歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

《冨田健次先生の著作を読んで》その19

2014-12-31 16:07:19 | 日記
唐代の書の特徴について
青山杉雨「行書の歴史」(西川、1971年[1980年版]所収)は、唐代における書の特徴として、
①書の造型上の均整が、完成された状態の漢隷の極致にも比肩し得るほど高められたこと、
②運筆上の合理性、すなわち三折の法を完成したこと、
この2点を青山杉雨は指摘している。
とりわけ、三折の法により、起、運、終の筆法が明確に規定されたことは、王羲之を中心とする晋の書と相異なる重要なポイントである。この点は、石川九楊も強調し、壮大な構想のもとに、中国書史を叙述している。
一般に一口に晋唐というのが、書法上より見るとき、この二つの時代の書の内容はへだたりがあると青山はいう。この二者を区分するためにこの三折の問題は重要な手掛りとなる。初唐は楷書の頂点を形成する時代ではあったが、この時点では行書は王羲之によって既に解決されていたのではないかと青山は考えている。楷書に卓抜な手腕をみせた欧陽詢・虞世南・褚遂良の三家でも、行書では、楷書ほどのものを示していない。欧陽詢の「史事帖(しじじょう)」、褚遂良の「哀冊文(あいさくぶん)」、「枯樹賦(こじゅのふ)」、太宗の「温泉銘(おんせんのめい)」、「晋祠銘(しんしのめい)」などでも、行書の頂点としては難がある。むしろ王羲之によって完成された行書の技術に、楷書の三折的要素を加味したにすぎないと青山は捉えている。その点、李邕には、王羲之の法を唐人的に押し進めて、一つの記録を出しているとみてよいとする(青山、1971年[1980年版]、116頁)。

唐代から宋代へ
唐の太宗期には、王羲之の書が普及したが、唐の中ごろからは、かえって俗書とみなされるほどになった。やがて、宋代になって江南に伝えられた伝統文化が主流をなすようになると、もはや士大夫の間では顧みられなくなってしまう(しかし、元代にいたり、趙子昴がでて王羲之の書の復興をとなえるにおよんで、再び「集字聖教序」(唐の僧懐仁がでて、王羲之の書を集めてつくったもの、碑は西安の孔子廟に現存している)の碑が光彩を発揮することになる)。(上條、1970年[1971年版]、14頁~15頁)。

唐代から宋代への書の特徴は、唐の法則的、形式的な書から、宋の飛動的、個性的な書へといった具合に移っていったものと、捉えられている。換言すれば、唐人が書法や型に束縛されて、生気を失ったのを知って、宋人は唐人の形成した殻を破って、自由に自己を表現しようと考えた。そのために、奔放粗野になり、気品において劣るものの、その意気と努力は壮とすべきであるとされる。そのような革新の巨頭が、蘇東坡(1036-1101)、黄庭堅(こうていけん、1045-1105)、蔡襄(1012-1067)、米芾(1051-1107)のいわゆる宋の四大家である。
北宋の末から禅僧の間に蘇東坡、黄庭堅の書風が流行し、自由奔放な書が多く現れ、日本の鎌倉時代の禅林の間に流行し、やがて茶道と結ばれて、広く愛翫された(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、67頁~69頁)。

