聖書と翻訳 ア・レ・コレト

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(000)ヘブライ語 masows ことばの解釈

2018年05月05日 | ことばの解釈


~色々なよろこび~

イザヤ書8章6節の中で、ヘブライ語『masows マソース』ということばが使われています。masowsは、一般的に次のように解説されます。

英)exultation, joy, rejoicing 
私訳)大よろこびをすること、幸福感をともなうよろこび、歓迎する(よろこぶのお堅い表現)

『聖書と翻訳』で述べたことですが、翻訳辞書でことばの意味を調べても50%しか分からず、翻訳辞書に頼るということには落とし穴があります。『masows』についても同じく、一般的な辞書では解説されない別の意味があるということと、イザヤ書8章6節で、従来の日本語訳で足りなかったものが何であるかを示してみます。

日本語訳聖書では、masowsを次のように訳しています。

イザヤ書8章6節 新改訳
「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる

新改訳『~を喜んでいる』
文語訳『~をよろこぶ』
口語訳『~の前に恐れくじける』
新共同訳『~のゆえにくずおれる』

『喜ぶ』という解釈があれば、反対に『恐れる』という解釈もあります。どうして、こんなにかけ離れた意味になるのでしょう?masowsということばに『喜ぶ』と『恐れる』という正反対の意味があるのでしょうか?これだけ解釈が分かれているということは、翻訳者が、masowsの意味をつかんでいないからです。

King James Versionでは、次のようになっています。

・・・this people refuseth the waters of Shiloah that go softly, and rejoice in Rezin and Remaliah's son

新改訳で『喜んでいる』と訳された箇所が、King James Versionでは『rejoice in』となっています。英語のrejoice inは、~と同じ状態を保つ、(誰かの)仲間入りをするという意味だと、『イザヤ書8章-6』で記述しました。KJVの『rejoice in』は『喜ぶ』という意味ではありません。


次の記事は、Chaim Bentorah Ministries WORD STUDY- REJOICE WITH TREMBLINGの抜粋を私訳したものです。

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ヘブライ語には『よろこび』を意味することばが16以上あります。英語にはいくつあるでしょうか。文化の特徴は、言語にも反映されます。『よろこび』ということばは、英語よりもヘブライ語の方で、大切な概念を持つようです。

次に、ヘブライ語で『よろこび』を意味することばを、幾つか挙げてみます。

Simchah・・・The Joy of the Lord
主をよろこぶこと

Samach・・・Joy in performing religious ceremony
祭儀におけるよろこび

Samerch・・・Joy that shows outward expression
よろこびを表現すること

Suws・・・An inward feeling of joy, not expressed
行動として表れない、心の中でのよろこび

Sachaq・・・Joy that comes from playing
遊びに興じるよろこび

Tsahal・・・Joy in the success of someone else
他人を讃えるよろこび

Alats・・・Joy in victory
勝利のよろこび

Chadah・・・A re-joice. A renewal of joy
新たなものへのよろこび

Masows・・・Joy in being with friends or family
仲間、家族と共によろこぶこと


Ranah・・・Shouting for joy
大声を出してよろこぶこと

Gil・・・Joy expressed in spinning around in a circle
飛び跳ねるようなよろこび

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~文脈の中で理解する~

masowsは、旧約聖書の中で16か所でてきますが、そのうち、9か所がイザヤ書にあります。

Isaiah 8:6
Isaiah 24:8
Isaiah 24:11
Isaiah 32:13
Isaiah 32:14
Isaiah 60:15
Isaiah 62:5
Isaiah 65:18
Isaiah 66:10

Job 8:19
Psalms 48:2
Jeremiah 49:25
Lamentations 2:15
Lamentations 5:15
Ezekiel 24:25
Hosea 2:11


実際に masows がどのような文脈の中で使われているか、イザヤ書内の4箇所を取り上げてみます。英語の青い文字は『masows マソース』の訳語にあたるところです。

(1)Isaiah 24:8   New English Translation
The happy sound of the tambourines stops,
the revelry of those who celebrate comes to a halt,
the happy sound of the harp ceases.
祝いの席で伴奏される楽器の祝福に満ちた音色はもう聞こえないという意味で使われている。

(2)Isaiah 24:11   New English Translation
They howl in the streets because of what happened to the wine;
all joy turns to sorrow;
celebrations disappear from the earth.
この国に祝い事はなくなる。人が集いお祝いをすることはなくなるという意味で使われている。

(3)Isaiah 62:5   Easy-to-Read Version
As a young man takes a bride and she belongs to him,
so your land will belong to your children.
As a man is happy with his new wife,
so your God will be happy with you.
婚宴で、新郎新婦が共に喜ぶという意味で使われている。

