象が転んだ

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1%の閃きは99%の努力にも勝る〜引き算いや割り算的な生き方のススメ

2023年01月17日 12時33分33秒 | 読書

”天才とは1%の閃きと99%の努力である”

 これは発明王エジソンの有名な言葉である。しかし当のエジソンは、”私は<1%の閃きがなければ99%の努力は無駄になる>と言ったのだ。なのに世間は勝手に私を<努力の人>と美化し、努力の重要性だけを成功の秘訣と勘違いさせている”と怒ったというエピソードがある。更に、”ただ努力だけという人はエネルギーを無駄にしてるに過ぎない”とまで言及した事もあった。
 こうしたエジソンの怒りを誘発したのが、もう1人の発明王ニコラ・テスラとされる。
 電灯事業で直流式に拘ってたエジソンに対し、交流式を採用して、エジソンを打ち負かした憎々しいライバルである。
 テスラは”天才とは99%の努力を無駄にする、1%の閃きの事である”とエジソンの名言を揶揄したそうで、エジソンにしてみれば”私は閃きだって凄いんだ!”と怒り心頭になったとか・・・(Precious.jpより)

 つまりエジソンの格言は、”1%のアイデアがないと99%の努力は無に帰す”と言い換える事ができる。
 因みに、”2%の閃きと98%の努力”という風説もあり、だったら”99%の閃きと1%の努力”と言い換えてた方が、憎きライバルのテスラに袖にされず済んだのではないか。
 そういう意味では、テスラの方が天才度は高いとも言えなくもないが、努力や労苦を重んじる日本人にとっては”努力は天才にも勝る”という格言の方が受け入れやすかったのだろう。
 私も勘は鋭い方で、エジソンの格言を聞いた時、直感で”99%の閃きと1%の努力”と置き換える事が出来た。
 事実、ガロアやアーベルやベーブルースみたいに、(目立った)努力をしないでも大偉業を達成する天才は少なからず存在する。
 勿論、彼らの希少価値ある努力とは、我々庶民が意味する努力とは次元や精度や濃密度が違う筈だが、それでも努力家ではない事は確かだろう。
 少なくとも、”十で神童十五で才子二十過ぎればただの人”という村社会の諺は、彼らには全く通用しない。
 ”努力した結果、何かができるようになる人の事を天才と呼ぶのなら、僕はそうだと思う”というイチローの格言も、彼ら真の天才には通用しない。
 一方で、”天分は持って生まれるもの。才能は引き出すもの”というココ・シャネルの言葉は、要を得てると思う。

 そこで今日は、努力しない生き方についてです。農耕島民には耳が痛いテーマですが、宜しかったらお付き合い下さい。


継続はキツいだけ?

 夏の間、勤勉なアリは冬の食料を蓄える為にせっせと働き、一方でグータラで気楽なキリギリスは自由に遊んで過ごした。やがて冬が到来し、自分を生きたキリギリスは生き残り、アリには短い人生を奴隷の様に働いて過ごすだけという悲惨な現実が待っていた・・・としたら。
 勿論、イソップ寓話では逆の結果になるが、太平洋戦争での日本は、死滅したアリの方だった。
 ”日本軍は計画がうまくいっている間は、アリのように非情で大胆である。しかし計画が狂うと、アリのように混乱した”(ウィリアム・スリム)
 日本軍は不滅の努力と奇襲という決断によって一時は結果を出したが、アイデアを失い、柔軟性を欠いた判断の為に大きな代償を払う事になったとも言える。
 つまり、勤勉な筈のアリが自由を謳歌するキリギリスに敗れ去ったのだ。やがて日本(アリ)には冬が到来し、アメリカ(キリギリス)には春が訪れた。そして今、アリはキリギリスの奴隷と化してしまった。
 バブル期は(アリの様に)非情で大胆に行動した日本人だが、バブル崩壊後は(アリの様に)混乱したままである。
 まさに、アリの如く奴隷の様に働き、そのまま奴隷になった。こんな不条理な人生が何処にあろう。
 「蟻の兵隊」を読んで、つくづくそう思う様になった。

