九里 【九里】を探して三千里

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久徳五箇荘 山科家 山中氏

2019-11-17 | 雑記

この久徳五箇荘と山科家、山中氏が関係してくるようである。

歴博のDBに以下のようにあった。

文明3山科家領、不知行・二木郷=正中2地頭山中重綱=『山科家礼記』文明3山科家領=『久守記』長享2山科殿御家領濃州二木郷革手郡各領家方=久徳5ヶ庄等を山科言国に還付

これの意味するところは??

二木郷革手郡各領家方=久徳五箇荘 全部で5つの庄が久徳周辺にあった…という事なのだろうか?
其の地頭を山中重綱が勤めていた。しばらくは山科家の家領であったが関与していなかったか、出来なかった。
しかし長享二年(1488年)山科言国に領家として権利が行使できるように戻った‥‥と言うような意味だろうか?


さらに
久徳郷=久得とも、瀞里輪中、杭瀬川右岸=建久3高階栄子→子冷泉教成→孫教房室円道尼→子教頼=山科家領
【備考】  『教言卿記』応永17,正,晦「尼寺庄内久得、得満、塩田、西神、武方」とあり・→2206010「尼寺庄」参照

荘園志料=なし・角川地名(大垣市)=不破郡、杭瀬川右岸の平坦地=国分尼寺とその所領が庄園化した=後白河  妃高階栄子知行→冷泉資成、教頼の家領相
【備考】  『地名辞典』追加:→山科教行領→文明に不知行・文明12山科家礼記=山科家領不知行所々に久徳五箇庄、武方郷、西神護寺郷、青柳庄あり=尼寺庄は解体している・当庄神護寺郷を青柳庄という・→2204004「青柳庄」参照・→2206001「久徳庄」参照・→2099026「左寺庄」参照

山科家は前述の「山科家礼記」のほか、山科言継(やましな ときつぐ)の『言継卿記』が有名と思う。
wikipediaによると、
医業を内職としており、近隣の庶民から依頼を受けると診療を行い、内服薬や火傷の塗薬を調合して与えている、とあった。

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