書について
以上、諸作家の書いた『文章読本』を中心にして、文章、名文、日本語の特質などについて考えてきた。次に、文字である漢字を芸術にまで高めた書の歴史について考えてみたい。
漢字は単なる伝達手段であるだけでなく、書という線の美しさを表現する芸術の素材でもある。中国から伝来した書法は、多くの日本人の心を捉えて魅了した。中でも聖武天皇と光明皇后の書は注目しうる。
こうしたテーマを考える際に格好の本がある。魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』(講談社選書メチエ、1996年)などである。これらの本の内容を紹介しながら、漢字と書の関係、書の歴史について述べてみたい。
中国書道史について
書は文字を素材として、中国に発達した特殊な芸術であるといわれる。書は、線の持つ特殊の美の総合表現であるともいえる。線の特質は、形としての役割を演ずるばかりでなく、線の太細勁軟、筆圧の軽重、運筆の遅速による持ち味、形にみる力の均衡、さては結体章法などが独自の書風をなす源泉である。
中国において書が芸術として発達した主因は、中国の文字すなわち漢字そのものの持つ特性にあった。その書の美が、どのように実現展開したかをみるのが、書道史であろう(平山、1965年[1972年版]、1頁~2頁)。
平山観月は中国書道史のおよその流れを次のように要約している。つまり、上古(秦より以前)に端を発した中国書道は、中古(秦漢から唐)にはいって漢末に大成し、晋魏に興り、唐にいたって整い、近古(宋から明まで)にはいっては、北宋においてくずれ、それ以後、近世(清代以後)を含めて衰退したと平山はみている。
書道の隆昌をみるのは、国家興隆のときであり、またその萎微沈滞をみるのは、国力衰退のときである。まさに書は人をあらわすと同時に、時代の精神、民族の特性を表現するものであるとみる(平山、1965年[1972年版]、21頁~26頁)。
行書の起源と完成について
一般的推論として、古文から篆隷が生まれ、隷書から楷書、楷書の速書きから行書、行書の略化から草書が生まれたであろうということになっていた。しかし20世紀になって漢代の木簡が楼蘭で発見され、この説はくつがえってしまった。
楷、行、草の三体はいずれも漢代に萌芽して漢末には完成していたが、その成立の順序は、草、行、楷と考えられるようになった。
この点を詳述すると次のようになる。漢代の隷書の特長は「曹全碑(そうぜんひ)」のように、横画の終筆を右にはね、のびのびとした流麗な波勢を長くつくっていることにある。隷書をより平易に便利に速く書きたいという要求から略化が進み、草体が生まれていった。木簡の資料が示すように、一字一字独立したいわゆる章草(しょうそう)とよばれる草書が前漢時代にすでにできていた。これは隷書の波勢をまだ残していた。これがさらに波勢を省略して下に続ける工夫が重ねられて、後漢の初めには今日の草書が確立された。
行書の成立は草書よりずっと遅れているが、漢末には完成している。行書も隷書を簡易にしたものといわれている。楷書は行書よりさらに遅れて、漢隷が波勢を失って次第に楷書の姿をあらわしたのは、漢末から三国時代のころであると考えられるようになった。
ともあれ、行書は書をより速く、より書きよく、より能率的なものにしたいという実用上の要求から、点画を続けたり、省略したり、時には筆順を変化させたりして、できあがった書体である。
たとえば、点画が省かれる場合、「雲」や「草」という字では、「雨」の左右の点や「くさかむり」を二つの点にしたり、「然」や「馬」などでは点を三つにしたり、ときには一本の線にしたりする場合がある。
行書・草書の筆順について補足しておくと、たとえば、「禾(のぎへん)」は、楷書では縦画は第三画であるが、行書では第一画からすぐ縦画に続き、その終筆から横画に続くように書く。そのほうが上から字が続いてきたときに縦の流れが出るし、また速く書け、しかも自然なのである。このように行書では筆順が変わる。
草書になると、点画の省略がいっそう激しくなり、形そのものが変わってしまう。たとえば、「人偏(にんべん)」「彳(ぎょうにんべん)」「氵(さんずい)」「言(ごんべん)」はみな同じ形に書かれる。このように、草書では部首の扁(へん)や冠(かんむり)などのほとんどが、何種類のものを同じ形に書く。たとえば、唐の孫過庭の撰書として「書譜」がある。これは草書の経典であるばかりでなく、その内容の書論は、六朝以来の諸家の書論を集大成したものである。その「書譜」の中の「断可極於所詣矣」の部分について、「詣」の字は、「臨」とか「治」とかいろいろ読まれている。この点、松井如流は「孫過庭考」において、ヘンは言ベンで、「詣」が正しいものとみなしている。その理由は、「書譜」の中に散水を棒のように書いたものはなく、また「臨」と見ることは無理があると主張している(松井、1977年、193頁、204頁~205頁)。
ところで、隷書や楷書は一点一画を幾何学的に組み立てているので、厳正な整斉美を感じさせる。だから、行書や草書のような流動の美はあまりあらわれない。行書はすらすらと続けて書くから、筆脈が自然に紙面にあらわれ、点画や形に円味が多くなって、自由さと流麗さが加わり、流動感の強いものになっている。
漢代に萌芽して漢末には定形化したと思われる行書は、六朝時代になって、書聖・王羲之の出現によって、完成をとげるにいたった。王羲之は楷行草の完全な普遍的様式化に心血をそそぎ、端正典雅な書風を樹立した。その貴族的気品の高さは、宮廷を中心に中国の人々に愛され、日本においても書法の典型として今日に及んでいる。
王羲之の行書としては、「蘭亭序」、唐の僧懐仁が王羲之の書を集めてつくった「集字聖教序」、そして「興福寺碑」が名高い。「集字聖教序」は、行書の基本的用筆を理解するための千古極則であるといわれる。
行書の古名蹟を見ると、それなりの特徴をもっている。王羲之の「蘭亭序」は、背勢ですっきりとして清冽(せいれつ)そのものであり、唐の顔真卿の「争座位稿」は、向勢で素朴剛健、情熱がほとばしっているといわれる。また唐の太宗の「温泉銘」や「晋祠銘」になると、博大敦厚、悠々としてせまらざるものがあると評せられる(上條、1970年[1971年版]、12頁~13頁、19頁、26頁)。
中国の書道の歴史を振り返ってみた場合、魏に鐘繇、東晋に王羲之、王献之の父子、北魏に鄭道昭が出て、中国書道の最高峰を形成した。清朝の阮元の「南北書派論」によれば、後漢の末から三国魏のころまでは、書風上に著しい区別がないが、六朝南北朝に至って書に南北の別ができ、呉・東晋・宋・梁・陳などは南派で妍妙、それが多くの法帖に伝わり、魏・周・斉・隋は北派で拙朴、そしてそれらが多くの石碑に残されているとする(平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]、144頁)。
王羲之について
