このところ、読書運動が盛んになってきた。
私の住んでいる区でも、小学校でも「朝の読書」が始まったようだ。
子どもに読書の機会を作るのは、大変素晴らしい取り組みですね。
ただ、子どもに読書をさせておいて、その間に先生が学級事務をやっている図はいただけませんが…。
さてこのところの私の読書は、山本夏彦の随筆集(数冊)です。
山本夏彦は、繰り返し、シオランの箴言を紹介しています。
「我々はある国に住むのではない、ある国語に住むのだ、祖国とは国語だ。それ以外の何ものでもない」
エミール・シオランは、ルーマニアの作家・思想家だそうだ。
昨日、『文藝春秋』2011新年特別号を購入してきました。
英語より「論語」藤原正彦&宮城谷昌光 を読みたかったからです。
お二人は、「国語」を大事にしている方で、サブタイトルは次の通りであります。
「英語の公用語化で企業はつぶれる。日本人が依るべきは、中国の古典にあり」
そうそう、先週に読んだ一冊を思い出しました。
『石に言葉を教える』 壊れる日本人への処方箋
柳田 邦男著 新潮社
柳田の言葉。
「石に言葉を教える。子どもたちにそういう時間を与える学校あるいは教師よ出でよ。
山川草木・花鳥風月の対象に、痛みの感情を持たせた俳句を詠むのを習慣化させるような授業をする教師は出てこないか。」
「石に言葉を教える」のまとめの言葉です。
ぜひ、教育現場の先生には読んでもらいたい一冊。
感性があって、理性がない。
感想を述べるが、理想を語らない。
現実の内容はあるが、考え (非現実) の内容はない。
事実は受け入れるが、真理は受け入れない。
実学 (技術) は盛んであるが、哲学は難しい。
実社会の修復はあるが、理想社会の建設はない。
現実の世界は信頼するが、非現実の世界は信じない。
現実の内容を再現すれば、それは模倣である。
考え (非現実) の内容を実現 (現実化) すれば、それは創造である。
模倣力はあるが、創造力がない。
「今ある姿」を語るが、「あるべき姿」は語らない。
私語・小言は好むが、公言・宣言は好まない。
歌詠みは多いが、哲学者は少ない。
丸暗記・受け売りの勉強はあるが、考える力・生きる力がない。
学歴はあるが、教養はない。
序列判断はあるが、理性判断はできない。
学歴は序列判断の為にあるが、教養は理性判断の為にある。
学歴社会というのは、序列社会の言い換えにすぎない。
序列順位の低いことが恥と考えられている。サムライ社会のようなものか。
理性がなくても「恥を知れ」(Shame on you!) と叱責を受けることのない恥の文化が存在する。
民の声を代弁する議員は多いが、政治哲学はない。
総論 (目的) には賛成するが、各論 (その手段) には反対する。
理想 (非現実) は、現実に合わないと言って受け付けない。
現実の内容を根拠にして、理想を捨てる。
意見は個人個人で異なる。だが、小異を挙げて、大同を捨てる。
恣意 (私意・我儘・身勝手) が有って、意思がない。
恣意の力 (大和魂) に期待をかけるが、意思の力は認めない。
意思決定は困難を極め、多大な時間を浪費する。
「個人の意見は通らない」と言うが、個人を選出する意味が理解できていない。
意思があれば、手段がある。意思がなければ、手段はない。
この国には、何でもあるが、ただ一つ夢 (希望) がない。
この国には、現実はあるが、非現実がない。
日本語には現実構文の内容だけがある。日本語脳は、片輪走行である。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
添付のアドレスからホームページを訪問させてもらいました。
大量な記事なので、簡単には読めません。
ボチボチと読ませていただきます。
小学校2年生の時の「レミゼラブル」、5.6年の時の俳句。良い先生との出会いでしたね。
廣澤さんのコメントの最後の部分、「ドキッ」としました。
お二人の先生は、「運動」?なかでなく、「自然(ジネン)」だったのでしょうね。
学校の先生の自然ににじむお人柄・実践、それが大事ですね。
大事なことは、「目に見る」ことよりも「目に見えない」ところなんですね。