中国の書の歴史の見方について
中国の書の歴史を振り返った際に、「書はすべからく晋唐を宗とすべきだ」とよく言われる。一般に中国の書に対する関心は、晋唐時代が中心であり、宋元代以降は従来あまり顧みられなかった。
ところで絵画の世界と比べてみると、西洋画の関心は歴史的にはルネサンス以降の時代である。中世の宗教的な画に発想の手がかりを求める人はほとんどいないであろう。ところが、書道の場合には、中世とでもいうべき晋唐時代(学説によっては古代という捉え方もある)が、強い影響力をもっていた。書をやっている人は、一般に晋代の王羲之や王献之、あるいは唐初の欧陽詢、虞世南、褚遂良、そして顔真卿といった中世の書家に関心を抱いてきた。晋唐の書を神経質なまでに分析して、とことん習得しようと努めてきた。つまり中国の書の歴史的視野というものは、晋唐に始まり晋唐で終ると見られてきた。そして近世にあたる宋元代以降の書には従来、あまり関心がなかったのが実情であった。
歴史的な書を研究する場合に大切なのは、その時代の資料(史料)であるが、晋唐時代の書の作品は不明瞭な拓本がほとんどである。それに対して、宋元代以降のものは直接肉筆で見ることのできるものである。書法に対する鮮明という点では、拓本の場合のように彫られた上摩滅した解釈のしにくいものよりは、肉筆の方が明白で、筆の動き方などが一目瞭然でよくわかるという利点がある。
今日では晋唐時代の書を異常に高くする偏向した考え方もだいぶ修正され、近世以降の書も、中世の書と同様に重要であると考えられるようになったという。
北宋で書の名家として、蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾という四大家がいる。それぞれに異なった持味の書をつくっているが、蔡襄は廉清、蘇軾は重厚、黄庭堅は俊敏、米芾は繊美と表現される。名人の書がその人格にもつながる質のものであるとみなされている。そこには卒意な運筆が随所にみられ、いわゆる唯美的な表現を極力避けようとしていることが看取できるといわれる。唐代の書家とは違い、技術を至上のものとせず、また他人の模倣を厳しく忌みきらう宋人の誇り高き生活態度を感じとることができるという。
ただ、これらの宋代の四大家は晋唐時代の書の伝統と断絶したところから出たのではなく、宋代は唐代以上に王羲之が尊重された時代であるらしく、四人は四人とも揃って王羲之をよく習ったのみならず、顔真卿をも併せて習っていた。つまり、王法・顔法を一度自分のものとして吸引して、自分の書として再表現される時には、主体的な自己主張の方が表に出て、王法・顔法は技術として形の裏にかくされてしまったのだと青山杉雨は理解している(青山、1982年、49頁~51頁、65頁~70頁)。
そして宋元代の個性的な書として、禅林墨蹟がある。これは宋元代の禅宗の僧侶(とりわけ禅宗でも臨済宗)が書きのこした書のことである。この墨蹟は、本家の中国では一点も残されていないにもかかわらず、日本には残っているという奇現象がみられる。それのみならず、日本の文化史の中では、墨蹟は異常ともいえるほど、重視されている書である。ここに日本人と中国人の美意識のちがいの一例が見られると青山は捉えている。日本の墨蹟は禅と茶道との関わりが深い。日本に禅宗の渡来とともに飲茶の風習も渡って来たことは周知のことである。最初、それは鎌倉武家の間でたしなまれ、やがて茶道としての体裁をととのえ、室町時代では、上流社会に重要な教養としての地歩を占めた。そして茶席の床の間に、最上の掛物としてこの墨蹟類が扱われるにいたり、その貴重感が一段と高まった。このように日本の文化史で、墨蹟は禅と茶道と密接な関連があったのである。ただ、墨蹟は本来茶道の床の間に掛けることを目的として書かれたものではないし、これを中国から招来した日本の渡航僧もそういう目的で持って帰ったものではない。それらの多くは、自分が修道のため師事した高僧との出会いを大切にする記念として、書いてもらったものであるようだ。
それはあくまで宗教的シンボルとして、篋底深くしまわれて置くべきものだったはずのものであったが、茶席の床の間に掲げられる“ところ”を得て、当初とは別な使命が負わされたということになる。日本人はこの墨蹟に新しい価値を発見した。自己顕示欲のほとんど見られない個性的な書である墨蹟を、掛物として日本人は鑑賞した。そこに日本人の審美眼・美意識があると青山は捉えている。
元代の書の名手として趙子(ちょうすごう)が名高いが、この人が尊敬して交わっていた中峰明本(ちゅうほうみんぽん)という高僧も、その書は日本にこそあれ中国には全くないという。しかも趙子がこの中峰明本に送った手紙は、今日では日本にも残っているそうだ。不思議である。
その中峰明本の「勧縁疏」(五島美術館蔵)という書は、まるで柳の葉をバラ撒いたような線で書かれた特殊なものである。それは古い書の名品に擬そうとするのではなく、誰に似ているなどとはとてもいいようのない変わった書風である。この現象は、日本人と中国人の美意識のちがいがわかる一例である。その理由として、青山は、中国人の書における合理主義により、書法的にそれほどでもない墨蹟類は、中国の歴史の中で残存しなかったのではないかと推測している(青山、1982年、55頁~61頁)。