王羲之(307-365、異説あり)は、東晋の名族、琅邪の王氏の出身で、右軍将軍なる官についたことから、世に王右軍とも称される。王羲之は幼少の頃、汝陰太守李矩の妻である衛鑠(えいしゃく、272-349)を師としたと伝えられる。鐘繇より衛夫人、衛夫人から王羲之にと筆法が伝えられたとする説が残っている。
ところで、王羲之が44歳のとき、右軍将軍、会稽の内史となり任地におもむき、在任4年ののち官を辞し、その後、山水の風光に富む会稽にとどまり、悠々自適の生活を送り、58歳でこの地で生涯を終えた。
書は八分、隷、楷、行、草、章草、飛白の各書体をよくしたと伝えられるが、今日伝存する書跡はすべて楷、行、草の三体に限られる。これらの三体の書体はいかにも貴族的で典雅端正、その人間性から生まれ、縹渺たる仙気を含み、一種の風格がそなわっているとされる。隋唐以来、書聖と仰がれ、その子王献之とともに二王と称され、中国書道の正統となった。
王献之(344-388)は王羲之の第七子で、父を大王と呼ぶのに対して、小王と呼ばれ、父の書より逸気に富み、妍媚な書風を成した(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、154頁~155頁)。
さて、中国の書法史において、王羲之の占める位置は重要である。今日、王羲之の真筆は残念ながら地球上に一作も現存していないといわれる。
ひと口に王羲之の書といっても、今日的な立場から見ると、その表現は3つのパターンに分けられる。
①「楽毅論」、「黄庭経」、「東方朔画讃」に見る小さい楷書
字形が比較的ばったく、起筆が唐代の楷書のように明確でない、いわゆる魏晋小楷に類せられるもの。
②「蘭亭序」に見る行書
③尺牘(せきとく)に見る草書
これら3つが主であるが、もう一つ、いわば合成体ともいうべき王羲之の書のスタイルとして、「集字聖教序」がある(魚住、1996年、167頁~172頁)。
このうち、②の「蘭亭序」について詳述しておこう。
永和九年(353)3月3日、東晋の穆宗皇帝のとき、王羲之をはじめ42人が集まり、禊事(けいじ、厄払い)をした。水の流れに觴(さかずき、盃)を流しながら、詩を作った。その時、王羲之が詩の序文を作った。これが「蘭亭序」である。
蘭亭は、会稽郡山陰県の西南20里(約8キロ)あまりに位置する名勝の地である。この会稽郡山陰県は現在の浙江省紹興市で、魯迅の故郷でもある。会稽の名は、夏王朝の創始者である禹王が、浙江、すなわち銭塘江の東にあたるために浙東とよばれるこの地に、天下の諸侯をあつめてそれぞれの政治の成績を採点したことに由来するという。会稽とは、「会(あつ)め稽(かん)がえる」という意味である。その禹王はそのままその地に果て、いわゆる会稽山に葬られたという。伝説時代のことはともかくとして、春秋時代にはこの地方を中心に越の国が建国され、越王勾践と呉王夫差とのあいだに戦われた凄絶な復讐合戦は、「臥薪嘗胆」の故事とともに有名である。秦の始皇帝は、紀元前210年には、会稽山に禹王を祭るとともに、南海にのぞむ地にみずからの頌徳碑を建設した。中国のヘロドトスとよばれる漢の司馬遷は、青年時代におこなった長途の旅行にあたって、会稽にも足跡をしるした。
永和7年(351)、会稽の長官として赴任してきた王羲之が、そこを終焉の地とひそかに心にきめたのも、会稽の自然につよくひかれたためであった。会稽は、都の建康にもけっしてひけをとらぬ文人の中心でもあった。哲学討論ないし機智のさびをきかせた談論、つまりいわゆる清談や、仏典の講釈やらがさかんにおこなわれた。吉川忠夫は、会稽を日本の軽井沢に比している(吉川、1984年[1988年版]、36頁~39頁)。
ところで、「蘭亭序」は
「永和九年、歳ハ癸丑ニ在リ。暮春ノ初、会稽山陰ノ蘭亭ニ会ス。禊事ヲ脩スル也。群賢畢ク至リ、少長咸集マル。」という書き出しである。この文章は、28行で、324字であった。
その時に用いた紙は蚕繭紙(さんけんし)という紙で、筆は鼠鬚筆(そしゅひつ)であった。紙は楮(こうぞ)をもって漉いた粗製のものであったが、繊維が光り、紙面が蚕の繭のようだったので、蚕繭紙といわれた。また、鼠の鬚(ひげ)で作った剛い筆であったので、鼠鬚筆といわれた。
王羲之の「蘭亭序」といえば、古来行書の学習の規範として、「集字聖教序」ともに双璧とされている。欧法、褚法、虞法それぞれの「蘭亭序」が伝えられているが、褚遂良書と伝えられる「神龍半印本蘭亭序」が最も好まれる(ただ、この点については、後述するように、石川九楊が異を唱えている。)。細部まで筆路筆鋒が明快で、神経が行き届いているからである(吉丸、2012年、3頁、16頁、20頁)。
「蘭亭序」の系統について
藤原鶴来は、伝存する「蘭亭序」を次のように大別している。
①欧陽詢の臨書系統に属する定武本
②褚遂良の臨書系統に属する神龍半印本
③虞世南の臨と伝えられる張金界奴本
④馮承素(ふうしょうそ)の臨と伝えられる馮承素本
⑤その他、太宗から潘貴妃(はんきひ)に贈った「賜潘貴妃本蘭亭序」や、洛陽宮本(らくようきゅうぼん)などがある。
①の定武本は不鮮明ではあるが、高雅で骨力に優れているのが特徴である。②の神龍半印本は、点画が鮮明で爽快、筆勢が盛んで神彩がある。肉筆の感が強いから初学者の学習に恰好であるとされる。帖の首と尾に「神龍」の半印があるので、この名がある。
③の「張金界奴本」は精刻で鮮明で、末尾に「臣張金界奴上進」の七字があるのでこの名がある。神龍半印本にも似ており、筆路が明らかで精彩があるから、初学者にも習いやすい。北京でこの双鉤塡墨(籠字にとって墨をうずめたもの)が発見され印行されている
(藤原、1927年[1981年版]、59頁~61頁)。
④馮承素の臨と伝えられる馮承素本について、佘雪曼が、少し異なった解説を加えている。
馮承素は褚遂良と年輩が近い。彼は弘文館の搨書(とうしょ)人の代表で、また立派な摹印の技術をもっていた。その摹製の方法は、まず用紙を原本の上におき、各々の字の輪郭をとって、濃淡を見比べながら、墨をぬる。一毫といえどもおろそかにせず、原本と極めて真にせまったものとする。こうした摹本の一つは、神龍の小印を押してあり、唐摹と断ずべき一確証であるとされる。
神龍は中宗の年号であって、中宗は太宗の孫、高宗の子である。太宗が弘文館の摹本を皇子たちに分かち賜ったとき、高宗はそのうちの一本をもらっているはずであり、伝えて中宗に与えられ、一顆押された。そこで「神龍本」とよばれたとする。
ところで、唐の高宗のとき、懐仁和尚が王羲之の行書を集めて、「大唐三蔵聖教序」つまり「集字聖教序」をつくった。「蘭亭序」は行書の龍で、字数も最も多いので、採選のもっともよい対象であった。この「集字聖教序」と「蘭亭序」各本と同一の字を比較検討すると、欧陽詢の定武刻本や、宋人重摹の虞世南臨本、褚遂良臨本よりは、馮承素摹本の神龍本の字形に相合し、姿態は真にせまっており、懐仁の採ったところの祖本であると佘雪曼は主張している(佘、1970年[1982年版]、2頁~4頁)。
