聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)ヘブライ語ハガーブ いなごの解釈 民数記13章ほか

2018年05月27日 | ことばの解釈

חָגָב ハガーブ いなご

聖書の中で『イナゴ』に関する記述がありますが、『חָגָב ハガーブ いなご』は、旧約聖書の中で5回使われています。
レビ記11:22
民数記13:33 比喩
歴代誌下7:13
伝道者12:5 比喩
イザヤ40:22 比喩

5か所のうち、比喩として使われているのは3か所ですが、日本語訳聖書は、3か所とも誤訳されています。たかがイナゴ、されどイナゴです。


この記事の目次
・民数記13:33
・伝道者12:5
・イザヤ40:22
・フーグの意味
・比喩ハガーブのまとめ
・バプテスマのヨハネが食べたのはイナゴ豆?
・食べてもよいイナゴ
・余談あれこれ



~民数記13:33~

モーセはカナンの地を征服する前、偵察隊を派遣し、任務を終えた偵察隊は次のように報告します。

新改訳 民数記13:33
そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

『自分がいなごのように見えた』とはどういう意味でしょう?ウエブサイトを見ると『いなごは小さいことの象徴で、アナク人が大きな体を持つのに対し、偵察隊の身長がとても小さいことを意味する。つまり、アナク人(ネフィリム)は巨人であるという意味だ』このように解説する方が多いようですが、これは間違っています。ヘブライ語が語る意味は、次のようになります。

私訳 民数記13:33
カナンにいたのはアナクの子孫で、あれは伝説のゴロツキ集団ネフィリムに違いありません。連中の体つきに比べると、私たちは華奢(きゃしゃ)で、モヤシみたいなものです。


Biblehub.com

民数記13:33



הָיָה ハヤー(バンネヒー) (1961)
~である、~となる

עַ֫יִן アーイン(ベエネエーヌー) (5869)
見た目、姿かたち、目

חָגָב ハガーブ(カハガビーム) (2284)
イナゴのように

33節後半は、私たちの目には自分(の手足)が、イナゴの(手足)ように(か細く)映る⇒私たちの体は華奢で、モヤシみたいなものだ、という解釈になります。

『ハガーブ いなご』は、小さいことを象徴するのではなく『イナゴのように手足が細く、華奢(きゃしゃ)な体つき』『弱さ、無力さ』を象徴することばになります。

余談ですが『アナク族は巨人である』という神学者もいますが、これも嘘です。聖書に『アナク族は屈強な体格をしている。体つきが大きい』こういう記述はありますが、『巨人である』とは書いていません。オランダ人は身長が高いことで知られていますが、オランダ人は『巨人』であると、普通、言わないですよね。『体が大きい=巨人』ではありません。


~伝道者12:5~

伝道者の書12章は、健康が損なわれた老人の哀れな姿を描写しています。5節に『いなご ハガーブ』が使われています。

新改訳 伝道者12:5
彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。

『彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる』とはどういう意味なんでしょう?『アーモンド、いなご、ふうちょうぼく、永遠の家・・・』文脈が支離滅裂で、これでは読んでも意味が分かりません。詳しく説明すると、文字数がオーバーしてしまうので、ここでは『イナゴ』の解釈だけに留めます。ヘブライ語が語る意味は、次のようになります。

私訳 伝道者12:5
年をとれば、髪の毛は白くなり、足腰が衰え、健康が損なわれる。悲しみながら晩年を過ごし、死んで墓に葬(ほうむ)られる。


Biblehub.com

伝道者の書12:5


סָבַל サバール(ベイスタベル)(5445)動詞
(重いものを)背負う、かつぐ、運ぶ

חָגָב ハガーブ(ヘハガーブ)(2284)
イナゴ、バッタ

ベイスタベルは『(重いものを)運ぶ』という意味です。文法的な話をすると、基本形はサバールですが、ヒトパエル形になったのがベイスタベルです。ここは『あたかも、重い物を運ぶように、歩くことがしんどくなる』という意味ですから、『ベイスタベル ヘハガーブ』は『脚がイナゴの脚のように細くなる。歩くのがしんどくなる⇒年をとると足腰が弱くなる』ということです。イナゴ(ハガーブ)は、老人のやせ細った脚の比喩として使われています。