 人はなぜ、(余計な)努力をするのか?
 ”苦あれば楽あり、楽あれば苦あり”とか”継続は力なり”など、田舎では(学力と知力の乏しい先生から)散々教えられたが、今に思うと”苦あれば苦あり、楽あれば楽あり”であり、”継続はキツいだけ”である。
 冒頭で述べた様に、1%のアイデアがなければ99%の努力は泡と化す。 
 勿論、努力が全くの無駄だとは言える筈もないが、努力や継続だけでは明らかに限界がある。もし努力が全てなら、フェルマーの最終定理は僅か数年で解けてたかもしれないし、少なくとも360年も掛かりはしないだろう。
 つまり、農耕島民である日本人は、努力や頑張りがムラ社会における美徳であるという教えが、長い歴史の中で遺伝子の中に刷り込まれていったのではないか。

 事実、明確な根拠のない隣組の世話も”昔からやってるから”という理由だけで継続する。これも(日本人からしたら)立派な努力、いや伝統芸である。
 しかし、こうした無駄な努力や継続を取り除く事は可能なのだろうか?いや、アリみたいに奴隷の如く働き続け、(自分を生きる事なく)虚しい一生を終えるのだろうか?
 ああ、エジソンやテスラが生きてたら、この惨状をどう嘆くのだろうか。


引き算型の生き方

 昭和の時代も、こうした努力と継続により高度成長を果たしたが、先を見抜く閃きや考察を欠いた為、バブル崩壊という大きな代償を払う事になる。
 今では(昭和の時代と異なり)、”競争しない”とか”モノを持たない”とか”頑張らずほどほどに”といった”意識低い”系と称される自己啓発が静かなブームとなり、若い世代に大きな影響を与えている。
 その代表格であるひろゆき氏(西村博之)の自己啓発書「1%の努力」(2020)では、”努力信仰に振り回されない””生活コストを上げない””消費では幸せになれない”などを問いかけた。
 これは、経済が停滞した2000年代以降、効率良く人生を豊かにする事を目指す、今の時代に適応した”意識低い系の自己啓発”とも言える。
 以下、「”意識低い”系自己啓発が流行する理由とは?」より一部抜粋です。

 この”意識低い”は、上昇志向から距離を置き、無理な働き方や無駄な消費などを省く事で、”幸福の最大化”を図ろうとするものだ。筆者はこれを”低い”ではなく、”引き算型”と呼ぶ。
 これと対照的なのが、ホリエモン(堀江貴文)の自己啓発書「稼ぐが勝ち ゼロから100億、ボクのやり方」(2004年)で、”成り上がる”為の起業に焦点を当て、大金を如何に稼ぎ出すかがテーマになる。
 これは、”気合と根性でモノを売る。それこそが成功に繋がる”という上向き志向のハングリー精神や自己実現の欲求が原動力となる。筆者はこれを”足し算型”の自己啓発と呼ぶ。
 つまり、”金儲け=社会的成功”という短絡的で幼稚な縮図だが、その後のホリエモンの姿は”稼ぐが負け、100億からゼロへ”という損失の哲学と言えなくもない。

 よりよい人生を送る為の自己啓発は、成功哲学など社会的地位の上昇を達成する為のノウハウとして始まり、20世紀の産業社会に深く浸透してきた。しかし、21世紀に入って低成長時代を迎えると、”分厚い中間層”が失われ、結果、リスクを恐れて現実路線を取る様になる。
 やがて、自分に負債をもたらすだけの消費財や負担を”差し引く”事で、より自由に快活に生きると主張する”ミニマリズム”の台頭を促し、”大切な事以外はやらない”とする自己変革が流行する。 
 つまり、競争社会で疲弊する事を避け、モノや地位への執着を断ち、自分のポテンシャルを見極め、効率的合理的に生かす戦略。

