若狭の本郷氏の出自を調べている。
村上源氏の「源広綱(摂津守)は1108年に卒す」と文書にある。
そこで、
もう一人の源広綱(頼政の息・清和源氏嫡流 摂津源氏)をwikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%BA%83%E7%B6%B1
こちらの広綱は本来は源三位頼政の息であるが、同じく頼政の息、長兄である仲綱に養子に入っている。
つまり兄の子になったのである。それだけ年も離れていたのであろう。
摂津源氏である頼政の息であれば、鎌倉幕府ができる以前から頼朝を支えていたのではないだろうか?
以仁王と頼政が挙兵した際、仲綱は頼政と共に居り、広綱は仲綱の次男と共に伊豆で挙兵した鎌倉の源頼朝の傘下で平氏追討軍に参加したそうである。
美作朝親がこの系の広綱の息であるならば、「広綱の子孫は太田氏として繁栄」とwikipediaにあるので、太田氏と関係があることになる。(次の記事で明らかになる)
そして頼政の室に「源斉頼」の娘がいて、仲綱・二条院讃岐の母となっている。
その二条院讃岐は藤原重頼の妻となり、藤原重光・有頼の母となり、またwikipediaによると「没年は不明であるが、出家し「讃岐尼」と称された妻・源頼政女が文暦2年(1235年)以前に若狭国宮川保の地頭となっていることが確認されている(『秦文書三号』)。」
ココで若狭国とのつながりが出てくる。重頼自身も先に「若狭国遠敷郡松永・宮川両保(福井県小浜市北東部)の地頭となっていたようである。後で確認したいと思う。
斉頼の系より善積氏が出ているということは、近江和田氏ともつながっているということになる。善積惟忠が和田氏に入っているためである。
この和田氏は甲賀を中心に活躍していた氏で、甲賀21家の一つである。佐々木六角氏に仕えていたそうで、キリシタン武将でもある。
http://www.ikedaya.com/ikedatown/family_pre/16a.html
村上源氏の「源広綱(摂津守)は1108年に卒す」と文書にある。
そこで、
もう一人の源広綱(頼政の息・清和源氏嫡流 摂津源氏)をwikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%BA%83%E7%B6%B1
こちらの広綱は本来は源三位頼政の息であるが、同じく頼政の息、長兄である仲綱に養子に入っている。
つまり兄の子になったのである。それだけ年も離れていたのであろう。
摂津源氏である頼政の息であれば、鎌倉幕府ができる以前から頼朝を支えていたのではないだろうか?
以仁王と頼政が挙兵した際、仲綱は頼政と共に居り、広綱は仲綱の次男と共に伊豆で挙兵した鎌倉の源頼朝の傘下で平氏追討軍に参加したそうである。
美作朝親がこの系の広綱の息であるならば、「広綱の子孫は太田氏として繁栄」とwikipediaにあるので、太田氏と関係があることになる。(次の記事で明らかになる)
そして頼政の室に「源斉頼」の娘がいて、仲綱・二条院讃岐の母となっている。
その二条院讃岐は藤原重頼の妻となり、藤原重光・有頼の母となり、またwikipediaによると「没年は不明であるが、出家し「讃岐尼」と称された妻・源頼政女が文暦2年(1235年)以前に若狭国宮川保の地頭となっていることが確認されている(『秦文書三号』)。」
ココで若狭国とのつながりが出てくる。重頼自身も先に「若狭国遠敷郡松永・宮川両保(福井県小浜市北東部)の地頭となっていたようである。後で確認したいと思う。
斉頼の系より善積氏が出ているということは、近江和田氏ともつながっているということになる。善積惟忠が和田氏に入っているためである。
この和田氏は甲賀を中心に活躍していた氏で、甲賀21家の一つである。佐々木六角氏に仕えていたそうで、キリシタン武将でもある。
http://www.ikedaya.com/ikedatown/family_pre/16a.html