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八尾隆生先生の著作を読んで 書評篇その9

2009-11-29 19:51:33 | 日記

「八尾隆生先生の著作を読んで 書評篇その9」

⑷儒教思想(とりわけ朱子学)の普及について
黎朝前期の政治史を考える上で、儒教思想、とりわけ朱子学がいかに普及し、どの程度社会に浸透したかという問題はきわめて重要であり、研究者によって見解が分れるところである。
八尾氏のこの問題に関する理解は次のようなものである。
「太宗から仁宗期までの科挙を理念的に実施したのは、反宋学時代である胡朝期の官僚であったが、現実として登場した科挙官の一人である呉士連は、聖宗期に自らが撰した『全書』の按文の中で胡氏の反宋学的姿勢を批判している。更に聖宗期の科挙を推進したのはこの太宗~仁宗期の科挙登第者であった。彼らの多くは顕官になる以前に、経筵官として仁宗や宜民、聖宗の教育に携わっていた。
 更に彼らの多くは奉使者として明を訪問した経歴をもち、明をモデルにした思想改革をめざしたことはまちがいあるまい。光順3年試の状元梁世榮には殿試での庭対策文(『歴朝庭對文』所収)が残っているが、その答案に、読巻官である阮如堵(大宝3年試の榜眼)らは「語語精切にして、程・朱の文を讀むが如し」という賞賛のコメントを付している。社会の上層で栄達を求める階層では朱子学の浸透が進んでおり、聖宗の没後、政局は混乱しつつも、科挙はほぼ三年一比が守られ、朱子学は国学としての地位を確固としていくのである」(165頁)。
また1434年の科挙開設の詔の中では、郷試第一場に「四書」を使用することが記され、初期段階から、応試条件として、朱子学の知識が要求され、翌紹平2年(1435)12月には「新刊四書大全官板」が完成したことに言及している(174頁註33)。

先の引用の中で、1463年の科挙及第者梁世栄の殿試答案に対するコメントから、朱子学思想の浸透を史料的に実証した点は氏の功績の一つである。1442年の合格者で読巻官であった阮如堵が、程・朱の文を読むようだと賞賛しているということは、当時の儒教思想の受容状況を推察する上で興味深い事実である。氏も言及しているように、胡季犛は明の国学である朱子学を否定していたのであるから(147頁、172頁註21参照)、その後、ヴェトナムに受け入れられた儒教思想の内容がどのように変容していったのかを探究することが求められる。氏の想定するように(148頁)、朱子学が普及する上で、明王朝が果たした役割が大きかったのかについても重要な論点の一つであろう。