ところで、正倉院の宝庫には「東大寺献物帳」という目録がある。その中に、王羲之の書法二十巻というものがある。各巻いずれも上に「搨(とう)」と書き添えられている。このことから、王羲之の真筆そのものではなく、写しであったことがわかる。
この写しの方法は、真跡の上にごく薄い紙を載せ、原本の文字を一字一字輪郭どりをし、その輪郭の中に、原本の墨色を忠実に模して、墨を埋めてゆくものである。こうしてできた写しのことを「双鉤塡墨本(そうこうてんぼくぼん)」という。「搨」ということばはそれを意味している。
これらの双鉤本二十巻は、弘仁11年(820)10月3日に宝庫から出たまま、ゆくえを失ってしまったという。ただ、「喪乱帖」(御物)と「孔侍中帖」(九月十七日帖ともいう)」(前田育徳会蔵)という双鉤本は、書法二十巻の一部がかろうじて残ったものと想像されている(堀江、1966年[1981年版]、10頁~12頁)
「神龍半印本蘭亭序」について
北京の故宮博物院の「蘭亭序」の唐摹本の一本、蘭亭八柱第三帖にあたる横巻は、神龍の印があるので、神龍本とも呼ばれている。
松井如流は、この神龍本が一番王羲之の原本にもっとも忠実なものと考えている。その理由として、次の3点を挙げている。
①この神龍本は、鋒先きが鋭く且つ筆勢の勁い点を指摘している。王羲之は「蘭亭序」を書くのに鼠鬚筆を用いたと伝えられるから、その書はおそらく鋭い鋒先きを示していたにちがいなく、その上「喪乱帖」などの古い搨本の鋒先きの鋭い書であることをあわせて思うべきであろうとする。こうした点からしても、八柱第一帖(張金界奴本)、同第二帖よりも、この第三帖が優っていると松井は考えている。また、「定武本」などの鋒先きのあらわれていないもののほうが、いかにも古い趣を持っているかのように昔から言われてきたが、王羲之の真蹟は決してそんなものでなかったといってよいと主張している。
②「蘭亭序」に文字を訂正したところが数箇所あるが、神龍本では墨の濃淡によってはっきりさせている点を挙げている。原本は必ずしもそうではなかったであろうけれども、訂正の箇所をわかりよくするために、特に意を用いたものと推測している。
③「崇山峻領」の崇字について、注目して、検討している。つまり、崇字を書くのに、縦に一直画を書き、それを中心にして八を書く、あたかも小字のように見え、それに横画を添えて、山カンムリとしている。山カンムリを書くのに、「蘭亭序」の崇字のように小字に一横画を添える書き方をしているものに、唐の太宗の書「温泉銘」がある。「巌虹曜巌」の巌字の山カンムリがそれである。このことから、太宗が日頃から熱愛してやまなかった「蘭亭序」の崇字を思い出して、このように書いたのではないかと推察している。この神龍本は、王羲之の原本に忠実に摹取した証左であるという。このような理由から、神龍本をもっとも尊重されるべきであると松井如流は主張している(松井、1977年、106頁~108頁)。
筒井茂徳は、「張金界奴本蘭亭序」「神龍半印本蘭亭序」「定武本蘭亭序」の三本のうち、「神龍半印本蘭亭序」を底本としている。その理由として、「三本のうち、筆路が最も見やすく、筆遣いの細部にいたるまで克明に見え、行書の手本としてふさわしいからである」と述べている(筒井、2009年[2013年版]、7頁)。
石川九楊の「神龍半印本」に対する評価について
北京故宮博物院に「蘭亭序」の墨跡本「八柱第一本(張金界奴本)」、「八柱第二本」、「八柱第三本(神龍半印本)」が所蔵されている。
近年の書道界では「八柱第一本」と「八柱第三本」を高く評価する傾向があるが、「八柱第三本」を評価するのは誤りであると石川は主張している。「馮承素摹本」と題され、「神龍半印本」と通称される墨跡本「八柱第三本」は、書としての体裁すらなさない、まったくひどい代物であると断言している。
墨跡本の「八柱第一本」と「八柱第三本」を、双鉤塡墨とみなしている。つまり、文字を敷き写して、輪郭を先に写し取り、後にそのカゴ取りした中を墨で塗りつぶすことによってつくられたものである。
①「八柱第一本」は、多くの初唐楷書書法つまり三折法も姿を見せるが、一部に初期六朝書法つまり二折法で書かれた痕跡があり、また隷書体の残渣をとどめる箇所もある。この意味において、三者の中で、最も王羲之時代に近い書きぶりを残した双鉤塡墨の書跡であるとみなしている。
②「八柱第二本」は、まったく古法・二折法の姿を見せず、初唐代以降の新法・三折法以降の書で、おそらく臨本であるという。文字構成の点から見て、翁方綱や啓功が唱える米芾作の臨本である可能性は十分あると同意している。
③「八柱第三本」は、二折法・古法についての理解も、また書や文字についても理解の浅い者になるものである。つまり、「八柱第一本」や「八柱第二本」と比較対象にもならない拙劣な双鉤塡墨であると石川はみなしている。
書は「筆蝕」を読むところからしか明らかにならないという石川の持論から判断する限り、上記のような評価を「蘭亭序」の「八柱第一本」「八柱第二本」「八柱第三本」に対して下している。
繰り返すが、現在、一般に書道界は、北京故宮博物院に所蔵されている墨跡本「八柱第三本(神龍半印本)」を高く評価している。しかし、石川九楊はこの説はどう考えても理解できないと主張している。つまり、「八柱第三本」を評価する書家は、その書を「読ん」でいないと批判している。「書を読む」とは、「筆蝕」を読むことであり、筆跡から、字画を描いている時の力の入り方、抜き方、その速度、展開を順に追っていくことを意味する。
「八柱第三本(神龍半印本)」については、伝えられる拓本(刻本)の方が、墨跡本より書の質がましであるというが、墨跡本「八柱第三本」は「奇想天外のヒゲ蘭亭」と名づけて、石川は低く評価している。
筆跡(ふであと)を辿り、筆蝕を読んでいくと、この書が双鉤塡墨本で、原本にワクをとり、墨を塗り込めてつくったとしても、原本の文字の形の意味を十分に解さずにつくり上げたものであることは、明らかであるとする。
なぜ書家が、それを「軽快なリズムで書き進む鋒先の動きが自由で華麗だ」とほめる気が知れないという。ピンピンとひげのように細く長くなった起筆や撥ねなど部分の動きだけをつまみ食い的に目をとめて、その印象を語っているにすぎず、書字の骨格を追わず、その筆蝕を読み込んでいないからだという。
たとえば、「蘭亭序」の「永和九年歳在癸丑暮春之初會」の13文字を検討すると、「暮」字について、次の点を指摘している。
「八柱第三本」の「癸」が細く、「丑」で極端に太くなり、「暮」で中程度に戻っており、その落差が評価できない。つまり統一と脈絡を欠いていて醜いという。また、「暮」字の上の「日」部の囲みの太さと下の「日」部との落差が不自然である。拓本の「神龍半印本」ではこれほどの落差はない。このように、石川は検討している。
「八柱第三本」は、中国の政治家である郭沫若、中国書法家協会の会長の啓功が一定の評価をした。この「八柱第三本」重視説は、その評価を無批判に追随する書道界の一部の性向と書を読み込む眼の未成熟とが生んだ珍奇な現象であると石川はみなしている。中国の言説は絶えず政治的であるので、その判断は慎重にすべきであるとも警告している。
