午前中、週一回のテニス・スクールにに出かけました。
一応、上級コースでプレーします。
マアマア後期高齢者ではありますが、
13名のメンバーには迷惑をかけない程度には動けていますよ。(笑)
テニスの後、14時~16時、
千葉市民会館で開催された若松英輔さんの講演会に出かけました。
Zoomのお仲間の千葉市在住の小◇さんのお誘い。
岩◇さん、森◇さんもご参加してくれまいた。
演題は、
「生きがい」は作るものでなく、発見するもの
ー神谷美恵子『生きがいについて』を読む
前半の1時間は、
若松さんがA-4用紙に5枚にまとめた神谷美恵子さんの言葉を読解&解説&味読についての講演。
後半の1時間は、質疑応答
若松さんの一方的な講演ではなく、会場の皆さんとの呼応の関係を大事にしてくれた姿勢に好感を覚えました。
実は、先週のZoom法音道場で『唯信抄文意』を学んだところですが、
親鸞さまは、『文意』で、
五会法事讃の
「如来尊号甚分明 十方世界普流行
但有称名皆得往 観音勢至自来迎」
を分かり易く解説してくれています。
で、「迎」については、
「《迎》というは、むかえたまうという、まつというこころなり」
と記しています。
今日の講演でも若松さんは、神谷美恵子さんの次の言葉を紹介して、
「待つ」ことの創造性と積極性をお話してくれました。
配布の資料から、神谷さんの言葉は記しますね。
「詩への使命といっても、めくらの身でどうして果たせようか。
その苦悩にみちた問いが、
〈ミルトンの〉あの有名な失明についての十四行詩である。
その最後の句
「ただ立ちて待つ者もまたつかえ(仕え)まつるなり」は、
決して消極的な姿勢ではない。
待つというのは未来へ向かっている姿勢である。
向きさへ、あるべき方向に向かっていればよい。
ミルトンのすべての大作は失明にもかかわらず
ー否、むしろ失明ゆえにー
次々にうみ出されて行った。
孤独と苦渋にみちた現実の生活のなかからうまれたものであったが、
そこには、あふれ出る大河のようなおもむきがみられる」
ボクにとって「待つ」のならいはじめは、
半世紀前のカウンセリングとの出会いの頃でした。