(4)Isaiah 66:10   New English Translation
Be happy for Jerusalem
and rejoice with her, all you who love her!
Share in her great joy,
all you who have mourned over her!
エルサレムを慕う人たちが集まり、共に喜び祝うという意味で使われている。

(1)祝いの席で伴奏される楽器の祝福に満ちた音色はもう聞こえない
(2)この国に祝い事はなくなる
(3)婚宴で、新郎新婦が共に喜ぶ
(4)エルサレムを慕う人たちが集まり、共に喜び祝う

以上の個所から『masows』は、仲間が集まり共に祝うといった、社会的なシーンで使われることばだということが分かります。これがmasowsということばの輪郭になります。前述したChaim Bentorah Ministriesの『仲間、家族と共によろこぶこと』という解釈とも一致しています。単語の意味を調べる場合、必ず、文脈の中で理解すること、そして、単語の輪郭をつかむことが大切です。輪郭をつかむことができれば、8割がた理解できたようなものです。

次に、イザヤ書8章6節で masows が、どのような意味で使われているか見てみます。

6節を解釈するにあたり、4節の影響を受けていることに気が付かなくてはならないのですが、文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳とも、このことに気が付いてないようです。

イザヤ書8章4節の私訳
赤ん坊が『パパ、ママ』としゃべり始める前に、ダマスコとサマリヤの財産は、アッシリヤ軍によってことごとく奪われるだろう。

4節は『ダマスコと、サマリヤの滅亡』が書かれています。この4節と、続く6節『王レツィンと王ペカ』は、次のように呼応しています。

ダマスコ=王レツィンが住む都
サマリヤ=王ペカ(王レマルヤの息子)が住む都

4節は『王レツィンと王ペカの都が滅びる』という意味です。6節の文は、この4節を受け『(ユダ族は)滅亡に向かう王レツィンと王ペカに masows した』と、展開させています。6節の原文解釈をする時、4節の内容も合わせて解釈しなくてはならないのです。このように前後の文を合わせて解釈することは、直訳主義を信条とする翻訳者にはできないことです。

翻訳は、輪郭の設定→細部の解釈→輪郭の再設定→細部の再解釈という作業を繰り返して訳文を練っていきます。単語カードの表を裏にひっくり返すような訳し方では、翻訳はできません。

ことばの言い換え
4節  →  6節
ダマスコ→王レツィン
サマリヤ→王ペカ(レマルヤの息子)

このように、わざわざことばを言い換えているのは、同じことばを繰り返して使うことを嫌う、忌避の規則に因るものでしょう。同じ意味のことを、違うことばで言い換えている箇所が、ヘブライ語聖書のいたる所で見られます。ヘブライ語には、同じことばを直近の文で繰り返すことを嫌う、忌避の規則があると理解します。また、ヘブライ語の『よろこぶ』を意味することばが沢山あるということも、忌避の規則に対処するため自然に語彙が増えた結果ではないかと思います。

6節の意味は『滅亡の道を行く、王レツィンと王ペカ。その記念すべき宴(うたげ)に、ユダ族が加わった』と皮肉をたっぷり込めて表現しています。イザヤはこうした意味を語っていたでしょうし、当時のヘブライ語ネイティブもこうした意味で理解していたはずです。


~ことばの対比~

6節の私訳
「ユダ族は、穏やかに流れるシロアハ水道の水に背を向け(mawas)、王レツィン、及び王レマルヤの息子が向かう滅びの道に 自ら足を踏み入れた(masows)。

ユダ族は・・・神のことばに 背を向けた mawas
そして
ユダ族は・・・王レツィンたちの 仲間に加わった masows

masowsは『仲間に加わり+共に祝う』という意味ですが、文脈により『祝う』というニュアンスが強くなる場合もあるでしょう。反対に『仲間に加わり』というニュアンスが強調される場合もあるでしょう。6節の中に『mawas 拒む』ということばが使われています。『mawas』と『masows』を対比させています。そうすることでmasowsは『仲間に加わった』というニュアンスが強調されています。

イザヤは『ユダよ、お前たちは、神のことばを拒み、滅びゆく王レツィンたちの仲間に加わったのか』と、ユダ族が取った行動の対比をしています。

私訳では『王レツィン、及び王レマルヤの息子が向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた。』としました。次のような疑問を持たれる方がいるかも知れません。『ヘブライ語の原文には、~が向かう滅びの道という言い回しがないのに、訳文で付け足しをしていいのか?』と。