そして、石川は、「八柱第一本(張金界奴本)」は、六朝書法と楷書書法の合成体(サイボーグ)であるとし、また宋代米芾の臨本かともいえる「八柱第二本」を出色としている(石川、1996年ⓐ、105頁、110頁~112頁、115頁~117頁、123頁~124頁)。
「蘭亭序 八柱第三本」について
「蘭亭序 八柱第三本」について、内藤乾吉は次のように解説している。
清内府旧蔵で、三希堂法帖第三冊および蘭亭八柱冊第三に刻されたものの原本であるが、それ以前にも刻本がいろいろある。
「式古堂書画彙考」「大観録」に著録されている。帖首と帖尾に、「神龍」という印の半分ずつがあるので神龍本または神龍半印本と呼ばれている。「式古堂書画彙考」には、縫に貞観、紹興の印があるといい、「大観録」にも貞観神龍の唐璽、紹興の宋璽ありといっているが、写真版で見る限りでは紹興の印はあるが貞観の印は認められないという。
刻本によっては、貞観や開元の印があるのもあるが、元の郭天錫の跋からヒントを得て偽作したものであろうと内藤乾吉はみている。
米芾の「書史」に、「古帖で貞観と開元の印を同用したものは一つもない、それは貞観の時のものが武后時代に宮外へ流出したが、開元の時に買上げに応じたものはみな貞観の印を切り取って出したからだ」といっている。これから考えても、貞観、神龍、開元と印が揃うのはおかしいことになると内藤乾吉は推察している。
ところで、張彦遠の『歴代名画記』の「敍古今公私印記」にも、貞観、開元の印は著録されているが、神龍の印は載せていない。郭天錫は張彦遠が捜訪し尽さなかったのであろうとしているが、これが果して神龍の時のものかどうかは疑問であるという。
また「唐模蘭亭」と題して、その下の縫上に押された模糊とした印を「式古堂書画彙考」には「神龍書府」と読んであるが、この点も疑問であるという。というのは、もしそう読めるならば、神龍の印が半分切れた縫上に「神龍書府」の全印があるのはおかしいから、これは神龍半印よりさらに後の偽印ということになるからである。翁方綱はこれら諸印はみな後人が加えたものだとしていると内藤乾吉は解説している。
さて、「蘭亭序八柱第三」は、三希堂法帖に「馮承素書」と題してあるが、これは郭天錫の跋に馮承素等の搨書人の双鉤塡墨と鑑定しているのによって、馮承素の書ときめてしまったのであろうと内藤乾吉は推測している。
これに反して翁方綱は、刻本神龍本を褚臨原本ではないけれども、褚臨系統であるとしている。
ところで、この本と褚臨黄絹本と内藤は比較して、次の点を指摘している。
①「和暢」の和字の口が、曰のようになっている点、娯字の女の横画に遊絲のある点など、相似たところがあるけれども、書風に黄絹本ほどの古気はない。
②この本には黄絹本には見られない羣字の雙杈や崇字の冗点があるところを見ると、むしろ搨書人の双鉤塡墨の系統と見るべきではないかという。ただ、この本は「八柱第二」と同様に、形の悪い字やなまくらな筆が多く、終わりの方はことに悪い。
唐初の宮廷の搨書人の作った双鉤塡墨本ならば、これほど形が崩れているはずはないから、この本は遥かに時代の降った模本と見るべきであると内藤はみている。そしてその点からいっても、神龍の印が中宗の時のものであるとは受け取りにくいという。
以上が、内藤乾吉の「蘭亭序八柱第三」に対する解説である(全集巻4、1965年、162頁~163頁)。
ところで、石川九楊によれば、初唐代楷書以降の三過折法は、起筆・送筆・終筆を、「トン・スー・トン」と描き出す。「八柱第一本(張金界奴本)」は、第12行の「悟言一室之内」の「一」を描く筆触は、起筆+
送筆+終筆という構造は成立しておらず、古い六朝書法に従って書かれており、軽く触れるだけの起筆から、送筆とも終筆とも分化できないプロセスで描き出されており、「スー・グー」である。
いわば、時間と空間の分化の未成熟な筆触上で「アルカイックな豊潤さ」が感じられ、通俗的に表現するなら、「ぽってり蘭亭」と石川は呼んでいる(石川、1994年、116頁~118頁。石川、1996年ⓐ、118頁~120頁)。
前述したように、「蘭亭序」は永和九年(353)に会稽内史をつとめる王羲之が、三月三日の節句に曲水の宴を催し、そのときに作られた詩を集めて、自からその序文を著したものである。あまりの名品としての名高さに、唐太宗は策をめぐらしてこれを手に入れ、ついには死後も自身の陵墓である昭陵に副葬品として納めさせたといういわく因縁つきのものであるが、この「蘭亭序」は時の名手、欧陽詢、虞世南、褚遂良の各家に臨書による模本を作らせており、さらには完璧な写し取りである響搨本も作らせているので、それらを底本とした伝本は数多く残存する。
いま一つは尺牘(せきとく)で、草書が中心である。
もう一つ、いわば合成体ともいうべき王羲之書のスタイルがある。それが「集字聖教序(しゅうじしょうぎょうのじょ)」である(魚住、1996年、167頁~172頁)。
また、定武本と神龍本の「蘭亭序」について神田喜一郎も言及している。定武本は唐の太宗の勅命によって、欧陽詢がつくった模本を石に刻したが、その石が五代の戦乱に際し、一時行方不明になっていたが、宋初、河北省の正定にある定武というところから発見された拓本であるとする。
一方、神龍本は、欧陽詢と相並ぶ書道の大家褚遂良が、唐の太宗の命によってつくった模本から出たもので、神龍という印が押されているから、この名があると神田喜一郎は解説している。また、神龍は、先述したように、唐の中宗の年号で、太宗の死後になる。そこで、この神龍本は、則天武后の時に、太宗の墓をあばいて、そこに葬られた「蘭亭序」の原本を取出し、それを褚遂良が模したのであるというような説もあることを紹介している(神田、1977年[1978年版]、49頁~54頁)。
欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」について
「蘭亭序」について王羲之が書いた肉筆は今は何も残っていない。私達が見ている神品の誉れが高い「蘭亭序」は、王羲之が書いた肉筆はないが、初唐の三大家の欧陽詢、褚遂良が写し取ったものが残っている。しかし欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」は趣きが異なっている。欧陽詢の方は深い静かな線で、沈着とみえ、褚遂良の方は明るく暢びやかな線で、痛快であるといわれる。二人の「蘭亭序」の書きぶりには、彼らの楷書の名品として知られている「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」の姿がおのずと浮かんでくるという(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、233頁~234頁)。