伝道者12章は、希望を失った老人の姿を様々な比喩を使い表現しています。興味のある方は、次のサイト(英語)をご覧ください。
MacLaren's ExpositionsBiblehub Ecclesiastes 12:5



~イザヤ40:22~

イザヤ40:22にも、ハガーブが使われています。

新改訳 イザヤ40:22
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。



新改訳の訳文を読んでも、意味が分かりません。『主は地をおおう天蓋の上に住まわれる』これはデタラメです。ヘブライ語『יָשַׁב ヤシャーブ』は、この文脈では『(王座に)座る』という意味で『住む』ではありません。ヘブライ語『חוּג フーグ』は『~の中』という意味で『天蓋』は誤訳です。『薄絹』も誤訳で、これはヘブライ語『דֹּק ドーク』から翻訳されました。ドークは『テントを覆う外皮(布地、皮)』のことです。70人訳は、ドークを『καμάραν 屋根、覆い』と訳出しています。καμάρανκαμάρακλίση参照。 ドークは『テントを覆う布』のことです。引用サイトRoger Pearse.comAcademic.com。 ヘブライ語が語る意味は、次のようになります。

私訳 イザヤ40:22
大地と天を創ることさえ、主にとっては簡単なこと。主は、王座を大地の真ん中に据え、そこにお座りになった。人間は無力な存在だ。


Biblehub.com
イザヤ書40:22


יָשַׁב ヤシャーブ(ベヨシュベーハ)(3427)
住む、座る、王座に着く

『ベヨシュベーハ カハガビーム』は『(地上の王様なんて、)イナゴが王座に着くようなものだ⇒人間の権力など無きに等しい』という意味です。

解釈文を作ると、次のようになります。
神さまは大地を創り、その真ん中を自分の王座にした。あたかも、テントを一張(ひとはり)立てるように、主は、いとも簡単に大空をお創りになった。この大空は主が住む王宮の屋根。主の王宮は、大地の真ん中に立つ。地上の王様なんて無力なものさ。

ヘブライ語はハイコンテクストになっていて、多くのことばが省略されています。日本人に分かる訳文を作るには、省略されたことばを再現しなければなりません。かといって、だらだらと長い訳文を作ることはできません。訳文の文字数に制限があるからです。原文放棄をおこなって、訳出すると次のようになります。

私訳 イザヤ40:22
大地と天を創ることさえ、主にとっては簡単なこと。主は、王座を大地の真ん中に据え、そこにお座りになった。人間は無力な存在だ。


ハガーブ(カハガビーム いなご)は、人間の無力さの比喩として使われています。


~フーグの意味~

イナゴから話しが逸れますが、『主は・・・天蓋の上に住む』これは誤訳です。天蓋は、ヘブライ語フーグを翻訳したもので、ウエブサイトを見ると間違った説明をする方がいます。『חוּג フーグの意味は「circle,vault」と定義されている。従って「天蓋」以外に「地球は丸い」という解釈も可能である』と仰っていますが、『天蓋、地球は丸い』どちらも誤訳です。『聖書の中で、地球は丸いということを言わせたい』こういうあらぬ先入観を抱いて原文を見ると、歪んだ解釈が際限なく生まれます。ヨブ記22章、箴言8章にも、フーグが使われていますが、『天蓋、地球は丸い』という解釈が当てはまるでしょうか?当てはまらないのです。フーグは『中心、真ん中』という意味で使われています。新改訳は全て誤訳です。フーグは、次の3か所で使われています。
ヨブ22:14
箴言8:27
イザヤ40:22

