歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その1>

2011-01-03 10:14:48 | 日記
<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その1>

今回のブログは、歴史学者の専門論文を紹介し、その感想を述べてみたい。取り上げるのは、嶋尾稔氏が執筆された次の英語論文である。すなわち、
SHIMAO Minoru, “Chapter 111, The Sinification of the Vietnamese Village : Family Genealogy and Ancestral Hall”, in ISHII Yoneo ed., The Changing Self Image of Southeast Asian Society during the 19th and 20th Centuries, The Toyo Bunko, 2009, pp.54-83.
がそれである。
この論文集は東洋文庫リサーチ・ライブラリーに収められた『19世紀と20世紀における東南アジア社会の変わる自己イメージ』と題し、次のような3部構成である。
Ⅰ部 植民地支配直前における「私たち」と「他者」との間の相違の表現
Ⅱ部 マスメディアの発達と植民地社会の変容
Ⅲ部 自己同一性の再発見と地方教育の重要性
石井米雄氏は序文において、この英文論文集の内容および狙いについて次のように述べている。植民地主義者と同様に、海上交易者との接触を通して、次第に外的世界の影響を受けることにより、前近代および近代東南アジアの国家と社会で起こった様々な変化を扱った論文集が本書である。そして本書の狙いは、
①いかに植民地化が伝統的東南アジアの政体および社会を変えたのかを提示すること。
②植民地、ポスト植民地との2つの異なった世界の間の介在的な視点を見出す可能性を探ることである。そしてこれら2つのことを通して、東南アジア史に斬新なアプローチの方法を切り開くことにあるとする(ISHII, 2009, Preface)。
本論文集には、7本の英語論文が収められているが、この中からベトナムに関する嶋尾稔氏と桜井由躬雄氏の論文内容を紹介してみたい。
ところで、嶋尾稔氏は、1963年生まれで、東京大学大学院人文科学研究科を修了し、現在、慶応義塾大学言語文化研究所教授という要職にある。専攻はベトナム史であり、阮朝期ないしフランス植民地期の科挙制、村落史(とりわけ郷約)、そして家礼と称する儒教儀礼に関して研究しておられ、日本を代表する歴史学者である。
語学に堪能なことは、今回取り上げる英語論文を見ても明らかであるが、その他にも日本におけるベトナム史研究全般を概括的に整理した英語論文もある。すなわち、
Shimao Minoru & Sakurai Yumio, “Vietnamese Sudies in Japan, 1975-96”, ACTA ASIATICA 76, 1999.
がそれである。加えてベトナム阮朝史の通史的概観と研究史上の問題を提起した講座シリーズの論稿もあり、それは格好の研究入門書の役割を果たしている。すなわち、
「阮朝:「南北一家」の形成と相克」(『岩波講座 東南アジア史5』岩波書店、2001年)
がそれである。このようにベトナム史の実証的・基礎的な研究にとどまらず、概説史および研究史概観まで幅広く包括的に研究しておられる。いわゆる文献のみに執着する歴史学者の枠を超えて、ベトナムの現地調査を精力的に1990年代から行なわれ、その研究成果はフィールド調査で培われた経験と知見によって支えられている。こうしたベトナムの現代を見据えた嶋尾氏の研究姿勢と問題意識は、「革命前の教育と習俗に関する聴き取り」(『百穀通信』第11号、2001年)に結実している。
嶋尾氏が研究対象とする時代は、ベトナムの前近代から近代と幅広い。それのみならず、歴史学者以外の文化人類学者等との学際的交流から生まれてくる研究業績も存在する。「19世紀~20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」はそうした研究姿勢の具現化されたものであろう。この論稿は、末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』(風響社、2000年)という著作に所収されていることからもわかるように、副題にある「東アジアにおける父系出自と同姓結合」という壮大なテーマへアプローチする野心的な試みである。こうした研究主題は歴史学者のみで研究が完結されるはずはなく、人類学者等との学際的議論の中から、解明されるべきものである。対象地域もベトナムだけでなく、中国、朝鮮、日本といった東アジア全般に広げ、その比較研究の中から解決の糸口を見出しうるような研究テーマである。この著作は、慶応義塾大学地域研究センターで開催されたシンポジウムでの発表論文と、総合討論を合わせた研究成果である。このことからもわかるように、嶋尾氏の所属する慶応義塾大学言語文化研究所を中心とする研究ネットワークが果たした役割は大きい。
そしてこの研究所は今年になって更なる成果として、
『アジアの文人が見た民衆とその文化』(山本英史編、慶応義塾大学言語文化研究所、2010年)という著作を出版している。その中にも、嶋尾氏は「ベトナムの家礼と民間文化」と題して高論を投稿され、中国の『朱子家礼』がベトナムの家礼に与えた影響および民間文化の独自性について、論じておられる。
このように、ベトナム史全般にわたり、意欲的にかつ真摯に研究に取り組んでおられる嶋尾氏であるが、その研究業績を網羅的に紹介することは、筆者の能力を超えるところである。ここでは氏の代表的な研究である先に掲げた英語論文
SHIMAO Minoru, “Chapter 111, The Sinification of the Vietnamese Village : Family Genealogy and Ancestral Hall”, in ISHII Yoneo ed., The Changing Self Image of Southeast Asian Society during the 19th and 20th Centuries, The Toyo Bunko, 2009, pp.54-83.
を中心に紹介し、コメントを付し、筆者なりの見方を提示してみたいと考える。