また、ヴェトナム科挙官僚の抱く儒教思想、例えば、政治観、法律観、歴史観を具体的に解明することが次の課題であろう。この点、八尾氏も朱子学受容の実態解明が進んでいない現在の研究状況について、次のように述べている。すなわち、「15世紀の朱子学革命は確かに上からのものであり、その影響は社会の上層にのみとどまり、しかも思想的には皮相なものにとどまったと言える。しかし上からの改革と農業的成熟の事実は、桃木が論じたように小農社会形成の開始を陳末にまでさかのぼらせることを可能にした。そしてそれが胡朝期の政策失敗や明との戦争でいったん荒廃した後、聖宗期に至ってようやくその再編(均田制―田土拡大の限界・平等分配)が成り、思想的内実を与えるための努力と皇帝独裁を支える機構の確立(朱子学振興)がなされた、そう考えられる。だが、肝心の当時の朱子学受容の実態解明も進んではいない。」(421頁)。それでは氏が提起した問題の一つとしての思想的内実の問題を探るには、どうすればよいのであろうか。評者は、その際の手掛かりとしては、八尾氏も先に言及している科挙官僚呉士連(1442年合格)の按文を分析することがやはり必要であると思う。この点について、先駆的業績としては、ウォルタース氏の研究(O.W.Wolters, 1996)があるが、いまだ十分でない。例えば、モンゴル軍による南宋の滅亡を論じた1279年の按文に彼の歴史観ないし宇宙論が如実に表現されていると考えられ、再検討を要しよう。その史料は次のように『全書』1279年正月の条にある。
元人襲宋軍于山、敗之。宋左丞相陸秀夫負宋帝入海死、後宮諸臣從死者甚衆、越七日、屍浮海上者十余万人、宋帝屍在焉。星隕于海之應也。是歳宋亡。
史臣呉士連曰、天地之間陰陽ニ氣爾。人君致中和、則天地位焉、萬物育焉、而其氣和、苟或陰氣盛而妄于陽、則天地必爲之示變焉、故變示於前、而徴應於後。當是時也、日食日盪、地裂雨雹、星流、皆陰盛于陽之氣、非臣下謀君父、即夷狄侵中國之兆。凡有國者、謹天戒、盡人事、囘天變之道也。宋既天變不可囘、而我越尋有胡虜之侵、幸而君臣協謀、兵民戮力、卒除北寇、而成大定之功、故曰謹天戒、盡人事、囘天變之道也。
朱子の宇宙論は、「天地は初間(はじめ)、只是(ただ)陰陽の氣のみ。這の一箇の氣運行し、磨し來たり磨し去く」(天地は、はじめはただ陰陽の気だけだった。この一気が運動してひたすら摩滅を繰り返す)とあるように、朱子は全宇宙論的規模における一気の回転のある運動形態を石臼のイメージで表現した。そして朱子は、「宇宙の間、一理なるのみ。天、之れを得て天たり、地、之れを得て地たり」というように、天さえが理=法則性において天たりえているという理の名における宇宙論であった(溝口、1992年版、282頁。三浦、2008年、287頁―290頁)。一方、呉士連の按文には、「天地の間に陰陽の二氣のみ」とあり、「中和を致して、天地位し、万物育す」(『中庸』)とある。果たして呉士連の思惟構造が、中国的朱子学のように(溝口、1992年版、283頁参照)、「理先気後」といった理優位の理気論であったのか、また天(理法)が政治の指針とされ、為政者の徳性が政治の前提とされるような中国流の政治観を抱いていたかなどの論点について、具体的に検証することは今後の課題である。その際に、「天戒を謹みて、人事を盡くして、天変の道を回すなり」という表現内容は、重要な考察対象となろう。
こうした呉士連の思想は、日本の江戸時代の荻生徂徠や本居宣長といった思想家の歴史意識とは対照的である。その江戸時代には、朱子学的宇宙観・歴史観を根本的に批判し、天についての形而上学的な考え方を次第に脱却していった思想動向がみられたのである(江戸時代の歴史意識については、丸山、1995年版、26頁、58頁、98頁―103頁、167頁―170頁。源、2000年、72頁―74頁、120頁、199頁―201頁)。