以上、諸作家の書いた『文章読本』を中心にして、文章、名文、日本語の特質などについて考えてきた。次に、文字である漢字を芸術にまで高めた書の歴史について考えてみたい。
漢字は単なる伝達手段であるだけでなく、書という線の美しさを表現する芸術の素材でもある。中国から伝来した書法は、多くの日本人の心を捉えて魅了した。中でも聖武天皇と光明皇后の書は注目しうる。
こうしたテーマを考える際に格好の本がある。魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』(講談社選書メチエ、1996年)などである。これらの本の内容を紹介しながら、漢字と書の関係、書の歴史について述べてみたい。
中国書道史について
書は文字を素材として、中国に発達した特殊な芸術であるといわれる。書は、線の持つ特殊の美の総合表現であるともいえる。線の特質は、形としての役割を演ずるばかりでなく、線の太細勁軟、筆圧の軽重、運筆の遅速による持ち味、形にみる力の均衡、さては結体章法などが独自の書風をなす源泉である。
中国において書が芸術として発達した主因は、中国の文字すなわち漢字そのものの持つ特性にあった。その書の美が、どのように実現展開したかをみるのが、書道史であろう(平山、1965年[1972年版]、1頁~2頁)。
平山観月は中国書道史のおよその流れを次のように要約している。つまり、上古(秦より以前)に端を発した中国書道は、中古(秦漢から唐)にはいって漢末に大成し、晋魏に興り、唐にいたって整い、近古(宋から明まで)にはいっては、北宋においてくずれ、それ以後、近世(清代以後)を含めて衰退したと平山はみている。
書道の隆昌をみるのは、国家興隆のときであり、またその萎微沈滞をみるのは、国力衰退のときである。まさに書は人をあらわすと同時に、時代の精神、民族の特性を表現するものであるとみる(平山、1965年[1972年版]、21頁~26頁)。
行書の起源と完成について
一般的推論として、古文から篆隷が生まれ、隷書から楷書、楷書の速書きから行書、行書の略化から草書が生まれたであろうということになっていた。しかし20世紀になって漢代の木簡が楼蘭で発見され、この説はくつがえってしまった。
楷、行、草の三体はいずれも漢代に萌芽して漢末には完成していたが、その成立の順序は、草、行、楷と考えられるようになった。
この点を詳述すると次のようになる。漢代の隷書の特長は「曹全碑(そうぜんひ)」のように、横画の終筆を右にはね、のびのびとした流麗な波勢を長くつくっていることにある。隷書をより平易に便利に速く書きたいという要求から略化が進み、草体が生まれていった。木簡の資料が示すように、一字一字独立したいわゆる章草(しょうそう)とよばれる草書が前漢時代にすでにできていた。これは隷書の波勢をまだ残していた。これがさらに波勢を省略して下に続ける工夫が重ねられて、後漢の初めには今日の草書が確立された。
行書の成立は草書よりずっと遅れているが、漢末には完成している。行書も隷書を簡易にしたものといわれている。楷書は行書よりさらに遅れて、漢隷が波勢を失って次第に楷書の姿をあらわしたのは、漢末から三国時代のころであると考えられるようになった。
ともあれ、行書は書をより速く、より書きよく、より能率的なものにしたいという実用上の要求から、点画を続けたり、省略したり、時には筆順を変化させたりして、できあがった書体である。
たとえば、点画が省かれる場合、「雲」や「草」という字では、「雨」の左右の点や「くさかむり」を二つの点にしたり、「然」や「馬」などでは点を三つにしたり、ときには一本の線にしたりする場合がある。
行書・草書の筆順について補足しておくと、たとえば、「禾(のぎへん)」は、楷書では縦画は第三画であるが、行書では第一画からすぐ縦画に続き、その終筆から横画に続くように書く。そのほうが上から字が続いてきたときに縦の流れが出るし、また速く書け、しかも自然なのである。このように行書では筆順が変わる。
草書になると、点画の省略がいっそう激しくなり、形そのものが変わってしまう。たとえば、「人偏(にんべん)」「彳(ぎょうにんべん)」「氵(さんずい)」「言(ごんべん)」はみな同じ形に書かれる。このように、草書では部首の扁(へん)や冠(かんむり)などのほとんどが、何種類のものを同じ形に書く。たとえば、唐の孫過庭の撰書として「書譜」がある。これは草書の経典であるばかりでなく、その内容の書論は、六朝以来の諸家の書論を集大成したものである。その「書譜」の中の「断可極於所詣矣」の部分について、「詣」の字は、「臨」とか「治」とかいろいろ読まれている。この点、松井如流は「孫過庭考」において、ヘンは言ベンで、「詣」が正しいものとみなしている。その理由は、「書譜」の中に散水を棒のように書いたものはなく、また「臨」と見ることは無理があると主張している(松井、1977年、193頁、204頁~205頁)。
ところで、隷書や楷書は一点一画を幾何学的に組み立てているので、厳正な整斉美を感じさせる。だから、行書や草書のような流動の美はあまりあらわれない。行書はすらすらと続けて書くから、筆脈が自然に紙面にあらわれ、点画や形に円味が多くなって、自由さと流麗さが加わり、流動感の強いものになっている。
漢代に萌芽して漢末には定形化したと思われる行書は、六朝時代になって、書聖・王羲之の出現によって、完成をとげるにいたった。王羲之は楷行草の完全な普遍的様式化に心血をそそぎ、端正典雅な書風を樹立した。その貴族的気品の高さは、宮廷を中心に中国の人々に愛され、日本においても書法の典型として今日に及んでいる。
王羲之の行書としては、「蘭亭序」、唐の僧懐仁が王羲之の書を集めてつくった「集字聖教序」、そして「興福寺碑」が名高い。「集字聖教序」は、行書の基本的用筆を理解するための千古極則であるといわれる。
行書の古名蹟を見ると、それなりの特徴をもっている。王羲之の「蘭亭序」は、背勢ですっきりとして清冽(せいれつ)そのものであり、唐の顔真卿の「争座位稿」は、向勢で素朴剛健、情熱がほとばしっているといわれる。また唐の太宗の「温泉銘」や「晋祠銘」になると、博大敦厚、悠々としてせまらざるものがあると評せられる(上條、1970年[1971年版]、12頁~13頁、19頁、26頁)。
中国の書道の歴史を振り返ってみた場合、魏に鐘繇、東晋に王羲之、王献之の父子、北魏に鄭道昭が出て、中国書道の最高峰を形成した。清朝の阮元の「南北書派論」によれば、後漢の末から三国魏のころまでは、書風上に著しい区別がないが、六朝南北朝に至って書に南北の別ができ、呉・東晋・宋・梁・陳などは南派で妍妙、それが多くの法帖に伝わり、魏・周・斉・隋は北派で拙朴、そしてそれらが多くの石碑に残されているとする(平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]、144頁)。
王羲之について
