今 ここに いる ということ

今 ここに いる
みつけた
出会った
感じた
伝えたい

聖霊における祈り -ヨブの友人たちの場合-

2012年01月25日 20時10分50秒 | カンタラメッサ師

ヨブの友人たちは ヨブの不幸を聞いて 慰めるため

はるばる訪ねてきた

はじめの一週間は 沈黙していたのに

ヨブの不幸が収まるどころか ますますひどくなるのを見て

友人たちは 神について 長い熱烈な弁護を始める

神に有利で 人間に不利な 素晴らしいこと(綺麗ごと)を言って

ヨブを非難し 神に代わって神を弁護する

「 苦しみのあるところに 罪があったのだ 」 と

苦しみの火の中を通らなかった者の 神についての弁護は

根本的に 偽善であり 偽りである

同じ境遇に置かれる時

自分はもっと立派に振る舞うだろうと 確信している者が行う 自惚れた弁護である

この弁護は 

『神にとって 聖なるものである苦しみ』への尊敬に欠けるので

神を ひどく 怒らせる

 

友人たちの祈りは 偽善者の祈り

唇で神を敬うが 心は 神から 遠く離れている者の祈り

神にへつらう者の祈り

心に 常に何かの利害を秘めている者の祈り

もしかしたら ヨブと同じ状態に陥るのを避けたいのかもしれない・・・

 思い当たる節がある

わたしも ヨブの友人たちのように 振る舞ったことがある

他の方の苦しみに対して 

口に出して言ったか言わなかったかは 定かではないけれど

少なくとも 面と向かっては言わなかったかもしれないけれど

わたしの 心の動きは ヨブの友人たちの様であった

神に対しても

友に対しても

わたしは 悪いことをした と 思う

ひどい奴だと 思う

 


聖霊における祈り -ヨブの場合-

2012年01月24日 19時52分52秒 | カンタラメッサ師

ヨブは 試練が 襲いかかるや否や

神との関係(神への服従)を 真っ先に 確実なものとする

・・・ ヨブは立ち上がり 衣を裂き 髪をそり落とし 地にひれ伏して言った

わたしは 裸で 母の胎を出た

裸で そこへ 帰ろう

主は 与え 主は 奪う 

主のみ名は ほめたたえられよ ・・・

しかし 再度の不幸 そして家人からも 友からも 非難される

ヨブは 

自分の生まれた日を 呪い

神に 筋の通らないことを言い 懇願し 挑戦し 

神をも非難する

非難する友人たちにも 憐れみを乞う

ヨブは 神に対して 誠実であった

苦しみに打ちのめされて 「なぜですか!?」と 神に叫んだが

ヨブの魂はぐらついても 耐えて

神への最初の服従は 取り下げなかった

 

これが 神の友 の 祈り


聖霊における祈り7

2012年01月23日 19時42分07秒 | カンタラメッサ師

罪を犯したとき

神に対する人の状態は

曇ったメガネをかけているよう

神のことは 全く 見えず 理解できなくなっている

リンゴを食べた後の アダムのように

しかし そんな時でも

聖書の中の祈りの人は 神に 祈ります

「 あなたは わたしたちに対してなさるすべてにおいて 正しく まします

あなたのすべての行いは 真実で 

そのなさり方は正しく

そのすべての 裁きは正義にかなっています

そうです

わたしたちは 罪を 犯してしまった・・・・」

「 主よ あなたは 正しいのです 」

この言葉のあと 神は言われます

― 人は 自分の望むことを わたしに言うことができる

わたしは 怒りを 和らげた! -


聖霊における祈り6

2012年01月03日 10時10分59秒 | カンタラメッサ師

聖書の中の祈りの人の心は

神の心と 一つに結ばれていて

いかなるものも 誰も引き離すことは出来ない

たとえ 

神のなさり方の神秘が続き 

苦しみに満ちた「なぜ」や狼狽が あったとしても

神が 何をなさっても

祈りの人が 神に対して

或いは 神が 祈りの人に対して 怒っているときでさえ

祈りの人の心は

神が正しいと 常に 認めている

聖書の中の祈りの人と 神との 関係は

人の親子関係 に似ている

親子は

喧嘩をしても 

たとえ

口汚く 罵り合ったとしても

心の奥深くでは

互いが互いを知っている という信頼感がある

血は水よりも濃い 

親子は 人間だから

絶対的な「正しさ」ということは あり得ない

罪も 間違いも 犯す

だから 赦す という行為が 必要となる

 

