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10・8羽田闘争--同志山崎博昭の死

2011年10月08日 | 革命のディスクール・断章
   十月の死
   どこの国 いかなる民族
   いつの希望を語るな
   つながらない電話や
   過剰の時を切れ
   朝の貧血のまわる暗い円錐のなかで
   心影のゆるい坂をころげくるアジテーション
   浅い残夢の底
   ひた走る野
   ゆれ騒ぐ光は
   耳を突き
   叫ぶ声
   存在の路上を割り走り投げ
   声をかぎりに
   橋を渡れ
   橋を渡れ

   「橋上の声」佐々木幹郎(『死者の鞭』より)

 1967年10月8日、羽田闘争。弁天橋における全学連と機動隊の衝突のなかで、山崎博昭が死亡した。


 『蜂起には至らず 新左翼死人列伝』(小嵐九八郎)によると、チェ・ゲバラがボリビア陸軍に逮捕されたのが同じ10月8日、その翌日に銃殺されている。チェ・ゲバラは39歳で、山崎博昭は18歳だった。

 今はただ、たたかい半ばにたおれた二人の同志の若さに驚いている。

 同志山崎は1948年11月12日、高知県長岡郡に生まれた。1951年大阪市生野区に一家で転居。64年に大阪府立大手前高校に入学、高校2年で日韓条約反対闘争に起ち、1966年に中核派系反戦高協大阪府委員会結成メンバーとして参加している。中原中也研究の第一人者である詩人の佐々木幹郎は大手前高校の同窓であった。1967年京都大学入学、そのままマル学同中核派に加盟している。

 決戦前夜、泊まり込みの法政大学では、闘争への異様な興奮と緊張のなか、片隅で静かに本を読んでいたという。京大からもってきた本は、「純粋理性批判」という書き出しのノート一冊と、十冊の書物だった。マルクス『経済学・哲学草稿』、トロツキー『ロシア革命史I』、レーニン『なにをなすべきか?』、宇野弘蔵『マルクス経済学・原理論の研究』、同じく『経済政策論』、朝日新聞安全保障問題調査会『アメリカ戦略下の沖縄』、キルケゴール『誘惑者の日記』、J.N.シュクラール『ユートピア以後--政治思想の没落』。このほかフランス語とドイツ語の教科書が各一冊。

 公開された山崎博昭のノートを見て、大江健三郎はこう記した。

 「なお教条的なものを可能なかぎり深く勉強しようとつとめている若者なのだ、とすれば、僕はもっと彼らの声に耳を傾けたい」

 革共同中核派はこの羽田闘争を次のように総括した。

 <十・八羽田闘争の第一の意義は、このたたかいが日本帝国主義のベトナム参戦国への道・佐藤首相の南ベトナム訪問にたいし、文字どおり“死をかけた阻止”のたたかいとしておこなわれたことにある>
 --「羽田闘争の意義とたたかいの展望」本多延嘉
 http://kakukyodo.jp/h.tyosakusen/no1051.html


 この羽田闘争には、「武装デモ」「暴力デモ」という攻撃が加えられた。しかし、それはいわゆる暴力問題のうちに、「ベトナム反戦・訪問阻止」という焦点を解消しながら、国家の暴力という基本的問題点をたくみに隠蔽し、弁護するものにすぎない。この時点での中核派の暴力論は、スタンダードな対抗暴力-武装自衛論だった。

 <だが、事実はどうか。十月八日、全学連からいっさいのデモの権利を不法にも奪いさり、実力をもって機動隊の阻止線を突破することなしには、一メートルのデモの権利すら行使することができない、という無法な暴力をもって弾圧してきたのは、警視庁と都公安委員会そのものではなかったか。また安保以後七年間、全学連の文字どおり肉体と精神のみのデモにたいし、完全武装した警察機動隊を発動して、殴り、蹴り、検挙する、の血の弾圧をくわえ、数十名の瀕死の重傷者をだしてきたのは、警視庁と都公安委員会ではなかったか。一方はつねに武装して殴り、蹴り、検挙する権利をもち、他方は、戦争反対の意志を表明するために、殴られ、蹴られ、検挙される権利しか許されない。――これが国家の暴力でなくして、なんであろうか。しかも、十月八日、警視庁と都公安委員会は、全学連から殴られ、蹴られ、検挙される権利すら奪いとったのである。
 このような国家の暴虐にたいし全学連が自己の正当なデモの権利の行使のために、プラカードと小石をもって警察機動隊の暴力から身をまもったとして、いったいだれがこれを非難できようか。棍棒をふりかざし、装甲車と放水車でデモ隊を攻撃し、鉄カブトと拳銃とガス銃と乱闘服で武装した警察機動隊にたいし、全学連は「ベトナム反戦・訪問阻止」という共同の意志に結びあった組織的団結の力をもって対抗した。>

 この当時の中核派が、同志の死を、「われわれは、全学連の動員がもっと大量的であり、またそのたたかいを労働者本隊の巨万のデモでもってつつむことができたならば、同志山崎の死という尊い犠牲を出さずにすんだであろうことを痛苦をもって確認し」ているのが印象に残る。法大闘争における285名の大量検挙で全学連最高指導部が3日前まで拘留されていたこと、全逓中央の参加禁止指令などで青年労働者の結集も十分でなかったことがその背景にあった。

 しかし70年安保の一翼を担った革共同中核派の実力闘争路線にインパクトを与えたのは、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ-レジスタンス戦争、そして文化大革命ではなかったろうか。中核派は、中国スターリン主義=毛沢東思想の打倒と第二革命を訴えながらも、「少年紅衛兵がもし何ものも恐れることなく、中国革命の危機を突破する道をすすむというのならば、張り子の〈権力派〉にむかってではなく、毛沢東思想の世界戦略=国内政策の徹底的再検討にむかってたたかうべきであろう」と、紅衛兵運動に中国スターリン主義を内側から打ち破る可能性をも見ていたからだ。(「紅衛兵運動のさらけ出したもの」http://kakukyodo.jp/h.tyosakusen/no1043.html)。

 しかし今日では、10月8日の前日、法政大学を訪ねた社青同解放派の活動家2名に対して、中核派がテロ・リンチを加えたことも明らかになっている。

 <かつて毛沢東思想とは、マルクス・レーニン主義の中国への適用の立場を意味するものであった。それが現実にはスターリン主義の中国的適用しか意味しなかったとしても、日共などの機械的追従とは異なった多様性を保留していた。小ブル的革命主義の生きた脈絡をあわせもつことで、中国スターリン主義は一種の生命力を再生産していたといえよう。だが、こんにち、毛沢東思想の『宝箱』のなかから世界のすべての真理をたぐり出すことを要求するとしたら、毛沢東思想は一片の有効性すらもちえないものとなる。毛沢東思想の絶対化のあとには、思想の死、科学の死、文化の死、したがってまた、社会主義の死があるだけである。>(前掲)

 同志山崎がカントやキルケゴールの哲学書に向けた、〈小ブル的革命主義〉のなかに、わが革命的左翼も一種の生命力を再生産していたのだともいえる。しかし、この毛沢東批判は、その後の革共同中核派の歩みにも重なる。思想の死、文化の死、社会主義の死、そして同志本多を含む大勢の同志たちの死、革命的左翼の死。

 しかし革命ははるかな国の、とおい昔の物語ではない。かつてあり、いまもあり、いつまでもある。あの橋の向こうをめざした同志山崎は、また何度となくよみがえってくるであろう。

  You, you, you make a grown man cry
  You, you make a dead man come
  --Rolling Stones - Start Me Up



(2005.10.8)



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