まず、論文の構成は次のようにある。
第3章「ベトナム村落の中国化について――家譜と祠堂を中心として――」

1 村落の紛争
1.1.初期の歴史:14世紀~16世紀
1.2.分割
1.3. 祖先崇拝の様々な様相
1.3.1.B(裴)族
1.3.2.ND(阮廷)族
1.3.3.NL(阮琅)族
2 村落秩序の再編成
2.1. 家譜編纂運動
2.1.1. BD(裴允)族
2.1.2. ND(阮廷)族
2.1.3. NN(阮如)族
2.1.4. NL(阮琅)族
2.1.5. BH(裴輝)族
2.1.6. 家譜編纂の共時的性格
2.2.家族と村落法
2.3.祠堂建設の起源
2.3.1. BH(裴輝)族
2.3.2. BH(裴輝)族の第2支第2派
2.3.3. NT(阮才)族
2.3.4.祠堂建設の普及
2.4. 家譜の再編纂
2.5. 村落の儒者
  結論

それでは英語論文の拙訳を試みるとともに、論文の要約をまず最初に記しておきたい。
《拙訳と要約》
序文(54頁)
1990年代以来、ゾンホ(dong ho)と呼ばれる父系出自親族制度において復活をベトナムは経験しつつあるように思える。その復活には2つの方向で進められている。
1つは傑出した歴史上の人物と同一視される共通の祖先に様々な集団を結びつける大規模で全国的な動き
もう1つは都会に住むために退出したものの、生誕地の文脈の中に父系を置きたい住民の故郷の村落を重視する
ここで、これらの計画を完成する手段のために、ゾンホ構成員に呼びかけることにより、家譜(family genealogies)を再編し、祠堂(ancestral halls)を再建する試みを見いだす。この後者の方向は、ゾンホの形を復活させることに基づいて進んでいる。この現象の研究は、革命前のゾンホがいつ、どのように最初に形成されたのかを調べることが必要であるとされる。
本章では、村落共同体(the village community)が社会秩序を再建した時期である19世紀~20世紀初頭、紅河デルタのナムディン省の北部村落(BC(百穀)社)史を検証する。BC(百穀)社で起こったことは、ゾンホ原理に焦点をあてることによって、歴史を改訂し、社会秩序を再組織する地方の下層儒教文士(local low ranking Confucian literati)を巻き込んだことを分析する。家譜の編纂・改訂を通して、家族史を書き直す目的は、新しく建てられた祠堂を中心にした人民集団を結合することであった。努力はフランス植民地化以後さえも続き、その制度の更なる洗練化を目ざした。その結果は、1945年革命以後に延期されたが、ドイモイ(1986年)以後の時代にも改訂されている。
より大きな文脈の中で、再組織過程は、儒教思想(Confucian ideas)をめぐるベトナム国家と社会の「中国化」(“Sinification”)において新しい段階に対応する。中国化の最初の段階は、ベトナムが中国の直接支配下の1000年間以上(紀元前110年から10世紀初めまで)に起こったけれど、ベトナム社会への儒教思想と実践の完全な普及は黎聖宗治世下の科挙制の実施にともない、15世紀に始まった。それから、国家主導の儒教化から、17世紀末から18世紀にかけて私的領域内で政府の政策と努力によって開始されたより発展した段階が生じたように思われる。例えば、多くの家礼『胡尚書家礼』、『捷径家礼』、『寿梅家礼』は、朱子が霊廟崇拝のために規定した制度を含んで、朱子学に基づいて編纂されたのは、この後者の時代であった。それから19世紀初め阮朝では、より原理主義的中国化運動は、ベトナム社会の再儒教化(re-Confucianization)を推進した。より大きな地域にわたるこれらの発展を見ると、17世紀末から東南アジアへの大量の中国人の移住の始まりと結びついて、大祠堂を建立し、家譜を編纂するために、明代の洪武帝期(1368-98)に中国で実施された儀礼改革と、中国のエリート家族の間で生じつつあった慣習を我々は見出す。その結果、ベトナム文化の儒教化に大きな影響を及ぼした。
