コトバンクには松虫・鈴虫の二人のことが書かれていた。
後鳥羽上皇の二人の女房。1207年,法然の弟子の住蓮・安楽は密通事件を起こして死罪,法然は四国流罪となった(建永の法難)が,その相手の女房の伝承上の名前。1675年刊の《難波名所葦分船》に松虫塚を載せ,1851年刊の《日本往生伝和解》は二人の年齢を19歳,17歳と記す。これらでは密通は否定され,出家したことが後鳥羽上皇の逆鱗(げきりん)に触れたとする。京都東山の鹿ヶ谷(ししがたに)の草庵跡に建立された安楽寺には木像や縁起絵が残る。また広島県生口島(いくちじま)の光明坊の寺伝では,後白河法皇の皇女如念尼が松虫・鈴虫という二人の侍女を伴に寓居したと伝えている。
国会図書館の復刻版が有りました。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1246155
葦分けて進む舟にもみをつくし
難波にもその名が響く松虫の塚
範頼の子供は、比企尼の嘆願により生き残ったとWikipediaに有りました。
比企尼役の草笛光子さんの名演技でしたね。
もはや諌める事ができるのは、比企尼しかいなかったと言う事ですね。
あんなに兄思いの働き者は、なかなか居ないのに、残念です。
丹後局、迫力満点で観ていた私も緊張しました!笑