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リーマン予想と素数の謎”2の8”(’20/8/15更新)〜ガウスが眺めた素数の謎と、幸運と悲運の生き様と〜

2019年05月09日 05時09分17秒 | リーマンの謎

 前回"2の7"ではリーマンが眺めた素数定理でしたが、今回はリーマンの師匠であるガウスが眺めた素数の謎です。先ずはガウスの複雑な生き様からです。
 素数定理(PNT=PrimeNumberTheorem)を最初に察知したのは前回でも紹介したカール•フリードリッヒ•ガウス(1777-1855)でした。史上最高の数学者”とも評され、若い頃は”数学の貴公子”と呼ばれた。
 因みに、彼の死に際し、ハノーファー王ゲオルク5世は、記念のメダルを注文し、その称号を刻んだ程です。 


ガウスの生涯と幸運と悲運

 ガウスは極めて低い身分の出だった。父は日雇いの庭師でレンガ職人を兼ねてた。当然ガウス少年は地元の粗末な学校に通う。
 8歳の貧相なガキはいきなり伝説を作る。”100までの数を全て足しなさい”という宿題に、ガウス少年はすぐに答えた。”ホラ出来たよ”と石版を差し出した。
 カラクリはこうだ。少年は1,2,3,,,100と順に数字を並べ、逆に100,99,98,,,1と並べた2つの行を足した。すると101が100個出来るが、どの数も2回ずつ出てくるので、求める答えは101×100を2で割って5050になる。 
 以来先生は、ガウス少年の能力に驚嘆し、労をいとわなかった。住んでた地も幸運だった。この地はカール•ヴィルヘルム公が治めていて、ガウスの評判が知れ渡ると、荒削りな風貌の天才少年が気に入った。以降自ら死ぬまでガウスをずっと庇護し、経済的支援を与え、若いガウスが数学者や物理学者や天文学者としての傑出した生涯に寄与し続けた。いやそのつもりだった。

 しかしガウスもリーマン同様に、国内外の動乱に巻き込まれる。1806年には、この地もナポレオン戦争に突入した。71歳のヴィルヘルム公は軍隊を指揮し、フランス軍と戦ったが重傷を負い、他界する。その後もナポレオンの攻略を何とか耐えしのぎ、公国だけは取り戻していた。
 因みに、ガウスがゲッティンゲンに着任した頃、この独西部を侵略するに際し、ナポレオンは、”ここには史上最高の数学者がいるから”と、この街を攻撃しなかった。
 1807年、後ろ盾をなくしたガウスはゲッティンゲン大学天文台長に着任する(30歳)。ガウスの母校であるこの大学の見事な図書館に惹かれ、以降77歳で他界するまで、ゲッティンゲンに留まる事になる。

 そんなガウスも私生活は不幸の極みにあった。最愛の妻ヨハンナは若くして亡くなり、それを追う様に次男ルイスも夭逝する。再婚相手のミンナも長い病気の末に他界する。
 特にヨハンナの次女のヴィルヘルミーナはガウスの才を継ぐとされたが、彼女も若くして他界した。偉大な数学者には不幸と不運が常に付き纏うんですね。

 意外に知られてない事だが、ガウスは数学の教授になった事はなく、教師となる事も嫌ったという。数学の巨人であり、一流の物理学者だったガウスは同時に優れた天文学者でもあり、小惑星ケレスの軌道を初めて正しく計算した人物とされる。 


完璧主義者ガウスのトラブル

 信心深く保守的な人物だったガウスは、数学者としては特異な存在であった。彼が発表したものは実際に書いたものより遥かに少なかった。ガウスが生涯残した実績は凄まじいものだが、それもごく一部である。
 まず第一にガウスには野心がなかった。穏やかで自足した慎ましい男で、財産もなく大人になったんだが、ヴィルヘルム公の庇護もあり、名声や金銭や出世を欲する事もなかった。二つ目は、リーマン同様に”完璧主義者”であった事だ。

 曇り1つない論理以外は、発表する気にはなれなかった。つまり、磨き上げられ、研ぎ澄まされすぎた超天才の欠点なのかもしれない。
 事実これは数学者の共通の欠陥であり、故に発表された数学の論文を読むのは非常に退屈な仕事になるという。
 ”完結した創造物として提示される論文も、完成するまでの気の遠くなる様な手間は隠される。隠されるのがウンザリする程の長く孤独な作業の場合は特にだ”(A•ゴフマン)。

 確かに数学の世界では、”故に〜である”とか”これは〜で明白だ”とか、抽象的でイライラする言葉が出てくる。多分この言葉だけで数学に嫌気が刺した人も多いだろう。
 つまり数学の世界で”明白だ”というのは、やたらと時間を掛けた結果なのだ。英国の数学者G•H•ハーディーは、自分で明白だと言っておきながら、暫く考え込んでしまったという、笑うに笑えない伝説を持つ。

 少し補足をするが、ガウスにとって研究で美しい結果を得る事が最大の報酬であり、他人の認知を必要としなかった。その上、世間の無理解や誤解により生ずる論争の煩わしさを嫌った。確かに訳判らんコメ送る人いますもんね。
 そして第3に、当時の成果発表手段の乏しさがあった。今の様に論文を送る学会誌や論文雑誌は存在せず、主として自家印刷の小冊子や単行本に頼った。
 また天文学者で物理学者でもあったガウスは、測量学や天文観測などで多忙であった。
 それに、ヨーロッパの混乱による経済的困窮などにより、ガウスが密かに計画した解析学の大著述も、ついに世に出る事がなかったとされる。

