ゲイシーは”殺人ピエロ”の異名を持つ伝説的な連続殺人鬼で、72~78年までに33人を殺害し、12回の死刑判決と21回の終身刑判決を受け、1994年に処刑された。しかし、普段の彼は会社経営者で休日には道化師(ピエロ)になり、福祉施設を訪れ、ボランティア活動をし、子どもたちを喜ばせていたのだから、始末に置けない。

 映画に登場する4人の少年らは、それぞれに問題を抱えるが、親や大人が抱える問題に比べれば些細な事である。故に、隣人の警官が殺人犯だと子供特有の直感と好奇心で気付いたのだろう。
 まるで、妄想に憑かれた多感な少年らが、狂気に染まった殺人鬼を追い詰める訳だが、オタク特有の妄想がサイコキラーを見抜く辺りを実によく描いている。

 という事で、意外にもハマった映画2本を紹介しました。



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