王羲之(307-365、異説あり)は、東晋の名族、琅邪の王氏の出身で、右軍将軍なる官についたことから、世に王右軍とも称される。王羲之は幼少の頃、汝陰太守李矩の妻である衛鑠(えいしゃく、272-349)を師としたと伝えられる。鐘繇より衛夫人、衛夫人から王羲之にと筆法が伝えられたとする説が残っている。
ところで、王羲之が44歳のとき、右軍将軍、会稽の内史となり任地におもむき、在任4年ののち官を辞し、その後、山水の風光に富む会稽にとどまり、悠々自適の生活を送り、58歳でこの地で生涯を終えた。
書は八分、隷、楷、行、草、章草、飛白の各書体をよくしたと伝えられるが、今日伝存する書跡はすべて楷、行、草の三体に限られる。これらの三体の書体はいかにも貴族的で典雅端正、その人間性から生まれ、縹渺たる仙気を含み、一種の風格がそなわっているとされる。隋唐以来、書聖と仰がれ、その子王献之とともに二王と称され、中国書道の正統となった。
王献之(344-388)は王羲之の第七子で、父を大王と呼ぶのに対して、小王と呼ばれ、父の書より逸気に富み、妍媚な書風を成した(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、154頁~155頁)。
さて、中国の書法史において、王羲之の占める位置は重要である。今日、王羲之の真筆は残念ながら地球上に一作も現存していないといわれる。
ひと口に王羲之の書といっても、今日的な立場から見ると、その表現は3つのパターンに分けられる。
①「楽毅論」、「黄庭経」、「東方朔画讃」に見る小さい楷書
字形が比較的ばったく、起筆が唐代の楷書のように明確でない、いわゆる魏晋小楷に類せられるもの。
②「蘭亭序」に見る行書
③尺牘(せきとく)に見る草書
これら3つが主であるが、もう一つ、いわば合成体ともいうべき王羲之の書のスタイルとして、「集字聖教序」がある(魚住、1996年、167頁~172頁)。
このうち、②の「蘭亭序」について詳述しておこう。
永和九年(353)3月3日、東晋の穆宗皇帝のとき、王羲之をはじめ42人が集まり、禊事(けいじ、厄払い)をした。水の流れに觴(さかずき、盃)を流しながら、詩を作った。その時、王羲之が詩の序文を作った。これが「蘭亭序」である。
蘭亭は、会稽郡山陰県の西南20里(約8キロ)あまりに位置する名勝の地である。この会稽郡山陰県は現在の浙江省紹興市で、魯迅の故郷でもある。会稽の名は、夏王朝の創始者である禹王が、浙江、すなわち銭塘江の東にあたるために浙東とよばれるこの地に、天下の諸侯をあつめてそれぞれの政治の成績を採点したことに由来するという。会稽とは、「会(あつ)め稽(かん)がえる」という意味である。その禹王はそのままその地に果て、いわゆる会稽山に葬られたという。伝説時代のことはともかくとして、春秋時代にはこの地方を中心に越の国が建国され、越王勾践と呉王夫差とのあいだに戦われた凄絶な復讐合戦は、「臥薪嘗胆」の故事とともに有名である。秦の始皇帝は、紀元前210年には、会稽山に禹王を祭るとともに、南海にのぞむ地にみずからの頌徳碑を建設した。中国のヘロドトスとよばれる漢の司馬遷は、青年時代におこなった長途の旅行にあたって、会稽にも足跡をしるした。
永和7年(351)、会稽の長官として赴任してきた王羲之が、そこを終焉の地とひそかに心にきめたのも、会稽の自然につよくひかれたためであった。会稽は、都の建康にもけっしてひけをとらぬ文人の中心でもあった。哲学討論ないし機智のさびをきかせた談論、つまりいわゆる清談や、仏典の講釈やらがさかんにおこなわれた。吉川忠夫は、会稽を日本の軽井沢に比している(吉川、1984年[1988年版]、36頁~39頁)。
ところで、「蘭亭序」は
「永和九年、歳ハ癸丑ニ在リ。暮春ノ初、会稽山陰ノ蘭亭ニ会ス。禊事ヲ脩スル也。群賢畢ク至リ、少長咸集マル。」という書き出しである。この文章は、28行で、324字であった。
その時に用いた紙は蚕繭紙(さんけんし)という紙で、筆は鼠鬚筆(そしゅひつ)であった。紙は楮(こうぞ)をもって漉いた粗製のものであったが、繊維が光り、紙面が蚕の繭のようだったので、蚕繭紙といわれた。また、鼠の鬚(ひげ)で作った剛い筆であったので、鼠鬚筆といわれた。
王羲之の「蘭亭序」といえば、古来行書の学習の規範として、「集字聖教序」ともに双璧とされている。欧法、褚法、虞法それぞれの「蘭亭序」が伝えられているが、褚遂良書と伝えられる「神龍半印本蘭亭序」が最も好まれる(ただ、この点については、後述するように、石川九楊が異を唱えている。)。細部まで筆路筆鋒が明快で、神経が行き届いているからである(吉丸、2012年、3頁、16頁、20頁)。
「蘭亭序」の系統について
藤原鶴来は、伝存する「蘭亭序」を次のように大別している。
①欧陽詢の臨書系統に属する定武本
②褚遂良の臨書系統に属する神龍半印本
③虞世南の臨と伝えられる張金界奴本
④馮承素(ふうしょうそ)の臨と伝えられる馮承素本
⑤その他、太宗から潘貴妃(はんきひ)に贈った「賜潘貴妃本蘭亭序」や、洛陽宮本(らくようきゅうぼん)などがある。
①の定武本は不鮮明ではあるが、高雅で骨力に優れているのが特徴である。②の神龍半印本は、点画が鮮明で爽快、筆勢が盛んで神彩がある。肉筆の感が強いから初学者の学習に恰好であるとされる。帖の首と尾に「神龍」の半印があるので、この名がある。
③の「張金界奴本」は精刻で鮮明で、末尾に「臣張金界奴上進」の七字があるのでこの名がある。神龍半印本にも似ており、筆路が明らかで精彩があるから、初学者にも習いやすい。北京でこの双鉤塡墨(籠字にとって墨をうずめたもの)が発見され印行されている
(藤原、1927年[1981年版]、59頁~61頁)。
④馮承素の臨と伝えられる馮承素本について、佘雪曼が、少し異なった解説を加えている。
馮承素は褚遂良と年輩が近い。彼は弘文館の搨書(とうしょ)人の代表で、また立派な摹印の技術をもっていた。その摹製の方法は、まず用紙を原本の上におき、各々の字の輪郭をとって、濃淡を見比べながら、墨をぬる。一毫といえどもおろそかにせず、原本と極めて真にせまったものとする。こうした摹本の一つは、神龍の小印を押してあり、唐摹と断ずべき一確証であるとされる。
神龍は中宗の年号であって、中宗は太宗の孫、高宗の子である。太宗が弘文館の摹本を皇子たちに分かち賜ったとき、高宗はそのうちの一本をもらっているはずであり、伝えて中宗に与えられ、一顆押された。そこで「神龍本」とよばれたとする。
ところで、唐の高宗のとき、懐仁和尚が王羲之の行書を集めて、「大唐三蔵聖教序」つまり「集字聖教序」をつくった。「蘭亭序」は行書の龍で、字数も最も多いので、採選のもっともよい対象であった。この「集字聖教序」と「蘭亭序」各本と同一の字を比較検討すると、欧陽詢の定武刻本や、宋人重摹の虞世南臨本、褚遂良臨本よりは、馮承素摹本の神龍本の字形に相合し、姿態は真にせまっており、懐仁の採ったところの祖本であると佘雪曼は主張している(佘、1970年[1982年版]、2頁~4頁)。