祈りの人は 

神とも 人の親子関係のような 関係を築いている

だから 

なぜ?

と 泣きながら祈り

神のなさりように狼狽し

神に対して怒り

神が 自分に対して怒っているかのように 感じることがあっても

神は 常に 正しい と 知っている

心の中では 絶対の服従 絶対の忠実 絶対の信頼 を 持っている

 

わたしに聞け ヤコブの家よ

イスラエルの家の残りの者よ 共に

あなたたちは 生まれた時から負われ

胎を出た時から 担われてきた

同じように

わたしは あなたたちの老いる日まで

白髪になるまで 背負って行こう

わたしは あなたたちを造った

わたしが担い 背負い 救い出す

イザヤ46:3-4

 


聖霊における祈り5

2012年01月02日 20時41分59秒 | カンタラメッサ師

聖書の中の祈りの人は

神の尊厳と 聖性の 感覚で 

心底から 満たされていて

神に 完全に 服従しており

神は 彼にとって 

完全に “神”であられるので

この事実が 土台になっている限り

他のすべては 大丈夫なのです

旧約時代の 祈りの人の本質は

新約以降の 聖人たちにも 受け継がれている

聖人たちにとって

神は 完全に 神であり

愛 そのものである 神 を 思う時

霊も魂も心も体も

憧憬と感謝・賛美の思いに 満ち溢れてゆく

神のみ前に 服従以外の選択肢はなく

服従することが 最上の喜びとなる

それ以外は 何もいらない

何の価値も見いだせない

彼は 隠されていた宝を見つけたのだから

 


聖霊における祈り4

2011年12月28日 17時51分49秒 | カンタラメッサ師

旧約聖書に出てくる

祈りの人々は

己が 神によって 造られた 被造物 である

ということに 

はっきりと 気が付いていて

しかも

そのことを 受け入れている

存外 人は 

自分が 被造物であることに 気がついていない

神が 人を造ったのではなく

人が 神を作った と 断言する人もいる

精子と卵子とが結合して

物理的に 誕生した 

と のたまう人もいる

命を 頂いたものと見ず

生物学的に 生まれるべくして生まれた と 考える

 

生きとし生ける者すべてが

神によって 造られた 被造物である

と 素直に 信じられる

ということ自体が

まず 素晴らしい たま物 なのだ

 

神の創造を 目の当たりにしたアダムでさえ

神の叡智に 憧れて

神のようになりたくて

智慧の 木の実に 手を 出したくらいだもの

 


聖霊における祈り3

2011年12月27日 17時39分28秒 | カンタラメッサ師

聖書から祈り方を学ぼう

神の偉大な友人たち

アブラハムや、モーゼ、エレミヤ・・・etc.etc.

を 通して

彼らの

神に話す時に持っている 

深い信頼と

信じられないほどの 大胆さ とを

学ぼう

旧約聖書の時代

預言者たちの 大胆な祈りは

すがすがしい

 

人類を弁護して

神と

交渉し 直談判し 時には 取引する

脅しをかけることすら ある

神の盲点を 突いたりする

 

「 神は 生きておられる 」

旧約聖書に 何度も出てくる この 言葉は

実感が 伴っているのだ

深い信頼を持って 大胆に 神に 祈る者に とって

本当に 神は 生きておられるのだから

 


