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倉栖兼雄 野本氏との関係

2019-07-12 | 雑記

倉栖兼雄 コトバンクより
くらす-かねお
?-1318 鎌倉時代の武士。
執権金沢貞顕(かねざわ-さだあき)に右筆(ゆうひつ)としてつかえる。文保(ぶんぽ)元年には下総(しもうさ)下河辺荘(しもこうべのしょう)築地郷の地頭職についていた。文保2年5月死去。通称は掃部助(かもんのすけ)。

倉栖兼雄
没年:文保2.5(1318)
生年:生年不詳
鎌倉後期の武将。金沢貞顕の祗候人で右筆・執事。掃部助。顕時・貞顕2代に仕え,詩酒を愛し書画に優れ白楽天を敬愛した。

貞顕の六波羅探題時代の書状は,兼雄と向山景定が右筆として認めたものが大半で,兼雄の書状は世尊寺流の典雅なものである。

陰陽道・宿曜道に通じ,嘉元3(1305)年の北条時村・宗方の暗殺の際は,動揺する貞顕を静めるため泰山府君の祈祷を依頼している。兼雄は卜部兼好の兄とする説もあるが,官位が合わず別人と考えられる。

下総国下河辺荘に所領を与えられ,一族は北条氏滅亡後も継続して知行しており北朝方の高師直の軍勢に加わり行動している。

<参考文献>林瑞栄『兼好発掘』,前田元重「武家の文化」(『神奈川県史/各論編3/文化』),福島金治「金沢北条氏の被官について」(『金沢文庫研究』277号),網野善彦「倉栖氏と兼好」(『文学』1984年7号)

(福島金治)

===*===

さらに野本氏と笠原氏との関係も。埼玉苗字辞典より

信濃国の笠原氏 風土記稿埼玉郡笠原村(鴻巣市)条に「東鑑に笠原六郎、笠原十郎左衛門尉親景など、いづれも当国の人と聞ゆれば、則ち爰に住して、在名を名乗しにや」と。是は誤りで、信濃国高井郡笠原村(中野市)より起る。源平盛衰記に信濃国住人笠原平五頼直と見ゆ。吾妻鑑卷一に「治承四年九月七日、爰に平家の方人に笠原平五頼直なる者あり、今日軍士を相具し、木曽を襲はんと疑す云々」。吉川英治本・新平家物語に「木曽義仲は旗挙げの第一戦を、長野平の市野原に賭けた。敵は平家党の笠原平五頼直の大軍だった」とあり。また、平家物語に「北条四郎時政、甥の北条平六時貞上洛す。平六が婿の笠原の十郎国久等天王寺に発向す」。延慶本に信乃国の住人笠原十郎国久と見ゆ。吾妻鑑卷十に笠原高六。卷十一に笠原十郎。卷十五に笠原六郎あり、信濃武士なり。信濃国笠原氏は、同国守護比企氏の配下となり姻戚関係を結ぶ。高井郡笠原郷の笠原信親證文目録に「文治元年信濃国御目代比企判官能員・被下之」とあり。吾妻鑑卷十七に「建仁三年九月二日、比企能員が婿笠原十郎左衛門尉親景等、比企一族は全員敗死す」と。愚管抄に「比企の判官能員、其外笠原の十郎左衛門親景、渋河の刑部兼忠など云者みなうたれぬ、ひきが子共、むこの児玉党など、ありあいたる者は皆うたれにけり、これは建仁三年九月二日の事なり」と見ゆ。親景の子は比企郡野本村(東松山市)の齋藤氏流野本氏の養子となる。尊卑分脈に「野本次郎時基(実笠原親景子)」と見ゆ。

この笠原氏が久伊豆神社や、押垂氏となって行く。
https://joukan.exblog.jp/22262267/
上記のブログ記事より

山門前に野本館として案内板が設置されている。

東松山市指定文化財
野本館跡
昭和49年7月10日指定
野本基員を初代とする野本一族の館跡です。野本氏は系図から平安時代の公卿藤原基経(836~891・堀川大臣)の家の警護をしていた片田基親の子息基員が武蔵国野本に移り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりと言われています。基員は源頼朝の信任の厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にも登場する人物です。(略)
館が造られた時期については、基員が貞観元年(1232)に亡くなっていること、また無量寿寺に残されている建長6年(1254)銘の銅鐘の拓本により、当時無量寿寺が野本寺といわれていたことなどから、遅くても13世紀の初め頃には館が造られていたと考えられています。
平成17年3月
東松山市教育委員会

案内板の貞観元年は貞永元年の誤記であろう。

この野本氏の支族が押垂に居住した押垂氏という。
「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」には次のように記されている。

押垂(おしだり)氏は、野本基員の子基時を始祖とし、押垂に居住したことから押垂氏と称し、鎌倉幕府の御家人として活躍しています。基時は、笠原親景の子で、野本基員の養子となった人物です。
市内上押垂・下押垂の地は都幾川の氾濫源である低地に立地しており、鎌倉時代に開発され押垂氏の所領となったと思われます。押垂氏の館跡は、都幾川の氾濫によって壊滅してしまったのか、現在のところ発見されていません。


