九里 【九里】を探して三千里

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倉栖氏 金田氏 そして 吉田兼好(卜部兼好)

2019-07-12 | 雑記

吉田兼好
よしだけんこう
生没年不詳
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歌人・随筆家・遁世者。本名、卜部兼好(うらべのかねよし)。

『尊卑分脈』によれば、卜部家は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の子孫で、神祇官として代々朝廷に仕えたが、平安時代中期の兼延の時に、一条院から御名の懐仁(かねひと)の「懐」と通ずる「兼」の字を賜わってからは、それを系字として代々名乗るようになった。

そして、兼名に至って、卜部家の本流から分かれて支流となり、朝廷の官吏となったが、兼好は兼名の孫にあたり、長兄に天台宗の大僧正慈遍、次兄に民部大輔兼雄がいた(卜部家が吉田と称するようになったのは、室町時代の兼熙(かねひろ)からであって、吉田兼好という呼称は、鎌倉時代・南北朝時代のいかなる史料にも全くみえず、また、卜部家の本流の姓をさかのぼって支流の出である兼好にまで及ぼす必要もない。したがって、江戸時代に捏造された「吉田兼好」という俗称は学問的には否定されるべきである)。

なお、林瑞栄により、兼好は武蔵国金沢(かねざわ)家の御内伺候人の子弟であり、したがって関東の生まれであること、『金沢文庫古文書』中にみえる倉栖兼雄は兼好の兄であることなどが主張されている(『兼好発掘』)。

風巻景次郎は、成長した兼好が久我家(こがけ)の家司(けいし)を勤めたことを推定している。

その後、朝廷に仕え、官は蔵人を経て左兵衛佐に至っているが、仕官中、大覚寺統の歌道師範たる二条為世について和歌を学び、多くの公卿・廷臣に接して、有職故実の知識を得、また、恋愛をも経験している。

しかし、彼の内に熟して来た出家・遁世の意志は、『大徳寺文書』によると、正和二年(一三一三)九月には、六条三位家から水田一町を九十貫文で買い取った田地売券のなかに、すでに「兼好御房」とみえているので、この時までに実現していたものと推定される。

『兼好法師家集』のなかに、「さても猶(なほ)世を卯(う)の花のかげなれや遁(のが)れて入りし小野(をの)の山里」の一首があることによって、遁世後、居住した所が京都の東郊、山城国山科小野荘の地(京都市山科区山科)であることがわかり、そこは、六条三位家から買い取った水田一町の所在地でもある。

彼は退職宮廷官吏としての経済的地盤をそこに置いたものといえよう。小野荘において、彼は『徒然草』の第一部(第三十二段まで)を元応元年(一三一九)に執筆し、勅撰の『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』、私撰の『続現葉和歌集』に入集し、二条派の歌人として世に認められているし、二度も関東に下り、鎌倉および金沢(横浜市金沢区)に住んでいる。

『金沢文庫古文書』には、兼好自筆の幾つかの文書や関係史料がみいだされる。元弘の乱以後の時代に入ると、彼は北朝側に属して京にとどまり、『徒然草』の第二部(第三十三段から末尾まで)を元徳二年(一三三〇)から翌年にかけて執筆し、建武三年(一三三六)ごろから上・下二巻に編成して、その際、いくつかの段を補入・添加したらしい。

また頓阿(とんな)・浄弁(じょうべん)・慶運(きょううん)とともに、二条派の和歌四天王と呼ばれ、勅撰の『風雅和歌集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』、私撰の『藤葉(とうよう)和歌集』にそれぞれ入集し、二条派の歌学者・歌人として次第に世に認められるに至った。

康永三年(一三四四)に、足利尊氏が多くの人々に働きかけてまとめた『宝積経要品(ほうしゃくきょうようぼん)短冊和歌』の中に、和歌四天王のほかの三人とともに、五首を詠じて収められている。

また、『太平記』巻二一の「塩谷判官讒死事」の中に、塩谷判官の妻、顔世に横恋慕した、北朝の権力者で足利尊氏家の執事たる高武蔵守師直が、「兼好と云ひける、能書(のうじょ)の遁世者」に艶書の代作を命じた記事があり、洞院公賢(とういんきんかた)の日記『園太暦(えんたいりゃく)』には、二度、兼好来訪の記事があって、「和歌ノ数寄者(すきもの)也」と書いているので、歌人・能書家・有職故実家として世に認められていたことが推定される。

また、観応三年(一三五二)には、二条良基作の『後普光園院殿御百首』に合点(がってん)を付しているので、このごろまで生存していたことがわかる。没年月・没処が不明なのは、京都以外の地で世を去ったためと思われる。

