2014年に書いた、北斎とゴッホに関するテクストに付随する、メモのリバイバルです。
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今年2014年は《富嶽三十六景》と並ぶ北斎の代表作・《北斎漫画》の刊行から200年。文化11年(1814)に刊行が始まり、全15編が完結したのは、実に北斎死後の明治11年(1878年)。人物・動植物・建造物・日用品・風俗・宗教・神仏など、まさに絵の百科事典である。
日本から輸入された陶磁器の緩衝材に使われていた『北斎漫画』が偶然フランスの芸術家達の目に止まり、評判になったというエピソードも伝わる。この逸話は現在では信憑性が疑われているが、「ホクサイ・スケッチ」がジャポニスムが流行するきっかけとなったことは確かである。
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しかし欧米に初めて《北斎漫画》を紹介したのは、文政6年(1823)、オランダ商館医として来日したドイツのフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである。それも北斎存命中のことだった。オランダ帰国後、シーボルトが著した『日本』には、「北斎漫画」から模写された図版が多数収録されている。
シーボルトは日本滞在中、どうやら北斎は会っていたらしい。二人を引き会わせたのは、「出島出入絵師」となり、シーボルトの資料収集のために植物や風俗を描いた川原慶賀ではないかと考えられている。慶賀はシーボルトの文政9年(1826)の江戸参府にも同行している。
実際にはどうだったのだろうか。
北斎はオランダ商館長の江戸参府の際の定宿だった長崎屋を描いた作品を残している。また飯島虚心『葛飾北斎伝』は、オランダのカピタン(商館長)と医師から絵を注文を受けた際のトラブルを紹介している。
日本人の誕生から死までの一生を描いた絵巻を、男女各1巻ずつ描いてほしいとカピタンが北斎に依頼した。商館付きの医師もそれに便乗して、自分にも描いてほしいという。北斎は数日の間に合計2組の絵巻を仕上げて旅館に持っていった。カピタンは約束通り金150を払ったが、医師は薄給を理由に半値に値切ろうとした。北斎は怒った。
「金がないならなぜ最初にいってくれないのか。絵は同じでも色数を減らして絵の具を節約するなどの手段はあった。描いてしまった後では、どうにもならない」
「そこをなんとか」
「半値にしたらカピタンに対して暴利をむさぼったことになる」
「それなら男子の図1巻だけでも譲ってくれないか」
普通の人間なら、ここで妥協しただろう。しかし契約違反に怒った北斎は絵を持ち帰ってしまう。このことは妻を怒らせた。
「ばかな人だね。こんな絵は日本じゃ当たり前で、誰も買ってくれやしないよ。損したって異人さんに売っちまいなよ。だからいつまでたっても貧乏から抜けられないのさ」
北斎もさすがにすぐに返す言葉がなかったが、しばらくして「それでてめえの損は免れるかもしれねえが、日本人が相手によって掛け値を許すという嘲けりは免れねえ。持ち帰ったのは、おれなりに深く考えてのことだよ」と答えたという。
この話をオランダ通詞(通訳兼商務官)から伝え聞いたカピタンは、北斎の気骨に深く感じ入り、医師の代わりに代金を支払い絵を購入したと伝記作者は伝えている。
近年ではこの医師がシーボルトではなかったかという説も浮上している(真偽のほどはわからない)。
史実で明らかなのは、シーボルトが文政11年(1828)の帰国時に、禁制の日本地図(伊能図)を持ちだそうとして、国外追放処分になったことである。
しかしすでにオランダに送り済みだった北斎とその弟子たちが描いた風俗画は、没収を免れた。この作品は今もオランダ国立民族学博物館とフランス国立図書館に所蔵されている。
大和絵・漢画・洋画の画法の集大成である《冨嶽三十六景》が生まれるのは、シーボルトが日本を去ってからだった。《冨嶽三十六景》は、北斎とシーボルト、二人の越境者の出逢いがもたらした、「日本発見」の旅だったといえるかもしれない。