 野心も処世術も身につけてないガウスは、周囲の数学者とのトラブルも大きかった。ガウスの完璧主義はトラブルの種にもなった。
 例えば、ガウスが1809年に発表した”最小二乗法”を1794年(17歳)に発見していたと言った。”最小二乗法”とは、近似を求める際、残差の二乗和を用いる方法の事で、これによりガウスは、ケレス惑星の軌道を割り出した。
 しかし偶然にも、年上のルジャンドル(仏)も同じ方法を発見し、1806年に発表したが、ガウスの言った事に激怒したという。
 勿論、ガウスの言った事は正しいし、裏付けもある。でも自分の功績だと主張したいなら、その時に発表すべきだった。しかし、彼の完璧主義がそれを妨げた。完璧に仕上げられた論文でない限り発表しないと。

 リーマンにも同じ事が言えた。1859年の論文の中で、リーマン予想の鍵となるゼータの虚根を求める計算式を”粗雑な計算”として発表しなかった。これにより、リーマン予想の研究は数十年が遅れたと言う。


ガウスの素数定理の予想と発見(1792)

 しかしガウスにも言い分があった。1849年(62歳)の友人エンケに宛てた手紙では、以下の様な事が判ってる。
 ガウスの素数の頻度(素数定理)に関する研究は、1792か1793年(15か16歳)に始めたとされる。
 ガウス少年は、素数が大きくなる毎に頻度が下がる事に先ず注目した。前回”2の7”でも述べたが、千ずつに区切った区画毎に素数を数え、何十万に至るまで数え上げた。しかし、百万に及ばない所で諦めた。
 この方法では手間と時間が掛り過ぎる。そこで天才ガウス少年が考えたのが、”空いた15分”で知られるやり方の筈だった。必要なのは鉛筆と829までの素数表と何枚かの紙だけである。
 そこでガウスは、700001から701000までの素数を抜き出す作業を試みた。事実829までの素数表があれば、701000までの数について素数を見つける事は基本的に可能だ。

 先ず、ある数Nが素数かどうかを判定する為に、素数2,3,5,7,,,と素数で次々とNを割っていき、その素数の何れかで割り切れれば、Nは素数ではない。
 そこで延々と割ればキリがないので、割る数にする素数が√Nよりも大きくなった所で止める。”2の2”のも参照です。
 例えばN=47の時は√47=6.8556...より、2,3,5で割ればいい。この3つで割り切れなければ47は素数である。7が無視できるのは、7×7=49で、47が7で割り切れれば、商(割った値)は7よりも小さくなる筈だからだ。
 そこで、√701000≒838.2574...より小さい最後の素数は829である。同様に、もし次の素数839で701000が割り切れるなら、商は839より小さい数になる筈。

 しかし、ガウス少年は僅か30分で諦めた。47で割る所まで行っただけだ。割る必要がある素数がまだ130個も残ってたのに。という事は数学の歴史を揺るがす大定理に僅か30分で気付いた事になる。
 そしてとうとうガウス少年は、素数の頻度が対数の反比例に近づく事に気付いたのだ。これこそがガウスが予想した素数定理”十分大きな整数N(→∞)が素数である確率は、1/logNと近似できる”である。”2の5”も参考です。


ルジャンドルの言い分

 偶然にもガウスとルジャンドルの因縁は、前述した”最小二乗法”だけではなかった。この素数定理にても物議を醸す。
 アドリアン=マリ•ルジャンドル(1752-1833)こそが最初に素数定理を発表したのだ。この1798年は、ガウス少年が素数定理を予想したとされる5、6年後の事だった。
 それにルジャンドルは「数論試論」という本の中で、”今後決定すべき数A、Bに対し、π(x)~x/(Alogx−B)が成り立つ”と予想した。
 一方ガウスは、前述したエンケへの手紙で、”Aはxの値が大きくなると、1.08366に近くなる傾向にある”と予想した。勿論明確な結論ではないが。
 ガウスにとって唯一ラッキーだったのは、このエンケへの手紙が表沙汰になる前に、ルジャンドルが死んだ事だ。知ってたらどうなった事か?考えただけでもゾッとする。

 このルジャンドルも凄い数学者だった。彼が書いた本はあのアーベルやリーマンにも大きな影響を与えた。特に「幾何学元論」は100年以上にも渡り教科書になり、ガロアが数学にのめり込むキッカケを作った。
 前述した「数論試論」だが、リーマン青年が絶賛した程だったが、ガウスの「整数論」に埋もれた形となった。また、「楕円関数論」も名著と称されたが、これまた後発のアーベルやヤコビの陰に埋もれた。
 偉大な業績を残し続けたルジャンドルも、貧困の内に亡くなった不幸な数学者の一人でもある。つまり、ガウスの素数定理も凄いが、ルジャンドルも負けてはいなかったのだ。

 以上、リーマンとガウスの生涯と2人が眺めた素数の謎を大まかに2回に渡って述べましたが、数学には如何に神がかりな直感と洞察が必要であるかが理解できますね。
 それに2人に共通するのが、信心深く哲学的深い思考の持ち主である事。それに共に、数学以上に家族を愛し続けたという事、特にリーマンは姉を、ガウスは前妻を一生忘れる事はなかった。



2 コメント

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数学的な内容はチンプンカンプンですが (びこ)
2019-05-10 03:47:39
この部分は理解できます。↓

>ガウスにとって研究で美しい結果を得る事が最大の報酬であり、他人の認知を必要としなかった
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ビコさんへ (lemonwater2017)
2019-05-10 04:20:00
コメント有難うです。

初めてガウスという人なりを知ったんですが。
偉大なる数学者でもあり物理学者でもあり天文学者でありながら、ガウスは最後まで教授や教師の職に就く事もなかったんです。

まさに数学者の究極の理想像いや理想鏡ですかね。改めて凄い人だなと思います。
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