聖霊における祈り2

2011年12月22日 22時31分20秒 | カンタラメッサ師

わたしたちの中で

密やかに沈黙の内に祈られる聖霊は

聖書の中で祈られる“霊”と 全く同じ方です

聖書のページに“霊感を与えられた”方は また

聖書における祈りにも 霊感をお与えになりました

“霊”に“波長を合わせて”聖霊が祈られるように祈ることを

聖書から 学びなさい

聖書には 

神が わたしたち人類にして下さったこと が

書かれているばかりではなく

創世の時代から 

人が 神とどのように 語り合ってきたか

神に どのように 祈ってきたか が 

綴られている

その祈りもまた 聖霊が 

諸聖人の口を通して 祈らせたもの

 

“霊”に“波長を合わせて”聖霊が祈られるように祈る

想像するだに 気持ちよさげなこと

 

 

 

 


聖霊における祈り1

2011年12月21日 22時16分25秒 | カンタラメッサ師

祈りとは

あらゆる徳における進歩のための不可欠の道具

瞑想にふけって 神という無限の淵の中で 我を忘れること 

魂の呼吸

幼いころ 祈りは 自分の夢を叶えてもらうことだった

七夕の短冊に 願いを書き

神社の賽銭箱に 小銭を投げ込み かしわ手を打って 祈った

祈りは いつも 懇願 だった

 

ミッションスクールで 学びながら 毎朝 決まった祈りの言葉を唱えた

深く考えもせず

ただ 呪文のように 毎朝 学校放送に合わせて 祈った

 

月日がたち 成長して キリストに出逢った

祈りが キリストへと 導いた

キリストを もっと身近に感じたいと 願い 始めた 「イエスの御名の祈り」

この極寒の国の 篤い祈りの習慣を

ただただ 無心に 繰り返した

「イエスの御名の祈り」は 未知の扉を開く鍵だった

扉は キリストのいる方へ 聖霊の導くほうへと

開いていった

 

人は 神に造られたものだから

祈りは 人の 奥の奥の部分を 安心させる

祈りとは 神と 語り合うことだから

わたしのことを わたし以上に知っていて

わたしが わたしを愛するよりも 愛し心配してくださっている方と

語り合うのだから

 

 


命を与える霊の法則

2011年12月20日 20時07分18秒 | カンタラメッサ師

キリストは 

ご自分が愛したように 

互いに愛し合いなさい

という掟を わたしたちに お与えになりました

この愛こそが

わたしたちを

新しい人 新しい契約の相続者 新しい讃美歌の歌い手にします

― by アウグスティヌス -

           


命を与える霊の法則27

2011年12月18日 15時02分52秒 | カンタラメッサ師

あなたがたの内にある 古いものを 取り除きなさい

あなたがたは 新しい讃美歌を 知っています

新しい人、 新しい契約、 新しい讃美歌

新しい讃美歌は 古い人に 属しません

それは 

恵みにより 新しくされた人

天の国である新しい契約に すでに属している 新しい人によってのみ

理解されることができます

― by アウグスティヌス


命を与える霊の法則26

2011年12月17日 11時06分16秒 | カンタラメッサ師

キリスト教のメッセージの新しさに翳りが帯びるのは・・・④

人が 義務を守った時

神が人に対して “感謝”という負債を負われる と

考えるとき

“~しなければならない”という事柄がある

旧約の時代に 神が お山で モーセに与えた 十の戒め

それは 人が 人らしく生きるために どうしたらいいのか 

何も知らずに 生きていったら 待ち受けているのは 死と 滅びだから

そこから 救うために 予め 神が 教えてくださったもの

キリストが 生涯かけて 説いた教えも 同じこと

人々が 人らしく生き

与えられた命を 豊かに 恵み多く 生き切るためには どうしたらいいのか

モーセのお山の十の戒めを 形だけ守るのではなく

心から 守ることが 必要なんだと

 

 

まだ 物事の道理がわからない 幼子が 包丁で遊んでいたら

良識のある大人は 

幼子から 包丁を取り上げ 

これは 触ってはいけない

危ないから 

怪我をするから

と 諭すだろう

 