唐の四大家の楷書について
中国において楷書がもっとも隆盛するのは北魏と唐である。
唐の四大家は、欧陽詢、虞世南、褚遂良、顔真卿とされる。欧陽詢は清澄な、虞世南は穏健な、また褚遂良は艶麗な、顔真卿は重厚な味わいを有しているといわれる。
こうした個性を越えて、この唐の四大家には、唐代の共通した特徴があると魚住は指摘している。
たとえば、「有」という字を例にとると、
①左払いが短く、しかも払い出すに従って、線が細くなっていること。
②横画が短くなり、それもむしろ右方に長く伸びている。
③「月」部の二つの横画が短く、右側に少し余白がとられていること。
北魏の場合に比べて、唐代の楷書は、字形の重心がかなり左側に位置しているという(魚住、1996年、68頁~70頁)。

宋の四大家について
書家の伏見冲敬(ちゅうけい)は、『書の歴史―中国篇』(二玄社、1960年[2003年版]、146頁)において、宋の四大家について、面白いことを記している。すなわち、「蘇黄米蔡」という宋の四大家の蔡は、どうも本来京であったのではないかというのである。
北宋末の政治家である蔡京(1047-1126)が徽宗をそそのかして勝手なことをしているうちに、とうとう国を亡してしまった所業を憎んで、蔡襄と入れ替わらされたのではないかと伏見は推測している。蔡京も唐人の書から王羲之に遡って、書を学んだようだ。姦臣として嫌われた蔡京の書跡は伝わるものが少ないが、その代表作としての「趙懿簡公碑(ちょういかんこうのひ)」(1092年)には、こまやかな筆意が汲みとられ、「十八学士図跋(
双鉤郭塡本)」(1110年)には、かなり力強い筆が見られると伏見は解説している。
なお、蔡京を入れていたときは、年齢順に蘇黄米蔡といっていたが、蔡襄と入れ替えると、年齢順にすると蔡が一番年上である。それでも口なれたせいか、近年でも昔のままの呼び方で使う人があると西川は付言している(伏見、1960年[2003年版]、146頁。西川、1964年[1984年版]、16頁)。

宋代の四大家について
蘇軾の書について
宋の太祖趙匡胤(927-976、在位960-976)が、後周の恭帝から皇帝の位をうけついでから100年近くの間は、書法の上からは唐の延長と考えていいと伏見冲敬は考えている。
王安石を登用して新法を実施した宋の第6代の皇帝神宗(1048-1085、在位1067-1085)の熙寧(1068-1077)・元豊(1078-1085)年間にいたって、天才蘇・黄・米の出現によって、宋朝の書法は面目を一新したという。のみならず、殊に蘇・黄の書風は後世への影響の大きいことは、王羲之・顔真卿に匹敵するものがあるとされる。ただし、彼らの書風は、直ちに当時一般に行われたわけではなく、北宋の末期までは、なお伝統的な書法が底流をなしていた。
ところで、宋代の四大家の一人、蘇軾(1036-1101)は幼年の頃から書を好んだが、どんなものを習ったのであろうか。この点について、黄庭堅は次のように捉えている。蘇軾は若いとき「蘭亭序」を学んだので、その書は姿媚なところは徐浩に似、酒を飲んで心に巧拙を忘れたときは、その筆の瘦勁なこと柳公権に似る。中年喜んで顔真卿・楊凝式を学んだので、出来のよいものは李邕に劣らないといっている。この黄庭堅の蘇軾の書に対する評言を、書家の伏見は真相に近いものであろうと評価している。
そして、そうした先人を学んだ跡はすっかり底にひそんで、完成された蘇軾の傑作として「黄州寒食詩巻(こうしゅうかんしょくしかん、かんじきとも)」(1082年)を挙げている(伏見、1960年[2003年版]、140頁)。
蘇軾は、流謫されていた湖北・黄州の地において、元豊5年(1082)の春、寒食を迎えた。寒食というのは、冬至から数えて、105日目に行なう中国の旧習で、この日は火を禁じて煮焚きをしないという。つまり冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたことをさす。その起こりについては、春秋時代の晋の介子推が焼死したのを弔う意味から、との俗説がある。蘇軾の「黄州寒食詩」は、春とはいえ冷雨の降りつづくのに思いを寄せて作った二首の詩で、その詩巻の執筆は、1082年から遠からぬ時期であろうと推測されている。この二首の詩の書き始めの第一行には、王羲之を基盤とする典雅なたたずまいが看取され、行を追うにつれ激しい感情の起伏があらわになり、第二首の後半は、その頂点に達すると堀江はみている。この書の魅力は、この激しい動きに加え、その豊潤な筆触にあるという。蘇軾など北宋の四大家は、初唐の三大家と比べると、主観主義的傾向の強い書風であると評されている(堀江、1991年、144頁~146頁)。

