新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

落語『らくだ』聴き比べ

2022年12月19日 | 源氏物語・浮世絵・古典・伝統芸能
誤操作で浮上してしまった過去記事の「おいしいすじ肉」は、元さやに戻ってもらいました。

この記事で「最近読んでいる本」とあったのは、上原善広『日本の路地を旅する』です。


さて、連載中の仕事で、古典落語の『らくだ』からの引用が必要になり、柳家小三治、立川談志、三遊亭圓生を聴き比べることになった。

『らくだ』は上方落語の4代目桂文吾が完成させ、明治時代に3代目柳家小さんが東京へ移植したという(興津要『古典落語』による)。小三治のCDを取り寄せたのは、保守本流(?)であろうという考えから。結果として、これは大正解だった。

『らくだ』を知ったのは、組合の福利厚生行事で行った天満天神繁昌亭の寄席だった。たしか桂雀三郎師匠だったと思う。なんとシュールで、ブラックユーモアに溢れた作品であることか。主役のはずのらくだが最初から死んでいるのも、おもしろい。

千日前には愛着と親近感がある。関西に拠点を移した私の最初の定宿は、千日前のサウナだった。千日前は焼場や刑場があった場所だということで、過去を知る人たちには、いかにも私らしいロケーションだといわれた。

というわけで、小三治のCDを取り寄せたけれど、Blu-rayプレーヤーではCDを再生できないんだね。CD/DVDプレーヤーも購入した。

小三治は実にうまい。本当にうまい。

1989年3月31日の収録である。アフリカの飢餓問題はいまだ解決していないという話に始まり、テレビ番組のロケでエチオピアを訪ねた話へ。そこで遭遇した、遊牧民のラクダの話には、舌を巻いた。夜闇の中、自動車のライトに突如として浮かび上がった森は、木々ではなく、ラクダの群れの足の森だったという。車に座った状態ではラクダは見上げるこちになる。それだけ大きい。このシュールな掴みから、一挙に江戸時代へトリップ。「マクラの小三治」といわれただけの人だけはある。

アフリカの飢餓問題が江戸の「らくだ」につながるなんて、誰が想像するだろうか。しかし貧困とは、いま、ここ、目の前にある問題なのだ。工業高校のヤンキーが、配線を直結させてキーなしでエンジンを始動させるように、江戸時代と現代を直結させる、この言葉のマジック。

私も、文章を書くうえで、山道を走っていると思ったら急に目の前に大海原を広がるような、予想もしなかった地平が切り開けるドライブ感、解放感を大切にしたい。

ただしノイズがひどく、肝心の部分がよく聞き取れなかった。プレーヤーが安物のせいだろうか。Media Playerの設定でどうにかなる? また今度教えてね。アマゾンは違法業者、悪徳業者に甘すぎる。

前掲の興津要『古典落語』に『らくだ』の文字起こしがあることを知り、ヨドバシで取り寄せることにした。他の噺も載っているしね。CD/DVDプレーヤーもヨドバシで買えばよかったかな。しかし良い本を手に入れられたので結果オーライ。

ご恵贈いただいたイリナ・グリゴレ『優しい地獄』を一通り読み終えたところで、YouTubeで談志の『らくだ』を聴くことにした。

談志の落語を聴くのは初めてかもしれない。
冒頭、たぶん内海桂子師匠だと思うのだが、登壇間もない談志の背後を、舞台袖から出てきた和服の女性が通り過ぎていく。これには談志も面食らったらしい。会場は爆笑の渦。

ただ、マクラは思いのほかおもしろくなかった。どこか自己言及的である。太宰風にいえば「含羞」の人なのかもしれないが

スキップして、必要な部分だけを聴くことにしたが、これがまた役に立たなかった。

上方落語では、らくだの長屋があるのは空町で、千日前の焼場まで2キロあまりである。だから桂米朝師匠のことばを借りれば、サラサラ進む。しかし芝に始まって、増上寺、狸穴、六本木、四谷、内藤新宿、いろいろな地名をあげていたが、「らくだ」と呼ばれるだけの大男をいったい何キロ運ばせる気なのか。芝から落合まで10キロはある。

談志は「落語と現代の乖離」に悩んで、いろいろオリジナルな改変に挑んだようだ。根は真面目な人だったんだろうなと思う。この「らくだ」のサゲも、オリジナルの酒の「冷や」と火葬場の「火屋」を掛けた地口サゲではなく、現代風に改変している。

途中で樽の底が抜けて、落ちてしまったらくだの死体と間違えて、酔いつぶれた願人坊主(坊主を装った乞食)を火に放り込む。ここまではオリジナルと一緒だが、談志バージョンでは、ホラー映画よろしく火の中に立ち上がった願人坊主を、屑屋がしたたかに殴りつけ、コブだらけになったのを、「らくだだけにコブだらけ」というサゲで終わっている。

なるほど。火に焼かれながら、「冷やでいいからもう一杯」と酒を所望する願人坊主のおかしみは、現代人には理解し難いものもあるかもしれない。しかし酒飲みのしょうもなさ、業の深さは、談志本人がいちばんよくわかっていたのではないのか。

落合までの道行を聴きながら、談志の『らくだ』はいかにもインテリで、言葉のイメージだけで、肉体と運動が伴っていないように感じた。良くも悪くもテレビ的である。談志自身、『らくだ』には思うところがあるようで、「演者が納得しない噺をうまく演じられるか」などといっていたが、まさにそのとおりの結果であった。

テレビに着目した談志の先見の明は認める。落語をテレビに売り込むにあたり、寄席では余興の大喜利をメインに据えたのが、長寿番組『笑点』の始まりである。プロデューサーとしての談志のセンスは天才的だと思う。落語なら噺の最初と最後にしかCMを入れられないが、大喜利なら適当にCMを入れられる。


三遊亭圓生も、いろいろな改変を行っているが、談志のようなけれんみはなく、原作では不十分に思える細部を丹念にフォローするものだった。らくだの死骸の頭髪を刈るシーンも、わざわざ長屋の女衆に剃刀を借りにいかせている……と、これは『古典落語』を読む限り、オリジナルどおりだった。らくだの死体と間違えられる願人坊主も、運ばれながら、めざめて会話できる程度には意識もあって、「冷やでもいいからもう一杯!」は火に投げ込まれる前のセリフだ。屑屋の友だちの火屋の番人の安公は素面である。さすがに生きている人間を火の中に放り込むのを、黙って見過ごしたとは考えにくい。リアルである。

談志よりは圓生のほうが聴きやすかったし、おもしろかった。

しかしいちばん好きなのは小三治かな。談志と小三治は兄弟弟子なんだね。破天荒な兄貴を反面教師にした、真面目な努力家の弟という気がしたことだよ。れんちゃんはどう思った?


私は願人坊主さんが死なない圓生さんが好きかも……。小三治さんや談志さんも、最後がポオさんの「早すぎる埋葬」のようで、とってもこわいけど、でも、すごいと思った…よ! 
屑屋さんの人格が豹変して、らくださんの兄貴分さんと立場が逆転してしまうところも、おもしろかった…!
でも、ぉ父さんも飲みすぎ注意です…はぃ!


最新の画像もっと見る