ところで、正倉院の宝庫には「東大寺献物帳」という目録がある。その中に、王羲之の書法二十巻というものがある。各巻いずれも上に「搨(とう)」と書き添えられている。このことから、王羲之の真筆そのものではなく、写しであったことがわかる。
この写しの方法は、真跡の上にごく薄い紙を載せ、原本の文字を一字一字輪郭どりをし、その輪郭の中に、原本の墨色を忠実に模して、墨を埋めてゆくものである。こうしてできた写しのことを「双鉤塡墨本(そうこうてんぼくぼん)」という。「搨」ということばはそれを意味している。
これらの双鉤本二十巻は、弘仁11年(820)10月3日に宝庫から出たまま、ゆくえを失ってしまったという。ただ、「喪乱帖」(御物)と「孔侍中帖」(九月十七日帖ともいう)」(前田育徳会蔵)という双鉤本は、書法二十巻の一部がかろうじて残ったものと想像されている(堀江、1966年[1981年版]、10頁~12頁)
「神龍半印本蘭亭序」について
北京の故宮博物院の「蘭亭序」の唐摹本の一本、蘭亭八柱第三帖にあたる横巻は、神龍の印があるので、神龍本とも呼ばれている。
松井如流は、この神龍本が一番王羲之の原本にもっとも忠実なものと考えている。その理由として、次の3点を挙げている。
①この神龍本は、鋒先きが鋭く且つ筆勢の勁い点を指摘している。王羲之は「蘭亭序」を書くのに鼠鬚筆を用いたと伝えられるから、その書はおそらく鋭い鋒先きを示していたにちがいなく、その上「喪乱帖」などの古い搨本の鋒先きの鋭い書であることをあわせて思うべきであろうとする。こうした点からしても、八柱第一帖(張金界奴本)、同第二帖よりも、この第三帖が優っていると松井は考えている。また、「定武本」などの鋒先きのあらわれていないもののほうが、いかにも古い趣を持っているかのように昔から言われてきたが、王羲之の真蹟は決してそんなものでなかったといってよいと主張している。
②「蘭亭序」に文字を訂正したところが数箇所あるが、神龍本では墨の濃淡によってはっきりさせている点を挙げている。原本は必ずしもそうではなかったであろうけれども、訂正の箇所をわかりよくするために、特に意を用いたものと推測している。
③「崇山峻領」の崇字について、注目して、検討している。つまり、崇字を書くのに、縦に一直画を書き、それを中心にして八を書く、あたかも小字のように見え、それに横画を添えて、山カンムリとしている。山カンムリを書くのに、「蘭亭序」の崇字のように小字に一横画を添える書き方をしているものに、唐の太宗の書「温泉銘」がある。「巌虹曜巌」の巌字の山カンムリがそれである。このことから、太宗が日頃から熱愛してやまなかった「蘭亭序」の崇字を思い出して、このように書いたのではないかと推察している。この神龍本は、王羲之の原本に忠実に摹取した証左であるという。このような理由から、神龍本をもっとも尊重されるべきであると松井如流は主張している(松井、1977年、106頁~108頁)。
筒井茂徳は、「張金界奴本蘭亭序」「神龍半印本蘭亭序」「定武本蘭亭序」の三本のうち、「神龍半印本蘭亭序」を底本としている。その理由として、「三本のうち、筆路が最も見やすく、筆遣いの細部にいたるまで克明に見え、行書の手本としてふさわしいからである」と述べている(筒井、2009年[2013年版]、7頁)。
石川九楊の「神龍半印本」に対する評価について
北京故宮博物院に「蘭亭序」の墨跡本「八柱第一本(張金界奴本)」、「八柱第二本」、「八柱第三本(神龍半印本)」が所蔵されている。
近年の書道界では「八柱第一本」と「八柱第三本」を高く評価する傾向があるが、「八柱第三本」を評価するのは誤りであると石川は主張している。「馮承素摹本」と題され、「神龍半印本」と通称される墨跡本「八柱第三本」は、書としての体裁すらなさない、まったくひどい代物であると断言している。
墨跡本の「八柱第一本」と「八柱第三本」を、双鉤塡墨とみなしている。つまり、文字を敷き写して、輪郭を先に写し取り、後にそのカゴ取りした中を墨で塗りつぶすことによってつくられたものである。
①「八柱第一本」は、多くの初唐楷書書法つまり三折法も姿を見せるが、一部に初期六朝書法つまり二折法で書かれた痕跡があり、また隷書体の残渣をとどめる箇所もある。この意味において、三者の中で、最も王羲之時代に近い書きぶりを残した双鉤塡墨の書跡であるとみなしている。
②「八柱第二本」は、まったく古法・二折法の姿を見せず、初唐代以降の新法・三折法以降の書で、おそらく臨本であるという。文字構成の点から見て、翁方綱や啓功が唱える米芾作の臨本である可能性は十分あると同意している。
③「八柱第三本」は、二折法・古法についての理解も、また書や文字についても理解の浅い者になるものである。つまり、「八柱第一本」や「八柱第二本」と比較対象にもならない拙劣な双鉤塡墨であると石川はみなしている。
書は「筆蝕」を読むところからしか明らかにならないという石川の持論から判断する限り、上記のような評価を「蘭亭序」の「八柱第一本」「八柱第二本」「八柱第三本」に対して下している。
繰り返すが、現在、一般に書道界は、北京故宮博物院に所蔵されている墨跡本「八柱第三本(神龍半印本)」を高く評価している。しかし、石川九楊はこの説はどう考えても理解できないと主張している。つまり、「八柱第三本」を評価する書家は、その書を「読ん」でいないと批判している。「書を読む」とは、「筆蝕」を読むことであり、筆跡から、字画を描いている時の力の入り方、抜き方、その速度、展開を順に追っていくことを意味する。
「八柱第三本(神龍半印本)」については、伝えられる拓本(刻本)の方が、墨跡本より書の質がましであるというが、墨跡本「八柱第三本」は「奇想天外のヒゲ蘭亭」と名づけて、石川は低く評価している。
筆跡(ふであと)を辿り、筆蝕を読んでいくと、この書が双鉤塡墨本で、原本にワクをとり、墨を塗り込めてつくったとしても、原本の文字の形の意味を十分に解さずにつくり上げたものであることは、明らかであるとする。
なぜ書家が、それを「軽快なリズムで書き進む鋒先の動きが自由で華麗だ」とほめる気が知れないという。ピンピンとひげのように細く長くなった起筆や撥ねなど部分の動きだけをつまみ食い的に目をとめて、その印象を語っているにすぎず、書字の骨格を追わず、その筆蝕を読み込んでいないからだという。
たとえば、「蘭亭序」の「永和九年歳在癸丑暮春之初會」の13文字を検討すると、「暮」字について、次の点を指摘している。
「八柱第三本」の「癸」が細く、「丑」で極端に太くなり、「暮」で中程度に戻っており、その落差が評価できない。つまり統一と脈絡を欠いていて醜いという。また、「暮」字の上の「日」部の囲みの太さと下の「日」部との落差が不自然である。拓本の「神龍半印本」ではこれほどの落差はない。このように、石川は検討している。
「八柱第三本」は、中国の政治家である郭沫若、中国書法家協会の会長の啓功が一定の評価をした。この「八柱第三本」重視説は、その評価を無批判に追随する書道界の一部の性向と書を読み込む眼の未成熟とが生んだ珍奇な現象であると石川はみなしている。中国の言説は絶えず政治的であるので、その判断は慎重にすべきであるとも警告している。