ヘブライ語では、4節で『王レツィン、及び王レマルヤの息子が滅びる』という内容が語られています。6節は、4節の内容を受け、表現を展開させています。従って、6節は『(王レツィン、及び王レマルヤの息子が)向かう滅びの道』という意味になっています。

もし日本語訳で『(ユダ族は)王レツィン、及び王レマルヤの息子の仲間に加わった』と訳したらどうなるでしょう。読者は『ユダ族は、王レツィン、及び王レマルヤの息子と同盟を結んだ』と解釈するでしょう。それでは、ヘブライ語が語る内容と違います。直訳では、原文の意図を忠実に再現できません。6節のヘブライ語文は、ハイコンテクストになっているため『滅びに向かう』ということばが省略されています。日本語の訳文を作る場合『~が向かう滅びの道』という消された表現を再生させないと、原文と同じ意味の訳文ができないのです。ハイコンテクストについては『イザヤ書8章-6』で詳しく説明させていただいたので、こちらをお読みください。

また、次のような疑問を持つ方がいるかも知れません。『でも、King James Version 6節の訳文には、~が向かう滅びの道という表現がないじゃないか。それはどうしてなのか?』と。それは、ヘブライ語と英語には、同じことばの繰り返しを嫌う忌避の規則が共通しているからです。しかし、日本語にはそのような規則がありません。ヘブライ語、英語のネイティブであれば、忌避の規則によって、4節と6節に関連あることが理解できるので『~が向かう滅びの道』という表現を入れる必要はありません。日本語にはそうした規則がないため『~が向かう滅びの道』という表現を入れて訳文を作らざるを得ないのです。日本語訳聖書をみると、忌避の規則やコンテクストを考慮して訳文を作っているという形跡が見られません。それでは翻訳とはいえないと思います。

次に『masowsは、仲間に加わったという意味だと分かったけど、私訳では、自ら足を踏み入れたと変わっているのはどうして?』という疑問を持たれるかもしれません。漢文訓読法の影響 原文放棄で書かせていただきましたが、訳文産出の前に原文放棄という処理をしなくてはなりません。6節ヘブライ語の意味は『王レツィン、及び王レマルヤの息子は、やがて滅びに向かう。ユダ族は、その仲間入りをした』ということです。このような解説的文章を、訳文にするとダラダラとした文になります。それで、原文放棄という処理をするのですが、ヘブライ語では何を言いたいのか、そのイメージを頭の中で描きます。そのイメージに相応しい日本語の表現は『王レツィン、及び王レマルヤの息子が向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた』という文だと思うのです。この訳文は翻訳者によって違いが出てくると思いますが、きちんと原文の意味が反映されているか、日本語として理解できる自然な訳文になっているかがポイントだと思います。直訳主義では、原文放棄という処理をしないので、意味の通らない日本語になるのです。

Good morning は『おはようございます』という意味ですが、原文放棄をしているから、こういう訳が成立するのです。直訳では『良い朝』となってしまいます。すべての翻訳で原文放棄は必要です。


~韻をふむ~

語頭ma-と語尾-sが同じ発音となり、韻をふんでいます。

mawas 
masows ソー

このように、6節の文は、ヘブライ語の『mawas』と『masows』を使い、正反対の意味を対比させつつ、韻もふんでいるという表現形式になっています。

偶然なのか、意図されたことなのかどちらか分かりませんが、うまい具合にKing James Versionも同じ表現形式になっています。

・・・this people refuseth(拒む) the waters of Shiloah that go softly, and rejoice in(仲間に加わり) Rezin and Remaliah's son

refuseth(拒む)とrejoice in(仲間に加わる)ということばで、反対の意味を対比させ、語頭 re- で韻をふんでいます。


こうして、8章6節を次のように訳出しました。

イザヤ書8章6節 私訳

「ユダ族は、穏やかに流れるシロアハ水道の水に背を向け、王レツィン、及び王レマルヤの息子が向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた


日本語訳聖書は次の通りです。

新改訳
「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる

文語訳
この民はゆるやかに流るるシロアの水をすててレヂンとレマリヤの子とをよろこぶ

新共同訳
「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる

口語訳
「この民はゆるやかに流れるシロアの水を捨てて、レヂンとレマリヤの子の前に恐れくじける

新改訳と文語訳は『よろこぶ』という解釈ですが『masows=よろこぶ』という一語一訳的訳し方をしていて、masowsに『仲間に加わる』という意味があることを見落としています。また、4節の文と関わりがあることに気が付いていません。結果として、意味が通らない訳文になっています。

