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フォイエルバッハ没後137年 「私の生は何にも代替できず譲渡もできない」

2019年09月13日 | 革命のディスクール・断章
 今日は哲学者のルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハが亡くなった日だ。没後137年になるようだ。過去記事「フォイエルバッハ風葬」にリンク。
なぜ「風葬」というタイトルなのかは、リンク先を読んでほしい。
 
 エンゲルスの『フォイエルバッハ論』は、マルクス主義の世界観を学ぶための「基本文献」になってきた。

 私も読んだのは、学生の頃で、本書に関する記憶は、もうほとんど胡散霧消している。今でも覚えているのは、本書に附録として付けられたマルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』の次の言葉である。

 「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきた。だが、必要なことは世界を変革することである」

 結局、エンゲルスの本論より、この「附録」のマルクスの言葉だけが喧伝されてきたのではないだろうか。しかし、左翼の論争を見ていても、世界を変革することより、「変革」がどんなものか、解釈することや論争することに明け暮れる人が目立つ。

 せっかくなので、『フォイエルバッハ論』を久しぶりに読み返してみた。エンゲルスのエッジの立ったシャープな文体は、「竹を割ったような」ということばがふさわしい(もちろん、そこには弊害もある)。若い頃の私は、マーカーを引き、赤ペンで波線して、鉛筆でチェックを入れ、ゴリゴリと読んでいる。

 いわゆるリベサヨさんの一部には、安倍長期政権に苛立つあまり、世界が終わるように絶望したり、悲嘆に暮れたり、自公に投票した人、選挙に行かなかった人を罵ったり、時に安倍に対して差別的言辞も含めた暴言を吐くけれど、共産党や中核派のような「ガチ勢」は、言動にも一定の節度があり、おおらかで、時に楽天的でさえある(もちろん、どんな世界にも例外はいる)。これは、『フォイエルバッハ論』の次の言葉が、マルクス主義の「世界観」として確立しているからだと思う。

 「結局、現実的なものは、すべて合理的であるという命題は、ヘーゲル的思考のあらゆる規則にしたがって、すべて存在するものは滅亡に価するという他の命題に変わるのである」

 締めの言葉は、『ファウスト』のメフィストレスのセリフ「すべて生じるものは、滅亡に価する」のパロディ。メフィストレスは、まどマギの例の契約を迫る淫獣のモデルね。

 エンゲルスの語るように、ヘーゲルに比べてフォイエルバッハは平板だ。フォイエルバッハは「神」のかわりに、「愛」を新しい人間の宗教にしようとした。「神」は否定しなければならないが、人間には、超越的な存在が必要だというわけだ。

 しかし、中森明菜も歌うように、「すぐに愛を口にするけどそれじゃ何も解決しない」のだ。エンゲルスは次のようにいう。

 「残るのはただ古い決まり文句、汝らたがいに愛せよ、性と身分の区別なく抱き合えであり、万人協調の夢想である。
 要するに、フォイエルバッハの道徳理論は、すべて以前の諸理論と同じである。それはあらゆる時代、あらゆる民族、あらゆる状態に合うようにつくられており、まさにそのためにどこにもまたどんな時代にも適用されず、現実の世界にたいしては、カントの定言的命令と同じように無力である」

 フォイエルバッハは、唯物論的な自然観の基礎の上に、「真の宗教」を打ち立てようとしたが、これは近代の化学を「真の錬金術」と考えるのと同じ迷妄に陥っているとエンゲルスは指摘する。宗教が「神」なしで存在しうるとすれば、錬金術も賢者の石なしに存在することになってしまう。フォイエルバッハは、ヘーゲルの「観念論」から「唯物論」に歩み出したけれど、不徹底で、反動的ながらもラディカルな面もあるヘーゲルより後退してしまったのだ。そこでアウフヘーベンしちゃう、われらが「科学的社会主義」の登場なのである。

 しかし現代を生きる私たちの目には、エンゲルスの「科学」は古色蒼然として見えるけれど、フォイエルバッハの方が新鮮に見える。晩年のマルクスは、ヘーゲルは「死んだ犬」のように扱う人びとに憤慨したけれど、エンゲルスがフォイエルバッハを「噛ませ犬」のよう扱うのを見たら、何と言っただろうか。

 ヘーゲルもフォイエルバッハも、それ自身、自立した巨大な思想的人格であり、マルクスによって「止揚」されてしまった抜け殻のごときものではない。ヘーゲルやフォイエルバッハのテキストに当たり、若きマルクスの思想的格闘を追体験することも、左翼思想なり、左翼理論の再生には不可欠だろう。

 フォイエルバッハの「いま」「ここ」を生きる「生の哲学」は、まだ古い観念論の尻尾も引きずっていて、エンゲルスは唐竹割りのようにバッサリ切り捨ててしてしまったけれど、しかし、現在もなお有効であり、マルクスの中にも息づいている。「生」は譲渡不可能なものであり、だからこそ生きた人間を労働力商品に変えてマネーに隷属させる資本主義は、根底的に覆さなければならないのだ。フォイエルバッハはいう。

 「十七世紀の医学者であるイギリス人トーマス・ウィリスは彼の『脳髄の解剖学』の『序言』のなかでいみじくも次のようにいっている。
 『古代人たちはミネルヴァ(知恵の女神)ヴルカヌス(ヴァルカン。火の神)が産婆術用のもろもろのメスを用いて開いた脳髄から発生したといったが、そのときに古代人たちは正しい予感をもっていた。なぜかといえば真理はこの方法で、すなわち死ともろともの傷とによって、そしていわば帝王切開によって日の目を見るか、それとも永久にかくされているか、両者のうちどちらかである』
 しかしそれにもかかわらず、解剖学はわれわれに死んだ真理を語るだけであって、まさにこのために完全な真理全体を語るのではない。科学は決して自分の補充としての生の立場を欠くことができないし、また生の立場に取って代わることができない。生命・感覚・思惟は或る絶対的に独自のもの・天才的なもの・模写されることができないもの・代替されることができないもの・譲渡されることができないものである」(『唯心論と唯物論』岩波文庫・149ページ 舟山信一訳)



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