他方、ベトナム農村社会の異質性と、村落共同体の複雑性を無視してはいけない。すなわちベトナムの北部、中部、南部地域の間に相違が存在するだけでなく、北部地域自体の中にも相違が存在する。早くも17世紀末に儒教文化が取り入れられたクィン・ドイ(ゲアン省)、モ・チャク(ハイズオン省)のような村落が存在するが、同じ発展はたいていの他の村落でははるか後に起こった。上述の「発達した」村落から「未発達の」村落への時代にわたった儒教文化の移行における傾向を我々もまた同一視することができる。さらに農村ベトナムに儒教文化が広がったからといって、既存の仏教的、道教的、土着的な文化要素が根絶されたわけではない。言い換えれば、ゾンホはベトナム農村社会組織の唯一の要素を構成している。村落集合体(the village complex)になされた貢献と地方の儒者の手でゾンホの導入によって果たされた役割を考察する理由はここにある。
嶋尾氏の研究は、ベトナム農村研究と、ベトナムの儒教イデオロギーの歴史との間に位置づけられ、そのような研究の隙間はまた、次のような論題を検討する学者たちによって占められてきた。
すなわち①反仏植民地運動における郷紳(農村知識人)の役割、②ベトナム農村への科挙制の影響、③農村文化と道徳的価値観に関して儒教思想の影響。
本研究は、ゾンホと儒教思想との関係の歴史を、より具体的に追究している。つまりベトナムの族結合の基盤として、重要な役割を果たしてきた家譜と祠堂がいかにして一村落へ普及・定着したかを歴史的に追い、ベトナム村落の族結合の再編過程を検討している。広いコンテクストとして想定しているのは、18世紀に始まったベトナム村落の自治的性格が19世紀に本格的に展開し、またこの時代に大陸部での勢力範囲の再編と、王朝下での社会変化という東南アジア世界の変化、そして明代洪武礼制以後の「礼教の普及」のベトナムへの影響という東アジア的問題を、具体的、実証的に族結合の変化を跡付けていくことである(嶋尾、2000年、214頁~215頁、247頁注5)。
この歴史的発展は2つの時代に区分できる。
①党派間の抗争の18世紀およびそれ以前の段階
②家譜と祠堂が最も重要な財産であり、共通したゾンホ親族の慣習のまわりに組織された安定化した社会によって特徴づけられる19世紀および20世紀初めの段階
本研究は主に後者の時期に焦点をあてる。地方の儒者によるゾンホの歴史再建と再社会化を明らかにし、そして北部ベトナム農村の父系出自の歴史的側面と、それ自体を組織するためのその地域の力量をより理解することに願わくば貢献したいとする。
ところで、現在(1990年代半ば)祠堂を保有している全部で17のゾンホがあるという。BH(裴輝)族、V(武)族、NT(阮才)族の3つの家系は、100戸を越える規模を誇る一方で、残りのゾンホは50戸以下を構成するにすぎない。村のゾンホ(十二家先、つまり、NT(阮才)、ND(阮廷)、NL(阮琅)、NN(阮如)、NV-1(阮文一)、NV-2(阮文二)、NC(阮公)、BH(裴輝)、BV(裴文)、BD(裴允)、V(武)、T(陳)の12の族が移住してきて村をつくったことになっている(Shimao, 2009, pp.54-57. 嶋尾、2000年、220頁)。

なお「中国化(Sinification)」の用語について、注釈において、次のように規定している(Shimao, 2009, p.54. note 1.)
「本章では、この用語は、中国の周辺地域において、政治、社会、文化といった重要な構成要素として、中国的パターンを手本にして作られた思想、制度、方法を導入する過程と結果を指す。それはそのようなパターンを複製する体系的努力を必ずしも意味するのではなく、選択、再結合、改訂、省略などに基づいて柔軟に実際的に中国モデルを使う能力を身につけることを意味する」とする。

1 村の紛争
現存する文献史料からは13世紀以前のベトナム村落の状況について不明であり、組織的な居住は13世紀から始まったとする。初期の歴史の簡単な議論から始めて、紛争と17世紀と18世紀の村落共同体の秩序を創出する試みを検討している。