新共同訳と口語訳は、日本語として意味が通っていて、史実にも合致しています。しかし、問題だと思うのは、ヘブライ語が語る内容と、訳出された訳文の意味がかけ離れており、言語学上の解釈をおざなりにした超意訳になっていることです。『masows』を『くずおれる』『恐れくじける』と訳出していますが、masowsにこうした意味はありません。masowsは、イザヤ書の中で繰り返し使われることばですから、どのような意味で使われているか、それぞれの文を調べれば分かることです。

ことばには、その民族の文化が反映されるので、民族が違えばことばの意味も違ってきます。masows=よろこぶ といった単純な対応関係になりません。更に、文脈によりことばの意味も変化します。翻訳辞書でことばの意味を理解することは不十分であり、翻訳辞書に頼ることには落とし穴があるということを知っておくべきです。辞書を調べてもしっくりした訳語が見つからないときは、実際にそのことばが使われている文を幾つか拾い上げ、文脈からことばの輪郭をつかむことです。自分の先入観を捨て聞くことに集中すれば、原文が導きを与えてくれると思います。簡単に答えが見つからないこともありますが、そうした姿勢は大切だと思います。但し、十分に訓練されるということも欠かせません。

これから翻訳を志そうとする方には、是非、通訳の経験を積むことを勧めます。『聖書と翻訳』でイザヤ書8章1~10節の解釈をさせていただきました。それぞれ、なぜそのような解釈をしたか、納得して頂けるよう詳しく説明させていただいたつもりですが、誤解されないよう申し上げたいのは、こうした理屈を積み重ねて訳文を作っているのではないということです。私は、ヘブライ語を習ったことはありませんが、日本語訳、英訳、ヘブライ語にも目を通しています。それで、自然に訳文ができてしまいます。訳文の一字一句までできるということではないのですが、訳文の方向性がはっきりと見えてきます。考えたり、理屈をこねて訳文を作るのではなく、自然にできてしまいます。勘といってもいいでしょう。

ある外国語の勉強を始めて30年以上、その通訳に携わり20年以上なります。通訳の実務と同時に、言語学、異文化コミュニケーション、第二言語習得論などの勉強もしました。そうした勉強をするのも必要です。しかし、通訳の場合必要になるのは感覚です。翻訳と違い、同時通訳は瞬時に訳を作らなくてはなりません。辞書を引いたり、ネットで検索する時間はありません。瞬時に判断し訳出することの連続です。考えて理屈で訳すのではなく、感覚で訳ができるくらいまでスキルアップをしなければなりません。こうして身に付けた感覚は、どの言語を理解する時にも使うことができるようです。

翻訳の経験はないので、翻訳をされている方がどのように翻訳作業を行っているのか分かりませんが、私の場合、テキストを見ると自然に訳文が見えて来るといった感じになります。もちろん、すぐには分からないところもありますが、理屈をこねて無理やり訳文を作ることはしていません。分からなかった箇所が、何か月も経って、自然と訳文が頭に浮かぶこともあります。ブログで書いている解釈の仕方や根拠付けは、全てあと付けで書いていて、先に訳文ができています。

聖書翻訳に限ったことではありませんが、これから翻訳をやろうとする方には、是非、通訳の経験を積んでいただきたいと思います。こうした通訳の感覚を身に付けた上で、聖書翻訳に携わっていただきたいのです。できれば、現代ヘブライ語、現代ギリシャ語通訳の経験を経て、聖書翻訳に携わる、そのような方が起こされることを願います。

翻訳(通訳)をするには、ヘブライ語を学ぶだけでは不十分なんだな、翻訳(通訳)スキルというものを学ばないとダメなんだなということを知っていただきたいところです。忌避の規則、原文放棄、言語の恣意性、コンテクスト、単語の解釈の仕方、文脈の関連付けなどを、お話しさせていただきました。ここで取り上げたことは、一部に過ぎません。聞きなれないことばなので、難しいと感じる方もいるかも知れませんが、日本語の日常会話の中でも見られる、身近なことなので、本当は難しいことではありません。英語教育の中で、英→日、日→英の翻訳を教えているのですから、こうしたことも分かりやすく教えていただきたいものです。英語を勉強すれば、英語の翻訳ができると思われていますが、そうではなく、翻訳の仕方というものがあって、同時にそれも学ばなくてはならないのです。聖書の翻訳も同じで、ヘブライ語を学んだだけでは、翻訳できないんだということを理解してほしいところです。聖書翻訳に携わった方のヘブライ語の知識は専門家として申し分ないものだったことと思いますが、翻訳スキルがないため、単語の解釈を間違えたり、意味が分からない訳文、文脈に筋が通らなかったりしているということがうかがえます。




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