次の時 幼子が もし 包丁で遊ばなかったら

諭した大人は 感謝するだろうか

 

わたしたちが 仮に 律法=掟=福音 を 完璧に守ったとしても

神から 感謝は されない

神からの 感謝を 期待してもいけない

 律法=掟=福音は わたしたちを 守るために 与えられたものなのだから

 

幼子は 

諭してくださった 大人に 感謝しながら

包丁で遊んではいけない という 掟を 守るべきだ

 


命を与える霊の法則25

2011年12月16日 10時34分14秒 | カンタラメッサ師

キリスト教のメッセージの新しさが翳りを帯びるのは・・・③

律法=法=福音 が 

義務を作りだすとき

福音書を学び 

キリストの 山上の垂訓を 読むと

あぁ こんなことは わたしには できない

と 思う

右の頬を打たれたら 相手の右の頬を 打ち返したくなるし

悪口を言われれば 言い返したくなるし

敵を愛せなんて とんでもない

自分を愛してくれる人さえ 上手に愛せないのに

自分を敵視している人を 愛するなんて とんでもない

と 思う

嘘もつくし お金も嫌いじゃない

とても とても イエズスさまの 基準には 届きません

 

しかし 

キリストの御受難、復活の後 

聖霊が キリストを信じる者に 降り注いだ この時代

聖霊の 力を借りれば 出来ないことはない

わたしの 肉の部分では できないけれども

聖霊の息吹を受けた わたしの 霊の部分では

キリストの福音を生きることを 望むし

そう ありたい と思う

 

聖霊の恵みが わたしに そう 望ませる

― しかし 現実には 大変なのです

福音の基準と 自分のレベルを 比較して 苦しむのです

苦しんで 苦しんで

ただ その気持ちを 祈る(=神に 話す) のです

そうすると 不思議なことに

嫌なことが 気にならなくなったり

前向きに 物事を 捉える事が できるようになる

レベル的には まだまだ キリストの望まれるところまでは いっていないでしょう

けれど 前の 自分とは違う と 感じる

これが 第一歩なのか と 思う

長い 道のりです -


霊を与える命の法則24

2011年12月10日 10時25分06秒 | カンタラメッサ師

キリスト教のメッセージの新しさに翳りが帯びるのは・・・②

恵みを 

神と人との契約の過程で

「 独力で出来ないことを 補うために 彼に来る助け 」

として 見るとき

「 天は自ら助くる者を助く 」 という言葉が ある

この言葉を 聖書の中の言葉と思う人が多い

しかし この考え方は 聖書的ではない

自らを助ける力は

人の努力の前に与えられるもの

恵みがあってこそ 人は 努力することができる

「 天は はじめに 自ら助くる力を お与えになった 」(ハレルヤ!!)


命を与える霊の法則23

2011年12月09日 09時09分05秒 | カンタラメッサ師

キリスト教のメッセージの新しさに翳りが帯びるのは・・・①

養成活動が 

人間の “しなければいけないこと”を 

一方的に強調するとき

 

説教や信徒の要理教育、霊的な指導が、

義務や徳などの しなければいけないこと

悪徳などの してはいけないこと

罪を犯した後に受ける罰 ばかりを 

強調すると

信仰に 

恐怖感が 植え付けられ

神は 愛の神ではなく 恐ろしい罰を与える神となる

 

元々 肉の人として 生まれた わたしたちは

放っておいても 肉の業に縛られる

肉の業は 生を死へ運び

永遠の命と協調できない 己の自我を 自覚させ

未知なる死後の世界を 恐怖に包む

 

イエズス・キリストの

メッセージと その生涯で 獲得して下さった 神の恵み は

この 肉の業を 打ち破るもの

 

“しなければいけないこと”を 強調する養成活動は

キリストの業と 聖霊の恵みを

真っ向から 否定する

折角の キリストの働きを 無 としてしまう