以下、赤い字が『フーグ』の訳語にあたることばです。

新改訳 ヨブ22:14
濃い雲が神をおおっているので、神は見ることができない。神は天の回りを歩き回るだけだ。」と。

私訳 ヨブ22:14
神の目をくらますなんて朝めし前。天国に、ちょっと雲を掛ければよい』




新改訳 箴言8:27
神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。

私訳 箴言8:27
主は、深い海の真ん中をわかち、大空を創られた。知恵なるお方もそこにいた。




新改訳 イザヤ40:22
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。

私訳 イザヤ40:22
大地と天を創ることさえ、主にとっては簡単なこと。主は、王座を大地の真ん中に据え、そこにお座りになった。人間は無力な存在だ。





ヨブ記の私訳が分かりにくいと思うので、説明をさせていただきます。私訳には『フーグ』に相当する訳語がないので、腑に落ちない方がいることでしょう。ここは表と裏、二通りの解釈ができます。表(おもて)の解釈をすると『天国に雲がかかったらどうなるだろう。神さまは何も見えなくなり、天国の中を歩くこともできなくなる』となります。ヘブライ語 הָלַך  ハラーク(1980)は『歩く』以外に『おこなう、生きる、働く、従う・・・』という意味があります。従って、『天国の中を歩くこともできなくなる』というのは『神としての働きができなくなる⇒神は人間のおこない(悪事)を見張ることができなくなるだろ。そうなりゃこっちのもの。やりたい放題さ』ということです。ヘブライ語が語る意味、ニュアンスを、適切な日本語で表現すると、次のようになります。

私訳 ヨブ22:14
神の目をくらますなんて朝めし前。天国に、ちょっと雲を掛ければよい』


新改訳は意味不明です。
新改訳 ヨブ22:14
濃い雲が神をおおっているので、神は見ることができない。神は天の回りを歩き回るだけだ。」と

『直訳(トランスペアレント訳)が原文に忠実な翻訳だ』という方がいますが、それは嘘ですよ。



~比喩ハガーブのまとめ~

話しを『ハガーブ いなご』に戻し、以上検討してきた内容をまとめてみます。

ハガーブが使われた個所まとめ


חָגָב ハガーブ(2284)は、バッタ、イナゴという意味ですが、חָגָּא ハッガー(2283)は、恐れ、心くじけるという意味があります。ヘブライ語は、韻をふんだ表現や、発音が似たことばを代用することを好みます。ハガーブ(イナゴ)と、ハッガー(恐れ、心くじける)を掛けことばとして使っている、そのように見えます。



~バプテスマのヨハネが食べたのはイナゴ豆?~

新改訳 マタイ3:4、マルコ1:6
このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

この個所について『バプテスマのヨハネが食べていたのは、イナゴではなくイナゴ豆のことだ。蜜とはハチミツではなく、なつめやしの蜜だ』この様に、奇をてらった解釈をする神学者(聖書学者)がいるようです。都会に住む人からすれば、イナゴと野蜜を食べるなんて、気色(きしょく)悪く感じるのでしょう。こうした解釈は、自分の知識や価値観に合うよう、歪められたものです。

こんにちでも、ユダヤ教の過越祭に、イナゴを食べる習慣が残っています。イナゴに、ハチミツを付けて食べることがあるんです。自分が育った日本の文化、価値観のまま原文解釈をすると、必ず誤訳になります(自文化の干渉)。聖書が書かれた時代、その地域の文化、価値観に沿って、理解しなければなりません。下の動画は、現代ユダヤ人が、イナゴと野蜜を食べる様子を映したものです。

Crickets, Grasshoppers, Locusts,



how to cook locusts - honey crunch locust - Arthropod Food Club



The Crunch of the Matter: the Kashrut of Locusts. Would you eat one?