ところで、蘇軾・黄庭堅、米芾の三人の書を、松井如流は一言でたとえている。蘇軾は情の書、黄庭堅は意の書、また米芾は知の書であるという。書の精妙さは米芾に指を屈し、抒情のゆたかさは蘇軾を推さねばならない。その間に黄庭堅は意気の旺盛なしかも独自のスタイルをもって精神性を強調したのだという。
後代の人たちは、これら三人の影響を大きく受け、ことに禅門の人たちの中には黄庭堅の書が尊重された。
蘇軾の書「黄州寒食詩巻(寒食帖)」に黄庭堅は次のような跋を記している。
「此の書、顔魯公(唐・顔真卿)・楊少師(五代・楊凝式)・李西台(宋・李建中)の筆意を兼ぬ」と。
蘇軾の書の根底には、二王と顔真卿があるが、この帖を書いた頃の蘇軾は47歳の頃で、最も脂の乗った時で、もはや蘇軾の心の中には、二王も顔真卿もなく、自己の性情をいかに正直に表すかにあったといわれている。つまり二王を学びながら二王の法に捉われておらず、顔真卿を学びながら、その筆癖だけを模したという風ではない。
この寒食の詩は、黄州に追いやられた元豊3年から2年経った元豊5年(1082年)の作であり、この帖を書いたのも、詩ができて、すぐに筆をとったものと考えられている。
蘇軾の書は洗練された書ではあるが、癖のある書で、側筆だといわれ、上下からおしつぶされたような構成には非難されていたようである。このことを本人も気にしていたらしく、次のような話が伝わっている。
ある時、蘇軾と黄庭堅がお互いに書を論じ合い、蘇軾は黄庭堅に「貴方の書は清勁でよいが、時あって筆勢が甚だ痩せて、木の梢に蛇がからまっているようだ」といい、黄庭堅は蘇軾に「貴公の書は軽ろ軽ろしく論じられないけれども、まま狭く浅くまるで石におしつぶされた蟇のようだ」とやり返して大笑したが、お互いに、心中では病所(欠陥)を突かれたと思ったということである。
しかし蘇東坡の書は、幾多の病所を超えた気象の高さと精神の清らかさが認められ、この「寒食帖」を見ると、側筆だとか、おしつぶされた蟇のようなところが見えなくなっていると、松井如流は述べている。おそらく、自己の病弊は気がついて、改めて、このような境地に達したのであろうと推測している(松井、1977年、230頁、236頁~239頁)。

蘇軾と墨
蘇軾が墨にこだわった話は有名であるらしい。榊莫山が『莫山書話』(毎日新聞社、1994年、172頁~173頁、181頁)において、この話を紹介している。
蘇軾は、若くして高等文官試験の科挙にパスした英才であった。彼は宋代を革新する政治家になるのが夢だったが、その夢もはかなく消え、政治的な圧迫や左遷で、あげくのはては投獄という不遇に彷徨した。ただ、この不遇が、彼をたぐいまれなる数奇の詩人にした。彼は政治への不信を不朽の名作「黄州寒食詩巻」のなかへ、おりたたむようにしてえがいた。
この詩人は、文房四宝への憧憬も大きかった。彼はロマンをかきたてて、狂人のように墨造りへとはしった。
松脂を焚いて松煙のススで造った墨の色は、青く冴えて美しいそうだ。青墨(せいぼく)とも呼ばれた(水墨画をかく画家になくてはならない墨だったという)。
かつて、宋の詩人・蘇軾は、この松煙のススにこだわった。自分でススとりをするんだと、といって、谷深い松林のはえた山に分け入り、小屋をたてて、松煙をたきつづけて、ススとりをはじめたが、なんと山火事をおこしてしまったほどである。墨というのは、それほど人を夢中にさせるのである。
また、蘇軾は歙(きゅう)州の硯である歙硯(きゅうけん)にも、ぞっこん惚れこんだ。あたかも歙州の硯が少なくなっていた頃で、それを惜しんで詩にうたっている。歙州では、採石の坑道に洪水が流れこんで、手がつけられなくなっていた頃の話である(榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年、172頁~173頁、181頁)。