新編武蔵風土記稿には次のように記されている。(意訳)

上押垂村 (略)上下の別れはなかったが、税務の沙汰上、享保3年に分村した。(略)
この村の古いことは伝わらず、(以下略)

泉蔵寺 天台宗、下青鳥村浄光寺の門徒である。薬王山正泉院と号す。本尊は薬師を安置。

下押垂村 (略)すべて上村と同じ。(略)家屋敷35、(以下略)

西福寺 天台宗、下青鳥村浄光寺末、押垂山来光院と号す。中興開山惠觀、正徳年中に没したといい、本尊阿弥陀を安置する。

===*===

こちらは川の氾濫によって壊滅してしまったのかもしれないそうで、野本氏の大津波と合わせて、水害によってダメージを受けている氏族なのである。

===*===

川越市史 史料編 によると
野本氏の先袓が院の北面などであった関係で、上洛の上、 ...
政義の妻は河越重頼の女であるから、野本氏を継いだに子がいなかつたので、一人は笠原親^の子を、一人は下河辺政義の子を養子とした。…とある。


清原・斎藤のほかに、橘氏・河越氏に関わっていると思う。
片田基親が祖の野本氏だが、その片田とは「堅田」であった。とか、何か近江国との関連はないだろうか?

この野本時員は、『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年 - 1230年)にも就任している。

時員の弟(同じく基員の養子)である時基(ときもと)は、押垂を名乗り押垂氏の祖となった。押垂は、現在の埼玉県東松山市の野本の隣の地名である。

野本氏は、藤原氏の末裔であり武蔵国の地名に由来するが、13世紀後半には武蔵国に関する記録からは忽然と消えてしまう。

しかし、五味文彦は、『吾妻鏡』における前述の野本斎藤基員の子の元服記事(建久4年(1193年))に着目し、時の権力者北条氏以外の御家人で元服記事が『吾妻鏡』に採用されているのは、『吾妻鏡』の編纂された時期に、野本氏が鎌倉幕府の中枢にいた『吾妻鏡』の編纂者と特別な関係にあったことを推定している。

編纂者の一人は三善氏と思う、また、清原氏もいたであろうと推測できる。

特別な関係、つまり昵懇の間柄であったとすると、

次男・叙用が斎宮頭となり、斎藤氏の祖となる。その孫の代では忠頼が加賀介となり、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、牧野氏の祖となり、加賀斎藤氏から堀氏、弘岡斎藤氏から富樫氏、林氏が出る。叙用の孫為時の家系からは吉田氏、前田氏、尚忠から吉原斎藤氏、河合斎藤氏、美濃斎藤氏が出たほか、重光から加藤氏、遠山氏が出る。また、一女は藤原秀郷の孫にあたる藤原文脩の室となり文行、兼光らの母となった。

利仁の後裔を称する氏族は多く仮冒は少ない。また秀郷と並んで藤原氏が武家社会に進出したことを象徴する人物と言える。

利仁は延喜年間に豪族の泰豊国の女婿となり敦賀に居館を構えた。

この秦氏
長谷川摂津大掾泰豊國のことだろうか?





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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-07-25 07:40:20
秦もややこしいですよ。ただ養子とっているなら女系では繋がる可能性はありますし、印象では途絶えていてもどこかで継承されている可能性は無限大です。

鴻巣も縁があると言えば縁がある場所です。

堅田私も近江と関係あると思いますよ。
神奈川と近江って昔からダイレクト(奈良や京都の都を通じなくても)も関わっているように思うんですよね。逆にいうと中央の都の人が知らなかったようにも。
武蔵の方も可能性あると思います。

そう思い出した笠の付く一族も追ってます。笠原いいですね、小笠原にも繋がるとサッカーファンとしても超嬉しいし、東北とあと伊豆にも接点出てきそうに思うんですよね。一番の気になる地名は笠縫って場所です。笠被った地蔵も大好きですね、近江ではキヌガサで繖の付くお寺のある山も多分関わるんではないかな?関東から近江の堅田に行くまでの中継地としても。栗東とも近いわけですし、近江源氏には大事な場所ですので一応お伝えしておきますね。源氏は海も得意ですけど天児屋命さんなら馬で陸路ありかも?金時山から西は文化違うって話も神奈川の方に聞いた事ありますけど太平洋沿岸ではなくそこから北上しているかも?秋葉あたりから諏訪の方には馬頭観音だか石仏のいっぱいある古代の道があった気がしますので。そこの氏族に絡むと静岡を解明しなくても見えてくる事がありそうに思います。静岡西から伊良湖方面は持統の頃から伊勢関係で地元の本来の神見えなくなってそうですので神奈川から近江は山経由で諏訪経由の方が辿れる可能性ありますよ、きっと。
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