バプテスマのヨハネは、文字通り『イナゴと野蜜』を食べていたのです。神学者がいうニセ情報に騙(だま)されてはいけません。



~食べてもよいイナゴ~

レビ記11章に食べてもよいイナゴが書かれていますが、名称がはっきりと確定されてないようです。

レビ記11:22 新改訳
それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。

様々な英訳を調べましたが、Chabad.orgの解釈が、日本人に最も理解しやすい訳し方だと思い、下の表にまとめました。




BBC.comの記事にも、次のように紹介されています。
・・・ユダヤ教には食事規定がある。昆虫の中で食べることができるのは、イナゴのみ。野生のイナゴといっても様々な種類がある。このうち律法で食べることが許されているのは『赤イナゴ、黄イナゴ、斑点イナゴ、白イナゴ』の4種類・・・
Locust is the only insect which is considered kosher. Specific extracts in the Torah state that four types of desert locust - the red, the yellow, the spotted grey, and the white - can be eaten.

細かいことかも知れませんが、こうしたイナゴの名称についても、日本語訳聖書の翻訳改定に反映されるべきだと思います。新改訳2017を見ると、第三版のままでした。


イスラエルにもイナゴの大群が発生しますが、多くはエジプト経由で飛来してきます。




Israel Fighting Off Locust Invasion



כָּשֵׁר Kosher コーシャー Kosher foods 適合食品
כַּשְׁרוּת Kashrut カシュルート 食物規則、聖潔規定



~余談あれこれ~

2013年3月3日付けの、Atlantic.comは、イナゴの大群がエジプトを襲ったことを報道しています。この年の過越祭は、イナゴの大量発生から3週間後おこなわれています。出エジプト記にも、イナゴの大量発生が書かれていますが、イナゴの発生から過越祭(初子の死)まで、何日経っていたのでしょう?3週間位だったのでしょうか?出エジプト記を見ると、イナゴの大量発生(10章)⇒暗やみの難(10章)⇒初子の死(12章)という流れで、イナゴの発生から2~3週間後、初子の死が起こったように見えます。出エジプト記の記述は、現代のカレンダーとほぼ一致します。『出エジプト記の出来事なんか作り話しだ』と、一笑に付すことはできないでしょう。


来たる2018年12月、日本聖書協会は共同訳聖書を出版するようですが、この中で『いなご⇒ばった』と訳語の変更をするそうです。理由は『ヘブライ語アルベは、サバクトビバッタを指す』ということですが、これは改悪ですぞ。旧約聖書に出てくる『אַרְבֶּה アルベ』、バプテスマのヨハネが食べた『ἀκρίς アックリース』共に、食べることが許された昆虫です。ここが肝心です。日本にもイナゴを食べる地域があります。『イナゴの佃煮』は有名です。しかしですね『バッタの佃煮』というものを、私は聞いたことがありません。『イナゴは食用に使われるが、バッタは使われない』日本人の多くは、こういう理解をしているはずです。ここでいう『イナゴやバッタ』は昆虫学の分類でいう『イナゴやバッタ』ではなく、食文化として定義される『イナゴやバッタ』です。もし聖書に『ユダヤ教ではバッタを食べる。バプテスマのヨハネはバッタを食べていた』と書かれていたら、『ユダヤ人はバッタを食べるのかよ。なんでイナゴを食べずにバッタを食べるんだ?』こういうトンチンカンな印象を日本人に与えることになるでしょう。

聖書に書かれた『清い動物、清くない動物』は、現代動物学の分類とは異なる基準で書かれています。その中で、動物のひづめに関する規定、反芻(はんすう)に関する規定について書かれていますが、現代の動物学が定義する、ひづめや反芻とは、異なる視点で定義されています(ここは翻訳困難な箇所です)。聖書に書かれた昆虫名も、現代昆虫学の分類法とは異なる見方で、分類、命名されています。

聖書の翻訳に、一部の人しか知らない専門用語を引っ張って来たり、一部の人しか知らない専門的分析をおこない、聖書のことばを意味不明なものにおとしめる、こういうことをやってはダメです。例えば、聖書の中で『土台』と翻訳されたところがあります。