蘇軾と「東坡肉(トンポーロウ)」
蘇軾の字(あざな)は東坡である。つまり彼がみずから「東坡居士」と号したのは、湖北省にある黄岡(こうこう)での流刑時代のことであった。彼は朝廷での政争に巻き込まれて、荒れた土地を開墾し畑とし、そこを「東坡」と読んだ。「坡」とは坂道のことで、ここでは岡の意味に使われているという。
この黄岡では豚肉が安く、ほとんどが泥土と同じくらいの値段で買えたようだ。そこで彼は安く手に入る豚肉を買ってきては喜んで食べ、やがて新しい料理を開発した。それが「東坡肉」という豚の角煮であるそうだ。宋の周紫芝(しゅうしし)の書物『竹坡詩話』には、蘇東坡の詩「猪肉を食らうの詩」が引用されている。「黄州の好き猪肉、価(ねだん)の
賤(やす)きこと糞土の如し、富者は喫(た)べることを肯んぜず、貧者は煮るを解せず、火を慢着(とろび)にし、水を少着(すくなめ)にし、火候(ひかげん)足りし時、他(それ)は自ずから美(うま)し」というものである。
これは浙江省杭州で今も名物料理とされる。これが黄岡のあった湖北ではなく杭州の名物とされるのは、蘇東坡がやがて罪を許されて都に帰り、さらに杭州の知県(知事)となった時に、民衆から届けられる豚肉と酒(紹興酒)を使って、この料理をよく作り、民衆にふるまったからであるという(阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年、56頁~58頁)。

黄庭堅の書について
黄庭堅の「松風閣詩巻」は書の革命であると石川はいう。「筆蝕」の細分化と連合が見られ、起筆・送筆・終筆の各単位をさらに起筆・送筆・終筆の小単位(3×3=9の小単位)に細分化し、九折化した小単位を「三折法」が統合して、一つの字画を描き出しているとする。そして切れよく小気味よい必然的脈絡(テンポ)が全体を覆っているという。
この点、五木ひろしの歌った歌謡曲「よこはま・たそがれ」というわかりやすい例を持ち出し、説明している。山口洋子が作詞したこの曲は、名詞を突き放すように並べただけといったふうの構成であるが、新鮮な歯切れのよい作詞法である。そこには、従来の流れとうねりと連続の歌謡曲の歌詞にはついぞ聞かれなかった。
黄庭堅の「松風閣詩巻」は喩えれば、実質はともかく、形の上では主語も述語も繋辞も消えたかのような山口洋子の「よこはま・たそがれ」なのだというのである。このような切れ味のよいテンポをもつ行書は従来まったく存在しなかったと称賛している(石川、1996年ⓐ、234頁~240頁)。