 現実的に見ても、大半の人々にとって”足し算”的な生き方は困難である。では、どの様な生き方が可能なのか。
 ひろゆき氏は、”生活にかかるお金を上げてはいけない”と忠告する。”高いコストを維持する為に働くという倒錯に陥り、不幸な人生から抜け出せなくなる”と。
 つまり、買い物などのお金が掛かる消費活動ではなく、創造性を発揮し”自分を生きる事で幸福度が上がる”非消費的な活動の重要性を説く。
 足し算から引き算の自己啓発へのシフトは、大衆の関心が社会的成功から個人の幸福へと移っている事を明確に表している。

 こうしたミニマリズムは、やがて直接生き方を問う自己啓発書をも増やした。
 「人生を半分あきらめて生きる」「ゆるい生き方」「がんばらない成長論」「持たない幸福論」「がんばらない練習」「半分、減らす」など・・・常に自分と周囲を比較し、見えを張り、仕事の為に生活を犠牲にする”ザ・昭和”的なやせ我慢に疑いの目を向け、世間体や常識として刷り込まれてたものを”差し引く”事でより良い人生を創り出す。
 これには、親や教師などに吹き込まれた考え方こそが、本人を不幸にする可能性への警鐘も含まれる。

 経済の先行きは暗く、政治で何かが変わるとは思えず、かといって自助努力で大きな成功などは望めない過酷な世界で、自暴自棄にならずに生きるにはどうしたらいいのか?
 ”引き算型の自己啓発”は1つの答え(救い)になるかもしれない。なぜなら何かを”足す”ではなく”引く”事で、幸福度が上がると言うのだから・・
 以上、長々とOTONAanswerからでした。 


最後に〜社会的ジレンマ

 ひろゆき氏の本は初めて知ったが、引き算だけでなく、割り算型の自己啓発もテーマにすれば面白いと思う。或いは、指数関数型とか微分型とか、高度な自己啓発もテーマにする価値はある(多分)。

 考え方や価値観を変えるのは農耕族の遺伝子を組み替えるようなもので、簡単ではない。しかし、それだけ”引き算”という自己防衛に関心が高まってる証拠でもある。
 ”社会的ジレンマ”の様に、これが”自分のささやかな幸せだけは死守する”といったサバイバル志向を加速させ、結果的に社会的に殺伐な悪影響が生じるとしても、それに対する強力な解毒剤として更なる”引き算”を求めるだろう。
 因みに”社会的ジレンマ”とは、1人1人が自分にとって望ましい行動をとると(その行動自体には殆ど問題がなくても)そのような行動が集まった時には”社会的にも個人的にも望ましくない結果が生じる”というメカニズムであり、引き算型自己啓発によって社会が混乱しないとも限らない。

 努力や継続ではなく、自分を生きる。
 モノや消費や出世ではなく、思考を増やし考察や洞察を鍛え、幸福の本質を見抜く。
 ”1%のアイデアは99%の努力にも勝る”とは、日本古来の美徳とは逆行してるかもだが、”引く”事で物事の本質を曝け出し、アイデアや閃きを鋭くし、幸福度を上げる。同じ様に、掛ける事でデータは加速的に大きくはなるが、割る事で統計の本質を見抜く事が出来る。
 そう考えれば、引き算や割り算型の思考や自己啓発はやってみるべき課題でもあり、社会的ジレンマを差し引いても、損はないようにも思えるのだが・・・

 努力や継続は苦痛を伴う有限的なものだが、ランダムな思考や一瞬の閃きは苦痛を伴う事もなく、自由で無限にある。だったら、楽な方を選んだが勝ちである。
 つまり、(考えようによっては)”楽あれば楽あり”で、事実、戦争なんて苦痛だけで”苦あれば苦あり”の継続である。
 故に、競って裕福になる位なら、”心地良い穏やかな貧乏”こそが効率のいい幸福とも言える。幸福関数というのがあれば、明らかに後者の方が点数は高い筈だ。
 それに、一瞬の閃きが人生をも世界をも変えるとしたら?いや幸福の概念を一変させるとしたら?
 ひょっとしたら、我々はそうした転換期に来てるのかもしれない。