1.1.初期の歴史:14世紀~16世紀
BC(百穀)社の起源については不詳だが、この社が史料上に最初に現れるのは、1573年の碑文である。14世紀と15世紀の状況についての後世の記録はあるが、信頼しうる内容は16世紀半ばからである。一方、1914年編纂のBD(裴允)族の家譜には次のような内容を記す。
ⓐ14世紀に、北寧のNN(玉潤)社出身のBDN(裴允原)が学問を教えるために、BC(百穀)社にやってきたという。これがもし本当ならば、この事柄は村落の儒教化の出発点とみなしうる。
ゴ・ドゥック・トー氏の資料にもとづいて、嶋尾氏は科挙合格者の進士を抽出し、以下のような統計表を作成して、分析している(Shimao, 2009, p.58. note9)。
進士の地域別割合
黎朝前期 莫朝 黎朝後期 阮朝
ハーバク 18.5% 27.2% 13.6% 5.8%
ハイフン 28.4% 28.2% 22.0% 8.0%
ナムハー 3.9% 3.2% 3.0% 12.1%
ゲアン 1.2% 1.5% 4.7% 14.1%
黎朝前期では、旧ナムディン省を含んだナムハー地域は、教育において遅れていたが、旧バクニン省を含んだハーバクはより進んでいた。それに対して、阮朝は状況が逆転した。このことは文化的ギャップのみならず、経済的条件がバクニンからナムディンへの移住を引き起こしたにちがいないことを示唆している。ナムディンは、当時トンキン湾への重要なアクセスポイントであり、農業上のフロンティアと接していたという注釈を付している。

ⓑBDN(裴允原)と息子は、BC(百穀)社よりむしろ、NN(玉潤)社出身の女性と結婚した。2人の孫は、N(阮)姓のBC(百穀)社出身の女性と結婚した。
伝承によれば、黎利の抗明戦での功績と黎朝初期の功臣としての役割によって、BUD(裴於台)はBC(百穀)社の城隍として祭られた。独立戦の勝利と結びついた知識人の衝撃は、村落の宗教生活と儀礼実践に重大な変化をもたらしたはずであるという。

ところで、今日ではBUD(裴於台)は、副神として格下げされ、現在の守護神は10世紀の黎大行皇后楊文娥である。伝承によれば、黎朝の中興(1556年)以後、村民が米を首都に運搬する際に困難に遭い、それを加護したのが楊文娥であったという。BC(百穀)社周辺の村々の守護神は、10世紀~11世紀の歴史上の人物であった。例えば、TC(新穀)社は李朝王子の霊郎大王、PC(富穀)社は丁先皇の功臣阮匐、DL(陽来)社は十二使君の1人范白虎である。ちなみにQL(果霊)社のみは雷神である(Shimao, 2009, pp.58-59. 嶋尾、2000年、248頁注11)。
このような守護神信仰の起源問題については嶋尾氏は保留していた。すなわちこれらの守護神信仰が黎朝中興後に先祖帰りしたのか、中興後に成立したのか、判断しがたいとしていた(嶋尾、2000年、248頁注11)。しかし本論では、楊文娥がBC(百穀)社の本来の守護神で、裴於台の崇拝は後に発展したものとみる(Shimao, 2009, p.59. note11)

NL(阮琅)族の家譜(1907年編纂)は、早くも1675年に守護神楊文娥を叙述しているが、最も初期の同時代の記録は、18世紀の皇帝の勅令であると思われる。16世紀の村の守護神の変化を正確に決定するのは不可能であるが、この16世紀というのは、黎朝の衰退、ハノイでの莫朝の簒奪、タインホアにおける回復といった政治的動乱期である。このことがBC(百穀)社で叙述されたように、宗教生活における分裂と関連するかもしれないとする(Shimao, 2009, p.59.)この点、重要な指摘であり、今後検討されるべき論点であろう。

1573年の碑文によれば、村民による仏教徒の小さな庵HCA(香盍庵)の建設の形態で莫朝期に重要な宗教的事件が起こった。庵の建立は、2つの点で意義深い。
①15世紀の儒教化の過程は、直線的にあるいは排他的に進んだのではなく、莫朝は黎朝の儒教的知識人の文化を継承した。儒教的知識人と民衆仏教の信奉者の間の対立が当時起こったことを指摘する最近の研究を嶋尾氏は紹介している。
仏教寺院の建立を記念する多くの碑文がある。そこには、儒教的枠組みの中で仏教の教義を説明する儒教的知識人による試みが叙述されている。仏教への民衆的傾斜を直接に扱うために儒教の役割に感じる必要性を指摘する。しかしながらBC(百穀)社の庵碑文は仏僧によって著され、いかなる儒教志向の言説も欠如している。
地方の儒者が庵の件にかかわった形跡も認められず、そのことは当時村落の儒教的伝統が相対的に弱かったことを示しているとする。

②碑文に記録された村落は多くの県に位置していた。16世紀後半、庵はBC(百穀)社のみだけでなく、より広い範囲で運営されていたとみる。つまりHCA(香盍庵)は村を越えるより広域の祭祀圏を有していたとする(Shimao, 2009, pp.59-60.嶋尾、2000年、224頁)。






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