しっかりと【清兼】が載っている奥羽御館系図があった。
こちらの佐藤清兼が「中河辺清兼」であった可能性もあると思う。
が、中原清兼と同一人物となるのだろうか?
佐藤氏の系図は(この上に貼った2つの系図もそうだが)、皆同じではなく違いがある為、どれを信じればよいかはわからないが、奥羽御館系図によって仮説を立ててみようと思う。
この清兼が中河辺を称したとすると、どこの河辺であろうか。
武蔵少掾であった清兼。河越荘内の河辺(川辺)庄かもしれないのだが、、、此処に新しい情報が入ってきた。
松田となった波多野義常の配下に【大中臣頼隆】がいたことを知った。
コトバンクによると
【永江頼隆 ?-? 平安後期-鎌倉時代の神職。
「吾妻鏡」によれば,伊勢神宮神職の子孫で大中臣を名のる。波多野義常からはなれ,治承(じしょう)4年(1180)挙兵した源頼朝にしたがい山木兼隆攻め,石橋山の戦いで戦勝祈願などをおこなったという。 】
「吾妻鏡」によれば,伊勢神宮神職の子孫で大中臣を名のる。波多野義常からはなれ,治承(じしょう)4年(1180)挙兵した源頼朝にしたがい山木兼隆攻め,石橋山の戦いで戦勝祈願などをおこなったという。 】
大中臣頼隆の息か娘聟が「中惟重」・「由利八郎惟平」であり、惟平は由利庄を賜わっている。
下記の地図によると20番が由利庄 そのすぐ北隣 25番に川辺庄がある。
佐藤清兼が大中臣氏の関係者として【川辺庄】を領していたとすると「中清兼」となり、中・河辺・清兼となっていた可能性もあるかもしれない。
野口実氏の論文内の地図による
此の大中臣は中原と称している者もいた。
現に「中惟重」は「中原惟重」として吾妻鑑に登場しているのである。
一番遠く、あり得ないかな?と思っていた出羽国の河辺郷であったかも…と思い、もう一度大中臣の系図を観た。
大中臣の略系図には所領の註があり、細かに描かれている。
大雑把にわかる部分だけを書いてみた。
相州 六浦庄 保元二年 実経〇之
武州 方屋木郡 実久 ○○四郎○○
常陸國 那珂西郷 一門面々
周東郡 〇〇
摂津國 葦屋庄 地頭公文〇職(兼職?)
丹波國 佐々岐庄下方号金山 那珂弥三郎五郎 等 令(?)知行之
同國 庵我庄 実久知行
播州 穂積庄 但し○○彦五郎○○
周防國 冨海保
尾張国 門間庄 飯高妻知行之
志摩國 和貝庄 那珂又太郎入道 子息 〇知行
依八条女院〇 山城國 称八開~~~?
阿智庄 大河原庄 小称八間 南称八間 山田南庄 菅谷草畠
駒寺 笠置寺
河内國 法禅寺
幷国分寺 那珂七郎経久○○知行之
筑後國 阿地坂庄内 稲吉郷 ~~?
奥州会津郡内 塚原 中三郎○○ 知行之
安芸國 奴田庄内 新羅郷 那珂藤井六郎 七郎 等知行之
同國 日高嶋
上野國 吾妻郡内 今里村 那珂彦五郎妻 知行之
越後國 三条庄 大槻庄 小河山
出羽國 雄勝郡西 アウナイ郷内 アサイ○○
阿波國 多〇保 新居郷
美濃國 〇飼庄(猪飼?)一分
この系図には頼隆も由利郷他も見当たらなかった。
渡辺滋 著 ↓ 紀氏と大中臣氏のつながりを示す系図もこちらより
様々な本では 那珂 金山経久(五郎三郎)がこの大中臣略系図を書いた主で、1309年に書かれた…とあるが、経久の曽祖父である実久が頼朝と重なる年代で、経久は曾孫の代となるため、1300年代までには至らないと思う。
頼朝と関わり始めてから没後の1199年~1207年までが活躍期である。
JLOGOSの那珂東郡
【 那珂東郡(中世)
「右大将家御代ニ常州那珂東西両郡此外数ケ所給之」と見え,那珂実久に与えられている(桐山文書)実久は源頼朝側近の有力御家人で頼朝死没直後正治元年正月上旬から承元3年まで京都守護職で,丹波・摂津・山城国の守護人でもあったという(同前)しかし,実久は北条氏と円滑な関係になく,同系図に「一 同(那珂)東郡〈今闕所〉」と見えるように,13世紀初頭当郡の地頭職は没収され,北条氏領となったと思われる一方,文治3年10月29日には奥郡に対して源頼朝家政所下文が発給され,「鹿嶋毎月御上日䉼籾」として当郡が13石9斗を負担することが定められている(吾妻鏡)】
1207年迄は生きていた人物と考えると、1309年に書かれた系図は102年後なのである。
実久が1199年に50歳で守護職を賜ったとしても1149年生まれとなり、1309年に系図を書いた時は160年後となるのである。
実久から三代経て経久で、一代25年としても75年。
1149年+75=1224年に経久が生まれるあたりとなる。
しかし、河守御荘の地頭となっていたのが1239年。
15歳で地頭はありえないのでは?と思うので、1209年位に生まれたかもしれない、と仮定する。
河守御荘の蓮忍入道(1239年)
因幡国富城郷の中太入道法名蓮忍(1250年前後)
金山保の大中臣那珂経久(1280年くらいか?)
