【九里一族】に出会う旅に出かけよう!

姉妹編【九里】を探して三千里 http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori

醍醐源氏 信濃小路系図 と その周辺(メモ)その2.

2018-02-15 14:36:38 | 雑記

【源季兼】を中心に、周囲を調べてみようと思う。
信濃小路(九条家諸大夫)の系図を貼っておく。


国立歴史民俗博物館研究報告, 第 104 号によると、

『信濃小路氏中世前期以来、家司(家僕)として家門との主従関係が強かった醍醐源氏の後裔である。
侍身分の家僕 石井氏東九条御領下司職を相伝する。
室町期より家僕として台頭し唐橋氏とも関係があり「石井三家」に分かれて勢力を伸ばした。

矢野氏.小原氏ともに東九条御領(境内)周辺に所領を持つ勢力。
矢野氏も複数の家に分かれていた。
矢野氏は東九条御領の公文と思われ、室町中期ごろより、小原氏は戦国期(政基期)より家僕としての活動がみえる。
その他「政基公旅引付」に山田,長法寺,馬場.塩野.…』
『唐橋.信濃小路.冨小路,石井氏は家僕の中核的存在として九条家の下にとどまつた。
石井氏を除くといずれの家名も九条亭をとりまく東九条の地名に由来する家僕たちである。
唐橋氏は白川氏(神祇伯家) ,竹原氏,橘氏にも養子,猶子を入れ、彼ら(白川富秀,竹原定雄,橘以緒)も家僕に名を連ねた。』googlebooksより

またweb情報としては、次のようなことが書かれていた。
 『九条家諸大夫の信濃小路家。系図としては醍醐源氏盛明親王流とされていますが、江戸初期の宗増の代で橘氏に改姓しています。』
wikipediaでは、
『江戸時代に入ると、元和6年(1620年)九条家の諸大夫であった信濃小路宗増が関白・九条幸家の命令により醍醐源氏から橘氏に改姓し、信濃小路家が橘氏の嫡流とされた。』

季兼の息をもう一人見つけた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/源季広

季兼ー季広ー長俊 となる。

上記のwikipediaよりだが、
季広が藤原定家と同じ兼実の家司であった可能性があるそうだ。

【季兼】の母親は、高階章行の娘である可能性も半分はあるようだ。あとの半分は陸奥守藤原朝元である。藤原実方の息だそうだ。実方は姉か妹に「鈴木重室」に嫁いだ人がいる。






醍醐源氏 信濃小路系図 と その周辺(メモ)

2018-02-12 11:16:38 | 雑記
前回わかったことをまとめつつ、新たな私的発見を書いていこう。

前回、季兼の祖父「清長」の母親が、近江国佐々木氏の「源扶義」の弟 源雅通娘であることがわかった。
系図としては、清長ー俊兼ー季兼ー季長・頼暹
となる。

一方、季兼の妻が藤原資長の娘(日野流)であること、その息が「藤原兼光」(姉小路)が近江権守であったこと。
藤原資長(日野入道)は日野実行の次男であり、母は高階重仲の娘であった。そして高階栄子とも時代が重なっている。

なお、資長の長男は「資憲」(蔵人・勘解由次官) 二男が「資長」である。

季兼のコトバンクを読むと、「平安末期の官人。父は土佐守源俊兼。摂関家の藤原忠通に仕えて,石見守から木工権頭を経るなかで摂関家の政所の経営に尽くす。
一方,能登国の500町におよぶ大荘園の若山荘を忠通の娘皇嘉門院に寄進したが,これはのちに九条家に伝えられ,季兼の子季長が九条家に仕えるようになり,以後,子孫は九条家に仕えるようになる。<参考文献>五味文彦『院政期社会の研究』 」とある。能登若山庄を寄進した先の「皇嘉門院」であり、崇徳天皇の中宮となる。


能登国の荘園の領家職が日野資長の子孫に伝わり、九条家の家司の方は源季兼の子孫の方に伝わっていった。

…とそこで、源季長を調べていくと、意外なことに突き当たった。
(源季長…九条家の家司のみならず、伊予守・太皇太皇亮兼伊予守を務めている。)

この季長だが、同時代に「中原宗房」の息にも同じ名前の人物がいた。
しかも、この宇都宮氏は【藤原北家道兼流宇都宮氏】で、まさに「藤原北家九条流」で、関係がありそうに思える。(安易だろうか?)



