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八尾隆生先生の著作を読んで 書評篇その8

2009-11-29 19:50:36 | 日記
「八尾隆生先生の著作を読んで 書評篇その8」

⑶ヴェトナム黎朝の家族形態について
要約にも記したように、八尾氏は結語「ヴェトナムの15世紀とは」において、東アジア小農社会の指標の1つとして、家族形態・経営の変化を挙げている(419頁)。ただ今後の課題として提示しただけにとどまり、その家族形態の変化の内容にまでは言及していない。この点について、評者の若干の見通しを記して参考に付したい。
ところで、江守五夫氏は、エンゲルスの家族起源論を解説して、次のように述べている。
「そしてエンゲルスが家父長制家族の婚姻の在り方について強調したことは、父子相続への要求から妻の姦通に厳罰を科する規範が誕生したということであった。『妻の貞節、したがって子供の父性を確保するために、妻は無条件に夫の権力にゆだねられ、たとえ彼が彼女を殺害しようとも、それは単に彼が自分の権利を行使しただけのことである』。そしてこの父子相続への要求、その前提としての父子関係確認の要求は、『婚姻紐帯のより一層の緊密性』を確立すべく、文明時代に一夫一婦制を出現させたというのである。『一夫一婦制は、父子関係について争う余地のない子供を生むという明確な目的をもって、夫の支配の上に基礎づけられたのであり、そしてこの父子関係が要求されたのは、これらの子供が将来、肉親の相続人として父の財産を継承すべきものだからである』と。」(江守、1985年、156頁。但し、江守氏はエンゲルスを批判したウェーバーの学説を支持している。159頁参照)。
このようにエンゲルスが家父長制家族の婚姻の在り方(=単婚)について強調したことは、父子相続への要求から妻の姦通に厳罰を科する規範が誕生したということであった(エンゲルス、1985年版、77頁、81頁)。
エンゲルスの単婚家族の理論的分析は、ヴェトナム黎朝前期の具体的な歴史事象に適応できるのではないかと思う。『国朝刑律』の篇目は基本的に『唐律』の篇目に基づきながらも、姦通章という篇目をわざわざ独自に立てている事実や、『洪徳善政書』には、天道、地道、人道といった壮大な朱子学的な宇宙論的観点から、姦通禁止規定を盛り込んでいることに端的に現れている。『国朝刑律』の姦通章について、片倉氏は次のように述べている。
「姦通章は、唐律にはかくのごとき独立した篇目はないが、元律に姦非、『明律』に犯姦が存することを考慮すると、元明律、ことに明律の影響と見做して大過なかろう。ただし、章名は犯姦ではなくて姦通であり、ここにも、中国律を機械的に継受しなかった立法精神の一端を窺知することができる。」(片倉、1987年、152頁)
また『洪徳善政書』の姦通禁止については、中国法典に見られない法定形式と内容のものが存在する。すなわち『洪徳善政書』洪徳五年(1474)と推測できる規定として、
一、通奸人妻
天道有死有生、徒知壽夭、人倫有男有女、配匹婚姻、此夫婦之常經、亦流傳於後世、阮ム不顧條章、罔遵國法、強奸人妻妾之罪、定坐流論、法刺面入字之條、議杖一百、妻妾以徒論、若田産還夫、依律施行、國朝不恕