著作には、建武三年ごろ、現在の形のごとくまとめられた随筆『徒然草』二巻と、『風雅和歌集』(貞和四年(一三四八)成立)撰進のための資料として集成した、自筆の『兼好法師家集』一巻(尊経閣文庫蔵)がある。公武の対立する時代の動きに対して、時勢に随順して生きた文化人たるところに、しかも、公武のそれぞれに批判的であることによって、二つのものの止揚・統一を『徒然草』の中にめざしているところに、彼の中世人としての真面目が見いだせる。→兼好法師家集(けんこうほうしかしゅう),→徒然草(つれづれぐさ)
[参考文献]
『大日本史料』六ノ一三 観応元年四月八日条、安良岡康作『徒然草全注釈』(『日本古典評釈・全注釈叢書』)、西尾実『つれづれ草文学の世界』、冨倉徳次郎『卜部兼好』(『人物叢書』一一五)、風巻景次郎「家司兼好の社会圏」(『風巻景次郎全集』八所収)
(安良岡 康作)

===*===

ここに出てくる【倉栖氏】が下河辺荘と関連があって、その後金田氏の配下に入る。
下河辺政義の子時員が野本基員の養子となって野本能登守時員を名のった。
常陸大枝郷は先祖下河辺政義が治承七年勲功の賞として拝領している。

「八坂神社記録」に倉栖氏が下河辺庄の年貢を納めるために上洛したことが見えることから、倉栖氏の本拠地は下河辺庄のようである。

千葉の歴史 通史編によると「金沢氏被官の倉栖氏は貞顕の右筆だった。」とある。
金沢貞顕のことと思われる。

さて、卜部家と吉田家のことであるが、上記の説(JLOGOS)とは違うのだが、
それ以前にも養子縁組はあったという系図を見つけている。

系図には卜部家から吉田家に養子に入った人がいる。

卜部兼豊

生没年:1305-1376
父:神祇権大副 卜部兼夏
号:冷泉
正四位上
神祇大副
刑部卿
妻:
1348-1402 吉田兼熙(吉田家へ)
兼繁

そのために兼好も後世に「吉田」と付けられたのかもしれない。
しかし、それ以前にも養子縁組等はあった。↓


卜部兼忠

生没年:
父:神祇伯 卜部兼延
正四位下
神祇大副
左衛門佐
妻:
兼親(吉田系へ)
兼国(平野系へ)

このほかにも事例はあるかもしれないが、ここで二手に分かれていて、一方は藤井氏につながっていくのである。

また、白川家ともつながりがある。

仲資王 

生没年:1157-1222
父:神祇伯 顕広王
初名:顕順
1161 従五位下
1173 従五位上
1176-1198 神祇伯
1179 播磨権守
1181 正五位下
1182 従四位下
1182 従四位上
1184 正四位下
1190 従三位
1199-1200 大皇太后宮権大夫
1205 正三位
1207 兵部卿
1207 出家
妻:(父:近江守 卜部基仲
資家王
1184-1224 業資王(業資流へ)
1191-? 資宗王(資宗流へ)
覚印
仲舜
俊尊
広子女王
業子女王
寧子女王

===*===

以前この基仲(蓮浄)の孫が蓮乗として、このブログ記事に登場している。
今また、思い起こして組み立てている。


https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%93%AE%E4%B9%97






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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-07-25 07:18:59
とっても大事な事書いてありますね!
そうなんですよね、そこが大事。
一回は意識せずでも複数なら策にも癖にもなり兼ねない。

もっと昔でのこの前調べていたらなんと下の名前も違っていたのに合わせていた藤原さんがいたんですよ。そんな頃は同じような字がひっくり返ってたりまた全く同じで名字が複数だったり源氏でも分からなくなってしまうんで避けていたんですけど、行動の履歴や人からの評判に強調(良すぎても悪すぎても)があるかないか?でも文献情報でも見えてくるようになりました。
人間の先祖はそれぞれ役割があってそれを継承するならばその氏族への供養も敬意も相当必要なはずです。例えばお墓の形や各文化の作法などは敬意があったらまず先祖からの知恵や災難除けも知識もあるでしょうから変更は出来ません。そう思うと天児屋根命さんもいいヒントになりそうですね。神の中でもメジャーでもありそうだけどちょっと裏で全く関わらない人は関わらない所が気になりますね。以前奈良へ行った時に春日の神さんへ忖度なしで日本をいい世に導いて欲しいとお願いしてきました。その一柱ですし、念の為その大元と由緒には書かれている枚岡神社にも行って大吉貰っています。小屋根さんは、個人的には馬の乗りこなしや武道や剣術等で神に教えている伝説もありますので、こちらに関係する一族とも神の時代に関わっている可能性は十分あると思いますよ。風っぽく思ってます。源氏にも関わるはずで、多分神道に近いはず、私は仏系少し入ってるんですけど。小なんて付いてますけど大だったりしてとは思っていますよ。
東京今地震きました。良い未来の為いい動きしてほしい神さんですね。

あともう一個タイミングがバッチリで調べていた事あるのですがこれはまた後日関連してきたらお知らせいたします。
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