6 コメント

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穏やかな貧乏のススメ (腹打て)
2023-01-18 00:20:05
ガロアは実質3年、アーベルは5年ほどしか数学には従事してなかったとされる。
それでいて、500年先を行く数学の世界を描いてたんだから、真の天才とは恐れ入る。
大谷の登場で影が薄くなったイチローも、今となっては努力家に思えるが。その大谷だって天才と呼べるのだろうか。

引き算や割り算的な思考で幸福の本質を見抜くという視点も心地良い貧乏人にとっては贅沢なんだろうな。
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腹打てサン (象が転んだ)
2023-01-18 20:01:59
今のモノや情報に恵まれすぎた時代に
真の天才は生まれる事はないんでしょうね。
今、ゲーム理論の天才ジョンナッシュについての記事を書こうと思ってるんですが。
彼も真の天才の1人ですよね。
とにかく、ゲーム理論の深い世界についていくのに精一杯で、その点イチローや大谷の天才は可愛いもんかもです。
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Unknown (1948219suisen)
2023-01-18 20:56:02
転象さんの言われるようにやっぱり世の中に天才はいますね。

そういう人を指してギフテッドとか言いますね。

そういう人は人ができないことが努力しないで楽々とできます。

が、そういう天才が必ず幸せになれるとは限らなくて、しばしば精神疾患を伴っていたりします。

天才とキチガイは紙一重というのも当たっていると思います。

結局、人は非凡であるより平凡であるほうが幸せになれると思います。

だから、天才ができることができなくても、力を落とすことはないと思います。
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資本主義の行き詰まり (平成エンタメ研究所)
2023-01-18 21:50:05
こんな落語があります。
年中、寝転がって怠けている男が一生懸命、お金を稼いでいる男に「なんでそんなに働くんだ?」と尋ねるんです。
尋ねられた男は「お金を稼いで、人を雇って店を大きくして、寝転がって暮らせる生活を送るためさ」と答える。
すると怠けている男は「何だ、今、俺がやってることと同じじゃないか」笑

現実とはこういうものかもしれませんね。
僕たちは、その日暮らしで遊んで暮らす江戸時代の知恵に学ぶべきかもしれません。
……………………………………

引き算の発想。

足し算は「経済成長」と言い換えることができるかもしれませんが、成長を追求した結果、異常天候など地球が悲鳴をあげています。
先進国の成長も限界に来ていて、為替変動で儲けたり、空気や水を売り買いしている始末。
資本主義は行き詰まりを見せている気がします。

僕たちは「足し算」から「引き算」に意識を変えるべきなのかもしれません。
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ビコさん (象が転んだ)
2023-01-19 04:57:55
天才とは、自分が天才であるという自覚だけで贅沢の極みなんですよ。
凡人の幸福もあれば、天才の異次元の贅沢もある。
でも、天才から見た凡人の幸福とはどう映るんでしょうか。

言われる通り、天才とキチガイは紙一重という諺もありますが、天才も暴走すると凶器(狂気)にもなる。勿論、うまく行けば狂喜に舞うんでしょうが。
そういう私がもし天才になれたとしたら、努力も何もせずに、猫とタヌキ三昧でゴロ寝して暮らしてみたいですね。
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エンタメさん (象が転んだ)
2023-01-19 05:04:40
資本主義とか経済成長とか民主主義とか
聞こえはいいんですが
結局、究極の贅沢は優雅な貧乏なんですよね。

そういう意味では、江戸時代の人は幸福の本質を既に見抜いてたんでしょうか。
事実、黒船来航のペリー提督は、江戸庶民の慎ましい暮らしぶりを見て、その優雅さに舌を巻いたとされます。

足し算を生きるから引き算を生きる。
全てに飽和状態の人類社会では、そういう生き方が民主的で合理的なのかもですね。
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