一、強寡婦
天道有日有月、方拡?照臨、人道有陰有陽、定知男女、寔婚姻之盛典、乃夫婦之常經、阮ム不顧憲章、弗遵明令、被強奸寡婦之條、議杖一百、論徒象坊兵之罪、充本府軍、女笞五十如之、送太僕官治罪、刺面八字、國朝不恕
とある。
前者には「天道に死有り生有り、徒に壽夭を知る。人倫に男有り女有り、婚姻を配匹するは、此れ夫婦の常經にして、亦た後世に流傳す。」とあり、後者には「天道に日有り月有り、方に照臨に拡(?)ぐ。人道に陰有り陽有り、男女を定知するは、寔れ婚姻の盛典にして、乃ち夫婦の常經なり。」とある。天道、人道、人倫といった宇宙論的、倫理的見地から、人妻を通姦したり、寡婦を強姦したりすることが犯罪であることを明示している。丸山氏や源氏は、江戸時代の儒学史に天道と人道との連続性の分解を看取したが(丸山、1995年版、81頁。源、2000年版、71頁、170頁―171頁)、ここでは両者は連続している。つまり、天と人の両者は関わりあい、人間社会のいとなみと宇宙自然のはたらきとの関係を説く天人相関思想をここに感じとることができるのではなかろうか(溝口、1992年版、60頁、71頁参照)。
また姦通に対する罰則規定は、早くも11世紀(『全書』の1042年の詔)の李朝期に存在したものの(片倉、1987年、99頁)、『国朝刑律』の姦通章の篇目やこの『洪徳善政書』の規定からみて、本格的には聖宗期の洪徳年間に制定されたとみてよかろう。
エンゲルスが、家父長制家族ないし父系制の成立の契機を財産の父子相続に求めている点は、正鵠を射たものと江守氏も評価している(江守、1996年版、272頁)。聖宗期の科挙官僚の場合、父子相続を契機として、社会の経済的単位としての個別家族が誕生し、父系出自集団が成立したと推察することも可能かもしれない。

ところで、ヴェトナム黎朝の家族形態を追究する際に、中国史のそれに関する議論も参考になろう。例えば、中国の家族史研究には、従来、大家族から小家族へと漸次縮小してきたという迷信や、中国は強力な家父長制の国であるという誤解が存在したが、小家族と家父長制を歴史的に捉えるようになってきた。小家族も社会の発展の一段階の産物と理解し、その自立段階を紀元前の春秋・戦国時代に求める見解が主流である(堀、1996年、2頁)。漢代の家族形態をめぐる論争としては、漢代の家族は平均5人前後で、圧倒的に小家族が多かったとする牧野巽・守屋美都雄氏の説にたいして、漢代家族の背景に三族制家族(父母・妻子・兄弟から成り、父母の生前に子らが分家せず、兄弟同居する所から生ずる家族をさす)という理想型があるとみたり、また漢代の上流階級には大家族があるとみる宇都宮清吉・清水盛光氏の説がある。一方、堀敏一氏は、三族制家族が実際に多数を占めていたということは考えられず、5人前後の家族が平均を占めるには、父母の生前における家の分裂が広く行われていたはずであり、その結果として子供たちが独立して、単家族が多数を占めたと推測している。ただ、注意すべきは、漢代に儒学を尊重する風潮にともなって、三族制家族の延長線上に累世同居の大家族を賞賛する時代思潮が出てきて、前漢末から後漢時代にかけて、実際に三族制家族が多少は増加したであろうとする。この家族形態は、大規模な自給自足的な荘園経営を行う豪族にふさわしい形態であった。この荘園経営は、魏晋北朝を通じて華北で流行し、三族制を理想とする家族思想も引き継がれた。この三族制家族を重視する思想は、唐代にいたって、法制化された。それが『唐律』戸婚律第6条の別籍・異財の禁止、すなわち祖父母・父母の在世中は、子孫が戸籍を別にしたり、家財を分割することを禁じた規定であるという。つまり中国では、家長による家の統制は弱いが、そのかわり家中における父母の権威の確立という要請により、三族制維持の思想が法制として具現化されたとみる。ここに中国における家父長制家族の最も典型的な形態を看取しうる。
ただ、堀氏も断っているように、『唐律』では祖父母・父母の命令による異財は許されるという1つの抜け道も規定してあり、この点は三族制家族の維持という原則と、父子別居が進んでいる現実との妥協がみられ、典型的な家父長制家族は社会の一部しか占めることができなかったとする。また宋代になると、家族間の絆が弛緩してゆき、『明律』の子孫の別籍・異財の禁止の条の量刑は軽減される。この経緯は今後の課題としている(堀、1996年版、180頁―183頁。堀、1996年、2頁―153頁)。
 
さて、ヴェトナムの15世紀の黎律は、基本的に『唐律』の影響を受けたにもかかわらず、父母存命中の別籍・異財の条項を削除している。この点、片倉氏は「中国においても、同居同財は義門として嘉奨されるほどで、実際には完全に守られなかったようだが、『国朝刑律』では、父母存命中の別籍異財を不孝罪から除外したこと(名例章、二条)からも推考できるように、現実に別居異財はかなり行われていたようである。」と述べる(片倉、1987年、406頁)。つまり黎律の編纂者は、ヴェトナムの実情を踏まえて、名例章第2条において、父母存命中の別籍異財を不孝罪とみなさなかった。