そして、(日野資長の息=)兼光の息には「資実」「広橋頼資」がいる。

この広橋勘解由経光(頼資の息)は、中原景経と関係がある。ここで九里氏との関係もあった可能性が高まるように思える。


この中原景経こそ、九里の祖(九里太郎蓮忍入道)の伯父となる人物で、近江国伊香郡 富永庄の勾当だったのである。



http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/富永庄



久能利(くのり)氏も九里氏(くのり)?

2018-01-14 21:49:34 | 雑記

久能利(くのり)氏も九里氏の一族なのであろうか?

【中世の奥能登の荘園・若山荘】の中に出てきた久能利氏
http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/WakayamaPrivateLand.htm

久乃利氏は九ノ里を本拠地としてともに、久乃利殿の知行地として「久乃利」「立壁」「半人注文写(猪橋文書)には遊佐氏の知行地と記す「赤崎」と略)久能利百余貫也」とある。
(googlebooksのため、なんだか意味が不明だが、能登に居た証にはなると思う。久能利氏の後、遊佐氏が知行をし、赤崎という名にあらためたということであろうか。

http://nanao.sakura.ne.jp/matsunami/matsunami.html
能登半島の先端珠洲郡の大半は中世には若山庄と呼ばれる荘園が占めていた。この若山庄の荘園領主は京都の公家である日野氏であった。京都から遠く離れたこの若山庄の経営は現地荘官が行っていた。つまり日野氏の現地における被官と言える者に松波氏、本庄(本城)氏、久能利氏、山方(山形)氏の四氏がおり、徐々に本庄氏が台頭してきた。

奥能登珠洲郡の若山庄に荘園領主である公家・日野家家臣に、松波氏、本庄(本城)氏、久能利氏、山方(山形)氏の四氏がいた。南北朝時代から家臣としてみえ、その中でも松波氏は、1200貫の知行を持ち、最も有力とされる家柄であった。それゆえ、その出自は鎌倉後期、日野頼宣の子・忠俊が日野家庶流の松波氏の始祖となったとする説がある。また松波氏は藤原斉藤氏の一族とも言われる。

~~~*~~~

ココで、私が注目したのは「日野氏」とのつながりであった。
日野氏が珠洲郡若山庄の領主となったいきさつには、上記のwebにもあるように、「源季兼」との婚姻関係である。
源季兼という人物はコトバンクによると「醍醐(だいご)源氏,源俊兼の子。石見守(いわみのかみ),木工権頭(もくのごんのかみ)となり,正四位下にいたる。康治(こうじ)2年(1143)父から伝領した能登(のと)(石川県)若山荘を皇嘉門院に寄進し,領家職を確保。のち荘園本家は九条家に,領家職は季兼の娘婿となった日野資長の子孫につたえられた。」
「平安末期の官人。父は土佐守源俊兼。摂関家の藤原忠通に仕えて,石見守から木工権頭を経るなかで摂関家の政所の経営に尽くす。一方,能登国の500町におよぶ大荘園の若山荘を忠通の娘皇嘉門院に寄進したが,これはのちに九条家に伝えられ,季兼の子季長が九条家に仕えるようになり,以後,子孫は九条家に仕えるようになる。<参考文献>五味文彦『院政期社会の研究』 」ということである。


季兼の周辺の系図を貼ると、(ここに後に橘氏に改姓とある。)信濃小路(九条家諸大夫)


父の俊兼


祖父の清長(母親が宇多源氏で近江国佐々木氏の先祖である「源扶義」の弟 雅通の娘


久能利氏や久乃利氏も、南北朝以降のことなのであろうか?