そして、石川は、「八柱第一本(張金界奴本)」は、六朝書法と楷書書法の合成体(サイボーグ)であるとし、また宋代米芾の臨本かともいえる「八柱第二本」を出色としている(石川、1996年ⓐ、105頁、110頁~112頁、115頁~117頁、123頁~124頁)。
「蘭亭序 八柱第三本」について
「蘭亭序 八柱第三本」について、内藤乾吉は次のように解説している。
清内府旧蔵で、三希堂法帖第三冊および蘭亭八柱冊第三に刻されたものの原本であるが、それ以前にも刻本がいろいろある。
「式古堂書画彙考」「大観録」に著録されている。帖首と帖尾に、「神龍」という印の半分ずつがあるので神龍本または神龍半印本と呼ばれている。「式古堂書画彙考」には、縫に貞観、紹興の印があるといい、「大観録」にも貞観神龍の唐璽、紹興の宋璽ありといっているが、写真版で見る限りでは紹興の印はあるが貞観の印は認められないという。
刻本によっては、貞観や開元の印があるのもあるが、元の郭天錫の跋からヒントを得て偽作したものであろうと内藤乾吉はみている。
米芾の「書史」に、「古帖で貞観と開元の印を同用したものは一つもない、それは貞観の時のものが武后時代に宮外へ流出したが、開元の時に買上げに応じたものはみな貞観の印を切り取って出したからだ」といっている。これから考えても、貞観、神龍、開元と印が揃うのはおかしいことになると内藤乾吉は推察している。
ところで、張彦遠の『歴代名画記』の「敍古今公私印記」にも、貞観、開元の印は著録されているが、神龍の印は載せていない。郭天錫は張彦遠が捜訪し尽さなかったのであろうとしているが、これが果して神龍の時のものかどうかは疑問であるという。
また「唐模蘭亭」と題して、その下の縫上に押された模糊とした印を「式古堂書画彙考」には「神龍書府」と読んであるが、この点も疑問であるという。というのは、もしそう読めるならば、神龍の印が半分切れた縫上に「神龍書府」の全印があるのはおかしいから、これは神龍半印よりさらに後の偽印ということになるからである。翁方綱はこれら諸印はみな後人が加えたものだとしていると内藤乾吉は解説している。
さて、「蘭亭序八柱第三」は、三希堂法帖に「馮承素書」と題してあるが、これは郭天錫の跋に馮承素等の搨書人の双鉤塡墨と鑑定しているのによって、馮承素の書ときめてしまったのであろうと内藤乾吉は推測している。
これに反して翁方綱は、刻本神龍本を褚臨原本ではないけれども、褚臨系統であるとしている。
ところで、この本と褚臨黄絹本と内藤は比較して、次の点を指摘している。
①「和暢」の和字の口が、曰のようになっている点、娯字の女の横画に遊絲のある点など、相似たところがあるけれども、書風に黄絹本ほどの古気はない。
②この本には黄絹本には見られない羣字の雙杈や崇字の冗点があるところを見ると、むしろ搨書人の双鉤塡墨の系統と見るべきではないかという。ただ、この本は「八柱第二」と同様に、形の悪い字やなまくらな筆が多く、終わりの方はことに悪い。
唐初の宮廷の搨書人の作った双鉤塡墨本ならば、これほど形が崩れているはずはないから、この本は遥かに時代の降った模本と見るべきであると内藤はみている。そしてその点からいっても、神龍の印が中宗の時のものであるとは受け取りにくいという。
以上が、内藤乾吉の「蘭亭序八柱第三」に対する解説である(全集巻4、1965年、162頁~163頁)。
ところで、石川九楊によれば、初唐代楷書以降の三過折法は、起筆・送筆・終筆を、「トン・スー・トン」と描き出す。「八柱第一本(張金界奴本)」は、第12行の「悟言一室之内」の「一」を描く筆触は、起筆+
送筆+終筆という構造は成立しておらず、古い六朝書法に従って書かれており、軽く触れるだけの起筆から、送筆とも終筆とも分化できないプロセスで描き出されており、「スー・グー」である。
いわば、時間と空間の分化の未成熟な筆触上で「アルカイックな豊潤さ」が感じられ、通俗的に表現するなら、「ぽってり蘭亭」と石川は呼んでいる(石川、1994年、116頁~118頁。石川、1996年ⓐ、118頁~120頁)。
前述したように、「蘭亭序」は永和九年(353)に会稽内史をつとめる王羲之が、三月三日の節句に曲水の宴を催し、そのときに作られた詩を集めて、自からその序文を著したものである。あまりの名品としての名高さに、唐太宗は策をめぐらしてこれを手に入れ、ついには死後も自身の陵墓である昭陵に副葬品として納めさせたといういわく因縁つきのものであるが、この「蘭亭序」は時の名手、欧陽詢、虞世南、褚遂良の各家に臨書による模本を作らせており、さらには完璧な写し取りである響搨本も作らせているので、それらを底本とした伝本は数多く残存する。
いま一つは尺牘(せきとく)で、草書が中心である。
もう一つ、いわば合成体ともいうべき王羲之書のスタイルがある。それが「集字聖教序(しゅうじしょうぎょうのじょ)」である(魚住、1996年、167頁~172頁)。
また、定武本と神龍本の「蘭亭序」について神田喜一郎も言及している。定武本は唐の太宗の勅命によって、欧陽詢がつくった模本を石に刻したが、その石が五代の戦乱に際し、一時行方不明になっていたが、宋初、河北省の正定にある定武というところから発見された拓本であるとする。
一方、神龍本は、欧陽詢と相並ぶ書道の大家褚遂良が、唐の太宗の命によってつくった模本から出たもので、神龍という印が押されているから、この名があると神田喜一郎は解説している。また、神龍は、先述したように、唐の中宗の年号で、太宗の死後になる。そこで、この神龍本は、則天武后の時に、太宗の墓をあばいて、そこに葬られた「蘭亭序」の原本を取出し、それを褚遂良が模したのであるというような説もあることを紹介している(神田、1977年[1978年版]、49頁~54頁)。
欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」について
「蘭亭序」について王羲之が書いた肉筆は今は何も残っていない。私達が見ている神品の誉れが高い「蘭亭序」は、王羲之が書いた肉筆はないが、初唐の三大家の欧陽詢、褚遂良が写し取ったものが残っている。しかし欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」は趣きが異なっている。欧陽詢の方は深い静かな線で、沈着とみえ、褚遂良の方は明るく暢びやかな線で、痛快であるといわれる。二人の「蘭亭序」の書きぶりには、彼らの楷書の名品として知られている「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」の姿がおのずと浮かんでくるという(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、233頁~234頁)。
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