また、黎嵩の歴史観は『越鑑通考總論』に現れている。
由太祖高皇帝勇智寛仁、君臣協心同徳所致也。觀其帝之神武不殺、即天地之心也。秋毫無犯、即天地之量也。收養諸路流民、即天地之仁也。放歸十萬降卒、即天地之徳也。賢擧有令、則成湯之立賢無方也。諭降有書、即成湯之代虐以寛也。兵農有法、即武王之農用八政也。牧民有條、即武王之寵綏四方也。諭以十條軍政、講君臣之義也。布以六條教化、明父子之倫也。慎重刑罰、謹號令之信也。結好明國、存交鄰之禮也。若夫建太廟、以奉祖考、設學校、以明人倫、平呉大誥、無非仁義忠信之言。藍山實禄、無非修齊治平之道。宜乎定大越之乾坤、奠皇圖之社稷、豈趙、丁、李、陳所能及哉。然後知帝王大業也。綱常正道也。綱常立、而帝王之大業以成。仁義明、而天下之大器以定。湯武推仁義之心、爽仁義之師、其得天下以正、守天下以仁、故能臻有道之長。欽惟太祖高皇帝取天下於狂明寇亂之餘、其得天下也甚正。其守天下也以仁、尤必維持之以義、固結之以仁(ママ)、照臨之以智、範圍之以信、其修齊治平之道、(下略)」
とある(陳校合本[上]、1984年、93頁)。
黎嵩(もとの名は楊邦本、1452―1514年)は、山南承宣蒞仁府青廉県安渠社の出身で、1484年に合格した科挙官僚である。八尾氏は襄翼帝反攻に貢献した文臣として注目している(382頁)。1514年に著された『越鑑通考総論』に見られる歴史観にも、太祖黎利を賞揚し、「『平呉大誥』は仁義・忠信の言に非ざる無く、『藍山実録』は修斉・治平の道に非ざる無し」と明言している。つまり、「黎利の参謀役阮廌の手になる独立宣言」(5頁)である『平呉大誥』こそ、仁義・忠信の言であり、「黎利の抗明戦を記した編年体の史書」(34頁)である『藍山実録』こそ、修斉・治平の道にほかならなかった。
そして、黎嵩が『越鑑通考総論』を執筆した理由については、
方今皇上陛下、恢太祖高皇帝之洪圖、纘太祖高皇帝之良法、特命臣撰越鑑通考總論、蓋以扶天地綱常之道、明帝王治亂之原、與夫述太祖高皇帝創業之艱難、使天下後世誦念而不忘焉(陳校合本[上]、同上)。
「方に今、皇上陛下、太祖高皇帝の洪圖を恢し、太祖高皇帝の良法を纘(=継)がんと、特に臣に命じて、越鑑通考總論を撰せしむ。蓋し以て天地綱常の道を扶け、帝王治亂の原を明らかにし、夫れとともに太祖高皇帝の創業の艱難を述べ、天下をして後世に誦念せしめて、忘れざらしむるなり。」とある。一般に通史で黎朝の黄金時代を築いたとされる黎聖宗ではなく、抗明戦で勝利を収めて黎王朝を開いた黎利、こと太祖高皇帝の洪図(大きなはかりごと)を回復し、その良法を皇上陛下(襄翼帝)が継ごうとして、黎嵩に『越鑑通考総論』を著述するように命じたのであった。
八尾氏も序章において、この『藍山実録』の修史過程を追究した(14頁―25頁)。莫氏簒奪以前の黎初(15世紀)の『藍山実録』修史の特色について、黎利の帝王としての地位を確固たるものにする点を指摘し、修史作業の過程で、科挙で抬頭してきた文人官僚を動員することにより、彼らを取り込むことに一定の効果があったと推察している(17頁)。なお襄翼帝即位の正統性に疑義を挟む者も多くおり、1511年に申維岳や陳といったデルタ出身の科挙官僚およびその子孫が反乱を起こしているのも事実である(384頁)。黎嵩の科挙官僚としての政治的行動とその著作に表れた歴史観との関係を知るには、更なる探究が必要である。ただ、その際に『越鑑通考総論』が書かれた1514年9月と同じ年には、黎朝始まって以来、最高の会試応試者(378頁を参照すれば、5700名ないし5400名)のあった科挙が行われ、黎嵩は殿試の監督官を務め、その前年1513年には進士題名碑の撰記を務め、科挙制施行の最盛期に相当する時代であったこと、そして襄翼帝が弑殺される1516年3月の陳の反乱はまだ起こっていないことは軽視されてはならない。こうした歴史事実を踏まえて、彼の著作内容を検討すべきであると思うが、ここでは黎利を賞揚し、『藍山実録』を重視した黎嵩の歴史観の一端を紹介し、問題提起をするに留まり、後考を待ちたい。

以上のように、科挙官僚の儒教思想に関して検討すると同時に、開国功臣およびその子孫がいかなる思想を抱いていたかを探る必要がある。一般に黎朝初期の開国功臣は儒教に反対し、多くは仏教を信奉したといわれるが(173頁註30)、科挙制の確立した聖宗期以降、何らかの変化が想定される。この問題については、八尾氏は、
「功臣は黎朝成立以後、丘陵を下り、本人は京師在住となり、故郷から離れることになる。しかもその賜田は国家政策によって散在しており、そのため、デルタに降ってきた一族は分散居住することとなった。しかし、中央での権力闘争のため、親族の結束、婚姻を道具とした他家との連合をはかる必要があった。こうした必要性からやがて功臣の家から宗族意識が形成され、儒教思想で飾りながら、たとえば宗族内部での秩序や支派序列の形成が生まれ、更にその経済的影響下にある一般民の宗族形成を促進する役目を担ったと推定される。ただしそのプロセスや、村落(地縁)との関係についてはまだまだ未解明のままである。」(421頁)
と述べて、功臣が儒教を受容する政治的・社会的必要性について論及している。さらに宗族形成のプロセスや、村落(地縁)との関係といった残された今後の課題を提示している。

