新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

バカボンパパの生まれた日なのだ 

2019年09月14日 | 革命のディスクール・断章
 きょうは、『おそ松くん』『天才バカボン』の赤塚不二夫の誕生日だ。1935年で、存命なら84歳。亡くなったのは、2008年8月2日だから、もう11年前になる。

 『おそ松くん』の美麗なファンアートを描く若い人がいた。『おそ松さん』の方ではない。お父さんが赤塚不二夫の大ファンで、『おそ松さん』が大ヒットする以前から、この作品に慣れ親しんできたのだという。「英才教育を受けてきたんだねえ」と、私は感心するばかりだった。

 私は、『元祖天才バカボン』を見て育った世代だ。「これでいいのだ!」「賛成の反対なのだ!」「不思議だが本当だ。本当だが不思議だ」「おでかけですか?レレレのレ」「タイホする!」などの名言は、血肉化しているとさえいってもいい。

 赤塚は、天性のヒューマニストでもあった。デビュー3ヵ月めの永井豪が、『じん太郎三度笠』(1968年)を掲載しとき、わざわざ呼びつけて、「殺し合いのシーンなんか入れるな!! ギャグはそんなんじゃない!!」と怒ったのは有名な話である。しかし永井豪は、「赤塚先生がだめって言ったことに将来活路があるんじゃないか」と逆に開き直り、赤塚が否定した色事や暴力を追求して、『ハレンチ学園』で大成功を収める。
https://www.news-postseven.com/archives/20180824_743299.html

 人権問題についていえば、左翼活動家には必携本だった、千代丸健二氏の『ザ警察対抗法』(三一新書)の表紙絵を手がけたりしていた。千代丸氏は、『人権110番』を主宰した作家、ジャーナリスト、人権活動家であり、赤塚と同じ満州出身だった。『ザ警察対抗法』には続編もあり、千代丸氏が同新書から出していた『警察の人権侵害』の表紙絵も、バカボンのおまわりさんである。この本には、Amazonでは、「18,207円」もの高値がついている。

 この千代丸氏との縁か、人権闘争や救援闘争では、配付資料に赤塚のイラストを見かけることがあった。このほか、赤塚には『「日本国憲法」なのだ!』(1983年)という共著もある。

 記憶違いかもしれないが、救援カンパや署名に応じていただいたこともあったのではないか。私たちの「拠点」のあった杉並区のコミュニティ誌のインタビューにも、気さくに応じておられた。敬愛するまんが家から支援や協力を得られることほど、心強いものはなかった。

 赤塚のヒューマニズムの原点は、中国人の子どもたちと一緒になって「犬ころのようになって」遊んだ、満州時代にあったのだろう。

 赤塚の父は、抗日ゲリラや国民革命軍と対峙する特務機関員で、当時の金額で2000円もの懸賞金がかけられていたという。しかし宣撫官(せんぶかん)という職務柄もあって、普段から現地の中国人とも平等に接することに努め、ワイロや物品も受け取らず、補給された物資は現地の村人達に分け与え、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教える、正義感の強い潔癖な人だったそうだ。赤塚の父のことを密告する村人は一人もおらず、敗戦直後、赤塚家の隣に住む日本人一家が報復として皆殺しになったときも、赤塚の家族は難を逃れている。しかし父はソ連軍にとらえられ、シベリア抑留になった。残された家族は命からがら満州から引き揚げ、大和郡山で極貧の底辺生活を送る。幼い妹二人が、この引き揚げ前後に亡くなっている。

 小学館の入門百科シリーズから出ていた赤塚の『まんが入門』は、まんが家にあこがれていた、子ども時代の私のバイブルだった。赤塚は中学時代を、父の郷里である新潟で過ごしている。新潟に生まれた私にとっては、郷里の誇りでもあった。

 赤塚自身の新潟の印象は最悪だったらしい。「日本有数の豊かで美しいコメどころでも、その閉鎖性と排他性は、陰湿な風土の奈良に、勝るとも劣らぬものだった」と振り返っている。しかし「赤、青、茶、黒」の四色の絵の具しか持っていない貧しい赤塚少年が、「くやしまぎれのやけくそタッチ」で描いた新潟港の絵が、全校の図画コンクールで第1席になり、教師や級友たちの見る目も変わった。これが大きな転機となったという。

