以前よりはテレビを視聴する機会が減りました。その代わりネット動画をよく見るようになりました。
ネット上には様々な情報があふれかえっています。これらを情報源として私たちは生きてゆかなければならないのですが、間違った情報やある立場だけから述べられているものまでいろいろです。これらを取捨選択できる能力があれば問題はないのですが、ある考えに取りつかれたように信じ切ってしまっている人たちに出会います。
なぜそう判断できるかというと、その方たちに共通しているのは「話している内容がいつかどこかネットで見た極端な意見と瓜二つ」だからです。
私から見て「極端な意見」なので必ずしも万人がそう思うわけでないのですが、中庸を好む私からすればそれらは右も左も関係なく「極論」になります。
「テレビの言っていること、三大紙の言っていることは偏向フィルターがかかっている」という人たちは、ネットの極論を持ち出しています。
もともとマスコミのある一面として、自己の主張を世に広めるということがあります。編集方針に沿った取材がなされ、記事が出来上がるのです。
もし世の中を見渡したいというのであれば、いろいろなニュースや主張に触れる必要があるです。それが、不快感になったときは、何かの赤信号だと思って一度立ち止まる必要があるかもしれません。
公平な見方というのは難しいことですが、自分の判断のためにも必要なものです。
ネット上には様々な情報があふれかえっています。これらを情報源として私たちは生きてゆかなければならないのですが、間違った情報やある立場だけから述べられているものまでいろいろです。これらを取捨選択できる能力があれば問題はないのですが、ある考えに取りつかれたように信じ切ってしまっている人たちに出会います。
なぜそう判断できるかというと、その方たちに共通しているのは「話している内容がいつかどこかネットで見た極端な意見と瓜二つ」だからです。
私から見て「極端な意見」なので必ずしも万人がそう思うわけでないのですが、中庸を好む私からすればそれらは右も左も関係なく「極論」になります。
「テレビの言っていること、三大紙の言っていることは偏向フィルターがかかっている」という人たちは、ネットの極論を持ち出しています。
もともとマスコミのある一面として、自己の主張を世に広めるということがあります。編集方針に沿った取材がなされ、記事が出来上がるのです。
もし世の中を見渡したいというのであれば、いろいろなニュースや主張に触れる必要があるです。それが、不快感になったときは、何かの赤信号だと思って一度立ち止まる必要があるかもしれません。
公平な見方というのは難しいことですが、自分の判断のためにも必要なものです。