米芾の毒舌について
李家正文(りのいえ まさふみ)は「米芾の毒舌―欧、褚、公権、張旭、懐素、智永―」というエッセイで、面白いことを述べている。
欧陽詢、褚遂良、柳公権、張旭、懐素、智永は、中国の書道史上に有名な書家である。
ところが、米芾にとってはすべて悪筆の代表であるという。米芾は、『米襄陽集』において、薛郎中の紹彭に寄す」という詩をおさめている。
そこには次のようにある。
「欧は怪 褚は妍自 ら持せず
 猶能く半ばは古人の規を踏む
 公権の醜怪は 悪札の祖にして
 茲従り古法は蕩として遺ること無し
 張顚と柳とは頗る同罪にして 
 俗子を鼓吹して乱離を起こす
 懐素は猲獠(かつりょう) 小(すこ)し事を解するも
 僅かに平淡に趨(はし)れば 盲医の如し
 憐れむ可し 智永は硯空しく白く
 本を去ること一歩 千嗤(し)を呈す
 已ぬる矣 此の生は此が為に困しむ
欧陽詢の書は怪勁であるし、褚遂良の書は妍媚であるが、どちらもしっかりしたところがない。ただ多少は古人の書法に従ったところはあろう。
しかし、これに対して柳公権なんかは、醜怪そのもので、それこそ悪筆の元祖みたいなものである。柳公権があらわれてからというもの、古人の書法は、水に押し流されたように消え去ってしまい、この世に残らないことになった。
そういえば、張旭も柳公権と全く同罪の徒である。かれらは世間の俗人をあおり立てて、正しい書法を乱してしまい、かれらの書が書だというものだと誤らせて、正しい道から離れさせてしまったのである。
また懐素は、一匹狼か西南の土蛮みたいな奴である。まあ、すこしは書のことがわかっていたかもしれないが、それはかれの草書だけのことで、普通の真行書になると、もう駄目で、まるで盲医のように心もとない。
ことに憐れな者は智永である。永欣寺の楼門に籠居して、多くの人々のために書きまくって暮らした。そのために筆はちびていっぱいになり、硯には墨が切れて乾き、正法の書から外れる始末となって、世間の人々から笑いを買うことになった。
どうにもいたしかたのないことである。この人生は、君のために、たれもかれも苦労することである。このように李家正文は解説している。
このように、毒舌極まった米芾は、書家たちから敬仰されている諸家を、そろいもそろってなぎ倒している。
李家正文の米芾評は、「米芾は書画学博士ではあったが、懐古的というか、古代への妄想狂の一人で、唐朝の冠服を着て得意になっていた変人であった」という(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、272頁~277頁)。
宋の四大家の書について
宋代を代表する書といえば、蔡蘇黄米の四大家が挙げられるが、蘇・黄は革新書風の完成者として天才をうたわれたのに対し、蔡・米は古法の継承者として盛名を馳せた。
米芾と蘇軾・黄庭堅の書の相違点を、出身階層の相違と結びつけて考える人もいる。
例えば、米芾は官僚地主の出身で、宋初の功臣米信は五世の祖である。一方、蘇軾や黄庭堅は科挙による新興の士大夫階級であり、蘇軾の祖父から五代さかのぼると、もう名も知られず、祖父の蘇序自身、文盲に近いという、いわば成り上がりものであるといわれる。
米家も貴族階級ではないけれども、米芾は幼少より皇親国戚の豪華な邸宅に育ったというから、その生活環境が彼の人となりに影響を与えたと考えられている。
米芾の父の佐は、左武衛将軍、中散大夫、会稽県公という官品を贈られた。また、母の閻(えん)氏はかつて英宗皇后の高氏の乳母であった人で、丹陽県太君を贈られた。米芾が貴族社会で育ったのは、この母の関係からであり、米芾は科挙によらず、高皇后の子神宗が即位すると、旧恩によって秘書省校書郎になることができた。時に米芾は18歳(1068年)であった。
その後、1106年には、書画学博士に除せられ、そして徽宗は特に便殿において賜対し、米芾は、子の友仁をともなって拝閲した。すると、徽宗は自ら筆を揮った書および画扇を賜ったという。
このことは、三者のうちで、蘇軾・黄庭堅と米芾との書が、革新的と保守的という対照的な相異を示していることと関連があるという(宇野、1972年、57頁~58頁、63頁)。

宋代の朱熹の書について
朱子学を大成した南宋の朱熹(1130~1200)の書「劉子羽神道碑」(1179年)も残っている。朱熹は13歳で父を失い、遺言によって母とともに当時劉子羽(1097~1146)の後援をうけた。劉子羽は北宋の末、靖康の変で殉節した勇将の子で、軍略家として知名の士であった。
こうした因縁の劉子羽の碑であるから、朱熹は文も書も力をこめてなしたようだ。その書体はやや行書風をおびた楷書で、穏健で端正な字体は、学者の書たるにふさわしく品格が高いと評される。この朱熹の書について、平山観月は次のように記している。
「書は唐にあきたらずとして魏晋にさかのぼり、とくに曹操を学んだというが、これはきびしい学問的態度の結果であろう。書風は少し艶態を含みながら、より以上の骨がありシンが通っている。そこにかれの性格のあらわれがみられる。」と(平山、1965年[1972年版]、289頁~290頁、294頁~295頁)。