ところで朱子学の受容というテーマという点に関して、広く東アジアに目を向けて、朝鮮と日本を考えた場合、儒者の社会的存在形態に注目した渡辺浩氏の業績に注目する必要がある。朝鮮では、特に16世紀以降、朱子学の支配が中国以上に徹底し、朱子学内部で、「四端理発七情気発」論争や「人物性同異」論争といった哲学的思弁と議論の深化が進んだといわれる。この要因として、両班の社会的存在形態と政治史的・外交史的経過とが挙げられる(渡辺、1997年、123頁)。そして朝鮮の儒教は冠婚葬祭や日常の行為規範レベルにまで浸透したといわれる(瀬地山、1996年、214頁―221頁)。一方、日本の近世儒教史については、丸山眞男氏は、その名著『日本政治思想史研究』において、藤原惺窩や林羅山によって確立された朱子学・朱子学的思惟様式が解体する過程として理解し、その朱子学に対するアンチテーゼの大成者として荻生徂徠を捉えたことは周知のところである(丸山、1995年版、33頁―40頁)。渡辺氏は、その徂徠学を、「科挙のない社会における、治者ではない儒学者による、治者のための思想」と総括している。そして日本の儒者の社会的存在形態は、町で塾を開き、その授業料を生活の糧とする「町儒者」と、将軍・大名に仕えて、禄や扶持を受ける「御儒者」の2つに類型化できるという。中国、朝鮮、ヴェトナムでは科挙制度が存在したが、将軍・大名の支配する日本にはそれがなかった(渡辺、1997年、127頁―129頁、158頁、203頁)。東アジアの儒教受容のあり方を比較するには、科挙制の存否という政治制度・官僚制度の根本的相違にまで、深く踏み込んで問われる必要がある。
ちなみに中国、朝鮮、日本、越南(ヴェトナム)、琉球といった東アジアにおける儒学思想を比較するには、対象とする時代が19世紀前半で、八尾氏の著作の15世紀~16世紀より下るものの、多くの示唆を与えてくれるものとして、渡辺氏の作成した「東アジアにおける儒学関連事項対照表」(同上、142頁―145頁)が有用である。それによれば、越南の家系の観念は、双系から父系へ徐々に移行し、財産の相続は、男女均分から男子均分へ移行したとする(但し、この表で主な刑法として、『国朝刑律』を挙げ、その編纂年代を1483年とするのは疑問であり、典拠不明である)。

以上、4つの問題について愚考を開陳してみた。八尾氏が、結語において提起した「一国史観」からの脱却という課題を私なりに受けとめて、中国・日本・朝鮮といった東アジア諸国の比較史的視点を導入して、論点を整理してみた。とりわけ官僚制の確立や朱子学の受容というテーマについて、現時点での成果を参考にして、私見を述べてみたが、本格的な比較史になるには程遠い内容である。また黎初の官僚制の理解には、八尾氏の見解と異なる点もあるが、このことはこの度の大著の研究成果の価値を減ずるものではない。むしろ、八尾氏が提起した今後の課題とともに、後学の研究や議論のための前提ないし素材となることを望むものである。
前近代ヴェトナム史において、研究対象とする時代が黎朝で、八尾氏と同一ということもあって、今回、氏の大著を賜るという光栄に浴することとなった。記して感謝の意を表し、四半世紀にわたる交誼を想いつつ、この要約紹介と批評の筆を擱きたい。

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藤井勝「近世農民の家と家父長制」(永原慶二編『シリーズ比較家族 家と家父長制』早稲田大学出版部、1992年[1996年版]所収)
江守五夫「家父長制の歴史的発展形態―夫権を中心とする一考察」(永原慶二編『シリーズ比較家族 家と家父長制』早稲田大学出版部、1992年[1996年版]所収)
宮嶋博史「東アジア小農社会の形成」(溝口雄三ほか編『アジアから考える6 長期社会変動』東京大学出版会、1994年所収)



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