 バカボンのパパのように、朗らかで優しく、人間を愛し抜いた赤塚も、晩年はアルコール依存症も重くなり、病に苦しみ、その思想や言動も、変質していたようだ。

 ある対談では、「山形弁研究家」のダニエル・カールを「アメ公」と呼び、「日教組のバカ」を罵倒し、「殺すぞ」と暴言を吐いている。『おそ松くん』ファンの若い人に話すと、「マジですか?」と受け入れがたいようだった。私でも驚いたのだから、ファンにはもっとショックだったろう。この対談については、以前、『赤塚不二夫対談集「これでいいのだ」』の感想で引用している(記事にリンク)。

https://gold.ap.teacup.com/multitud0/731.html


 このダニエル・カールとの対談は、療養中ということもあって、赤塚家で行われた。愛娘が「イギリスの野郎」と一緒になることを許せないと言いだし、「お前、アメリカ人なんだよ?」と難癖をつけまくる赤塚に、同席した赤塚夫人も、ついに堪忍袋の緒が切れたらしい。赤塚夫人は、二人の前に、「証拠です」と、アメリカ旅行の写真を取り出す。自由の女神の前で、赤塚は星条旗の帽子をかぶってごきげんだ。「日の丸帽子かぶらないとだめですよ」とダニエルに諭され、赤塚は沈黙してしまう。

 この沈黙が、何だか愛嬌たっぷりで、佐藤春夫のエピソードを思い出した。戦後も、日本の敗戦を絶対に認めようとしなかったのに、洋モク(外国製煙草)を愛飲するのを、阿川弘之に「先生、それアメリカ製ですよ」とみとがめられ、「敗戦国からの貢ぎ物じゃ」と居直ったという。こういう頑固じいさんを、私は嫌いではない。一度好きになったものを嫌いになるのはむずかしい。

 今日は、何のネタも思いつかず、記念日サイトを見て、手軽に済まそうと思ったのに、赤塚不二夫は自分のルーツにも関わる部分で、つい冗長になった。

 この日が誕生日の人は、他にも大勢いる。「同情するなら金をくれ」の安達祐実さん(1981年生まれ)より、参議院議員の吉良佳子さん(1982年生まれ)のほうが年下というのは、なんだか不思議な気がした。

 吉良さんを初めてお見かけしたのは2009年東京都議選(このときは惜敗)だったが、前職は、宝印刷勤務で、CSR報告書作成の仕事に従事していたらしい。

 このカテゴリ「革命のディスクール・断章」は、歴史上の人物・できごとを除けば、新左翼系の話題が中心のコンテンツで、吉良さんにとっては、このブログで言及されること自体、不本意、不愉快かもしれない。しかしあえてお名前を出したのも、いわゆる新左翼にも大きな影響を与えた吉本隆明の『試行』が、宝印刷で印刷されていたからである。『試行』は、吉良さんの入社前の1997年2月をもって終刊しているが、吉本はどこかで、同社の誠実な仕事ぶりに対して感謝の言葉を残している。

 新左翼と印刷所でいえば、吉本が支持した第一次ブント(共産主義者同盟)の機関紙も、自前の印刷所で印刷されていた。「この論文はけしからん」ということがあると、植字工はわざと「ピロレタリア」などと誤植してやったらしい。いわゆる内ゲバも、テロも総括もない、まだ新左翼がのどかだった時代のエピソードである。

 『天才バカボン』の最初期は、ほのぼのとしたホームコメディだったが、やがてナンセンスギャグに移行し、バカボンを中心としたスラップスティック・ギャグ作品となっていく。そして、後期は、時としてグロテスクなブラックユーモアの世界で、もはやパパさえ登場せず、シュールで実験的な作品になり、最後は燃え尽きるように消えていった。この作品がたどっていった運命は、新左翼の自壊の歴史を想起させる部分もある。

 「赤塚死すとも作品は死せず」で、赤塚ワールドは、『おそ松さん』でみごとにリバイバルした。ご長寿化の進む新左翼のほうは、いまはあくせくと生きること、そしてバタバタと死ぬことで忙しく、「復活」への道は遠く厳しい。
 



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