元代の書について
約90年間の元代は、書道の上では反省の時代と捉えられている。すなわち宋人が自由と個性とを尊重して粗放になったのは、古法を軽んじたからだという事実を認めるにいたり、晋唐の温雅整斉な書風が流行した。しかし、独創力にとぼしく、しかも規格は唐宋にも及ばず、「意余って筆足まらず」の時代ともいえる。
趙孟頫(ちょうもうふ、趙子昴1254-1322)は、その「行書千字文」がすぐれているとされる。王羲之を専心学んだ人の書だけにその形意を得ている。しかし、格調はそれほど高くないと評されるが、筆がよく暢達(ちょうだつ)して、特に形も整っているから実用書の手本として、この「行書千字文」はよいものとされる。趙子昴は、宋の太祖十一世の孫、孝宗の兄の五世の孫にあたる貴族である。しかし、宋元二朝の臣となったので、節義上から日本人には特に評判が悪く、藤田東湖は彼の書を手本とする時、机上におかなかったという。
ただし、明清の書家の多くは、趙子昴の追随者であるといわれる(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、72頁~73頁。伏見、1960年[2003年版]、158頁)。
東京国立博物館には、趙子昴の「蘭亭十三跋(らんていじゅうさんばつ)」がある。本帖について、次のようなことが伝えられている。
王羲之から10世紀を隔てた至大3年(1310)の9月、趙子昴は、皇太子(後の仁宗)のお召しにより、夫人を同伴して郷里の呉興(浙江省)から大都(北京)へと月余の旅に出発した。
その途次、独孤(どっこ)僧から「定武蘭亭帖」の佳本をゆずりうけた。そのすばらしさにうたれ、喜びのあまり、趙子昴は日々蓬窓の下にひろげ、9月5日から10月7日までの30余日の間に13回の跋を重ねた。これが世に喧伝されている「蘭亭十三跋」のゆえんである。その第十一跋の後に「蘭亭序」の全文を臨書しているが、その一部分が東京国立博物館にある。本帖は、清の乾隆年間に譚組綬(たんそじゅ)が愛蔵していたが、彼の没後火災にあい、譚の門人英和が断片を集めて帖装をほどこした。
趙子昴は、王羲之の書の正統をまもろうとした元朝第一の能筆で、その書は遒麗(しゅうれい)な美と整粛な気分とを備え、後世に大きな影響を及ぼした(上條、1970年[1971年版]、4頁)。

元代から明代へ
元代後半期の書の世界には、放縦な主観主義と元の趙子昴風の典雅な格調美とがはげしく対立していた。その対立を総合統一したのが、明代初期の傾向であった。この傾向は鮮烈な精神性を失う結果となったが、明代の書の方向を一応決定し、文徴明(1470-1559)の書は、その頂点を示している。姿はあくまで理知的な端正さを保ち、平明さに終始しており、したがって観念的・散文的という無感動を露呈することになると堀江は評している。この文徴明の様式は、日本の江戸時代の唐様の世界に、追随者を生んだ(堀江、1991年、134頁~135頁)。

清朝の康熙帝の書について
英主康熙帝は、清朝300年の基礎を築き、在位は1661~1722年で、中国歴代皇帝で最も長く在位した。中国歴代皇帝の中で大帝という呼称を与えうるとしたら、漢の武帝、唐の太宗、そして清朝の康熙帝であろうといわれる。漢字の字書として、あの『康熙字典』(1716年刊)を編纂したことはよく知られている。『説文解字』『字彙』『正字通』など歴代の字書を集大成したもので、4万7000余の漢字を楷書の部首画数順に配列し、字音・字義・用例を示し、以後の字書の範となった。
康熙帝の書としては、「行書避暑詩軸」などが残っている。書の場合は、とくに明代の董其昌が好きであった。董其昌は、明代の万暦末に華亭派の頭領として一世を風靡し、頭脳明晰の代表者でもあった。その董其昌の字を、皇帝中の知性派の筆頭のような康熙帝は好んだ。
元来、董其昌の書は、その基礎を王羲之の書に求めたといわれる。つまり董其昌の書を掘り下げていくと、結局は王羲之の書に辿りつくというのである。だから、康熙帝の「行書避暑詩軸」という書も、王羲之風の書である。逆にいえば、王羲之書法に果敢な挑戦を試みた金石書法―すなわち碑学派といわれる人々も出現したが、一般に清朝の書は、温雅と典麗を求める書の風靡から新しい仕事のできる書家は現れず、結果として董其昌を越えるほどの書の生まれなかった時代であったともいわれる(青山、1982年、113頁~121頁。榊、1970年[1995年版]、94頁)。

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