今 ここに いる ということ

今 ここに いる
みつけた
出会った
感じた
伝えたい

神に捉えられた牧師

2011年10月16日 15時03分56秒 | 良い知らせ

田越川のほとり 新逗子駅南口から すぐのところに

この教会は ある

日本キリスト教団 逗子教会

友人に誘われ

特別伝道礼拝に 参列

講師は当教会牧師 小宮山 剛師

説教「究極の救い」

マタイによる福音書から  ブドウ園の労働者の譬え が 朗読された後

壮年の牧師が語り始める

特別伝道集会だけあって 初めに この譬え話の 解説

あぁ このまま 終わってしまうのかぁぁぁ

と 思いきや

(大丈夫。 プロテスタントは お説教が 長い)

要所要所に ポイントを 伏線のように 語られる

神の物差しは 人の物差しとは違う

神は 何が何でも ブドウ園に 人を送りたい

「 わたしは この最後の者にも あなたと 同じように 支払ってやりたいのだ 」

そうして 

この譬え話の中の どの登場人物が 自分なのか

と 問いかける

「私は 人様に 迷惑をかけずに 生きてきた。  あの罪びとたちとは違う」

と 考えている人は 朝早くから 雇われた者のよう

「あぁ わたしには愛が足りない。  わたしには 神に祝福される資格はない」

と 感じている人は 夕方5時に雇われていた人、

彼は 本来 神に 救われるべき資格がないのに  

神は 彼を 救われた・・・

牧師は ここから 突然 己れの生い立ちを 語り始める

幼少期 病弱で 死にかけた時 両親が招いた牧師の祈りにより 奇跡的に回復したこと

少年期 信仰の篤い両親と 教会に 当たり前のように通っていたこと

青年期 近代的な思想の洗礼を受け 神から離れ 神を忘れ 生きていた時のこと

そして 二度目の 死の淵の体験

死の淵に立って初めて 忘れていた 信仰を思い出し  魂から 神へ呼びかけたこと

再度 命を助けられたにも かかわらず  彼のベクトルは 神には向かない

しかし 

まるでキリストが遣わしてくれたかのような幼馴染との再会や  

熱心なキリスト者である雇用主との出会い、 両親や 偶然出会った方々が

みな キリストから送られたのだと 気づいた時

神に包囲され 捉えられている自分を知る

《 わたしは 神を忘れ 神がいない とさえ 思った者なのに 》

その時 ただ

雛が 雌鶏に 抱えられているような あたたかな 優しい気持ち

に なったという

生きて 一人ひとりを 導かれる 神

「 わたしは この最後の者にも あなたと 同じように 支払ってやりたいのだ 」

 

 

 

 

 

 

 

 



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