また家族形態の問題については、家父長制の議論が焦点となる。
ヴェトナムの家族史像については、歴史的経緯から、儒教的観念における家父長制度は、貴族、官僚、儒学者など上級の社会層に色濃く残り、これらの家庭では、家父長権は家庭のすべてを支配する役割を担っている一方で、一般家庭では、家父長制度による父子関係ではなく、夫婦関係で、その中で妻や母親は重要な役割を果たすといった伝統的特質を維持したと、ファン・フイ・レー氏は述べている(ファン・フイ・レー「家族と家譜」坪井善明編『アジア読本 ヴェトナム』河出書房新社、1995年所収、177頁―178頁)。
問題は、このような家族の歴史的な分化が、いつ、いかなる契機で行われたのか、またその家父長制の中身が何であるのかということを、具体的に解明することである。八尾氏も注意を促しているように、上からの「儒教化」に対して、民の方がいつ頃、どう対応したかという点に関しても、15世紀に早くからの儒教化を論じるノーラ・クーク、ウィットモア、佐世俊久の諸氏と、17~18世紀頃にその浸透を強調するユ・インスン、嶋尾稔両氏の見解が並存しているのが、現在の研究状況である(176頁註47)。ヴェトナムの15世紀に小農社会が成立したと主張する八尾氏の本著は、こうしたヴェトナム家族史像を再考する上で、意義深い業績であることは間違いない。なお、ヴェトナム黎朝の家族形態の変容については、佐世俊久氏も「前近代の東アジアにおける女性の地位(下)」においても、若干の論点を提示している。

ヴェトナムの家父長制の中身の議論として、今後検討すべき基礎的問題として、法制史料に現れた「家長」の用語をいかに理解するかという点がある。片倉氏も指摘するように、唐明律などでは、一般に同居の尊長、家の尊長をつづめて家長と称したが、『国朝刑律』の中では、家長という語の使用例は、第378条(始増田産章)の割注に1例みえるにすぎず、家主という語が正文上に用いられた。そして『明律』は『唐律疏議』の主の代わりに、家長の字を用いたが、『国朝刑律』は、家長という『明律』的用法を正文上には採用しなかった。その一方で、黎代の法制史料『洪徳善政書』には家長の用語がかなり出てくる(片倉、1987年、410頁―411頁、475頁)。李陳朝期にも、『唐律』に基づいた法典が編纂されたと片倉氏は推考しているので(同上、63頁、85頁)、基本的に『唐律』に基づいた『国朝刑律』と、『明律』的用語を受容した『洪徳善政書』との相違を考慮すると、黎朝前期に、李陳朝とは異なる家族形態に変容しつつあり、それが法文上に反映された結果、用語上にも相違が見られるようになったと想定しうるのではないか。

また家父長制の理論面にかかわる議論としては、日本の江戸時代の近世農民の家父長制に関する議論などが参考となろう。ウェーバーの家父長制論を参考に、「ヘルのペルゾーン(人)に対するピエテート」と「伝統に対するピエテート」といった2つの要素・軸を措定し、家父長制の類型論から、近世農民の家の支配を位置づける試みも有効かもしれない(藤井、1996年版、78頁―87頁)
ウェーバーの家父長制論では、家父長制が家長権という特定の法的権限の形態をとるとかならずしも明言していないと理解されている。つまりウェーバーの理論は、支配の法的形態の問題とはセットにはなっておらず、それを家長権の支配というものに結びつけたのは日本の社会科学者であったようである。だから家父長制支配には、家長権自体による支配の形態もあれば、親権・夫権・主人権による支配もあり、いずれの形態をとるかは、社会や時代の条件の違いによるものとすると考えられている(藤井、1996年版、78頁)。
以上のように、ヴェトナム黎朝の家族形態を議論するには、理論と実証の両面において、幅広い学問的視野からより深く探求することが肝要である。

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