出エジプト記29:12
その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の角につける。その血はみな祭壇の土台に注がなければならない。

ルカ6:48
その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。

専門的にいうと『土台』というのは、木造建築に使われる部材で、基礎の上で水平に横たわる角材のことをいいます。土台はアンカーボルトで鉄筋コンクリートの基礎に締め付け、しっかり固定される、そういう部材です。




土台が使われるのは、木造建築だけで、石やレンガで壁を作るイスラエルの組積造建築に、土台(木材)はありません(基礎はあります)。




ユダヤ教の祭壇は、石、金属で造られます。ですから、木造建築の様な土台は存在しません。また、アカシア材で造られた移動式の祭壇もありますが、これは、基礎に固定することはないので、これにも土台は存在しないのです。




理屈っぽくいうなら『土台』ということばが、聖書に登場するのは間違っているといえるでしょう。しかし、日常会話の中で一般の人が使う『土台』の意味は、もっと広く『基礎、基本、原則』という意味が含まれています。

土台とは  goo辞書より引用
1 木造建築の骨組みの最下部にあって、柱を受け、その根本をつなぐ横材。建物の荷重を基礎に伝える。
2 建築物の最下部にあって、上の重みを支えるもの。基礎。「土台石」
3 物事の基礎。物事の根本。「信頼関係を土台から揺るがす事件」
※1は現代建築の専門用語としての定義。2は古い時代の建築用語。3は日常語としての定義。

一般の方が日常語として『土台』ということばを使う場合、『基礎』という意味で使う場合が多いのです。ですから、聖書の中で『土台』ということばを使ってはダメだとはいえないのです。『建築用語では、土台と基礎は、それぞれ違うものを指す』ということを知っているのは、日本人の中でも1%位しかいないでしょう。不必要な専門的解釈で書かれた翻訳は『オレって専門的知識があるんだぜ。頭いいだろ』という、翻訳者の自己陶酔に過ぎません。

要は『イナゴをバッタに変更すると、却っておかしな日本語になるぞ。不用意に専門用語を使ったり、余計な専門的解釈を持ち込むな』ということです。聖書の中で書かれているのは『食べることが許された昆虫(イナゴ)』についてです。これは食文化の視点から見た昆虫(イナゴ)ですから、日本語に翻訳する場合、同じく食文化の視点で訳語の選択をしなければなりません。食べることができるのは『イナゴ』と訳出するのが正解です。バッタじゃ変でしょ。ユージン・ナイダ(Eugene A. Nida)が言うように『原文と訳文の間に等価性を与えなさい』ということです。

日本聖書協会も『格調高く美しい日本語を目指して』翻訳をしたようですが、こういうトンチンカンな理念を掲げると、頭でっかちな文章、意味不明な聖書ができあがります。日本語に翻訳できるにも関わらず、ヘブライ語をカタカナ表記しただけで済ませる。必要がないところで、専門的解釈を持ち込む。現代日本人が理解できない、古い漢語で表現する。難解で意味不明な聖書ができあがるのは当然です。『格調高く美しい日本語を目指す』ことが、皮肉にも、読者に不利益をもたらすのです。

通訳翻訳において最も大切なのは、日本人に誤解を与えない訳文、理解しやすい訳文を作ることです。聖書を誤訳し、間違った聖書解釈を作ってきたのは、ほかでもない神学者や聖書学者です。言い換えると翻訳の素人が聖書を翻訳しているということです。聖書翻訳というビッグビジネスが、神学者によって利権化され、誤訳悪訳をおこない、意味不明な聖書を高値で販売する。それでいて理事や翻訳者はきっちり報酬を得る。こうした利権構造は、読者が不利益をこうむるだけです。神さまも、望まれないことだと思うのです。

『חָגָב ハガーブ いなご』の解釈について、あれこれと書かせていただきました。たかがイナゴ、されどイナゴです。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。