1257年に83歳で歿した三崎庄の片岡氏の系図にある経久1174年生は大中臣氏の経久ではないことになる。別人!
因幡国の冨城中太入道蓮忍も片岡氏の可能性がある。
なぜならば1253年にはすでに高齢になっていると思われ、
その因幡冨城郷の相伝を富木常忍にしている書状が残されているからである。
丹波国 河守御荘は沙弥蓮忍である。
その後地頭識は尾藤氏となる。
やや、大中臣氏よりの立場だが、どちらかというと略系図の大中臣ではなく、伊勢神宮と関係する方ではないか?と思われる。(大中臣永江頼隆との関係)
大江(中原)久兼の所領が沙弥蓮忍に依り観音寺へ寄進されている。
此の久兼との関係は、沙弥蓮忍(経久)が近江国御家人の中原氏であることを思わせる。
金山保は河守御荘のすぐ近くである。
大中臣那珂経久である。
大中臣略系図には、経久の註に「蓮忍」の文字はない。
経久が系図を書いた主とすると、1280-90年位に系図を書いたと思われる。
整理しよう。
母の父 中河辺清兼
中原清兼は1147年に武蔵少掾となっている。
中原清兼は佐藤・後藤の系に存在し、その後その一族より尾藤氏がでてくる。
大江山城介久兼
主なる大江氏の系図には見られない名前だが、吾妻鑑人名総覧によると、大江久俊ー久兼となる。
その久兼の息は久家 孫は久康 となり、久康は中原景康(中原有安の養子)となった。
上記の中原景康は近江国御家人の系図内にいる景康ではないかと思う。
そこで、近江国の中原氏と大江久兼の一族とご縁ができる。
領主が久兼である丹波国河守御荘。その地頭職として中原経久を赴任させ、管理を託す。(相伝であった可能性もある)
その後、中原経久は因幡国在庁官人として赴き、冨城郷の地頭となる。(すぐ近くに岡益の碑がある。)
大江氏と中原氏はそれ以前よりかなり近い関係でもある。
大江広元が京よりやってきたのも、中原親能がいたからであろうと思うし、其の親能は秀郷流の中で育ってきた人物である。
近江の中原経久の父か祖父または叔父の久経もまた秀郷流の中で育っていたと思われる。
その関係から、鎌倉幕府とも大江氏とも近い。
さらに、松田義常の配下にいた伊勢神宮の大中臣氏。
義常の母は、清兼の娘であり、久経の母と姉妹である。
また、伊勢神宮の大中臣氏という事は、後に秀郷流の中から荒木田氏が輩出されるが、そことも密であろうと思われる。
久経の息か孫、または甥と思われる経久は鹿島神宮の片岡氏に入っていたかもしれず、そこに片岡常春がいたために、冷遇されていたようである。
1224年に執権北条泰時の時代となり、尾藤景綱(浄心)らも活躍しはじめる。片岡経久への冷遇も改善され、急に活躍しはじめる。
1239年沙弥蓮忍が丹波国河守御荘の地頭となり、その後因幡国の在庁官人・冨城郷地頭となり1500年代初頭に関東に戻ってくるのである。
1253年二月に経久は歿する。83歳
この人物が、九里太郎であった中原太郎経久、入道蓮忍 であろうと思う。
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佐藤中原清兼の秀郷流(佐藤・後藤・尾藤)(中原氏の河辺郷地頭=中河辺)
片岡常春の大中臣(鹿島神宮)…(ここが唐突だが、中原経任が養子となっていたか?)
山城介大江久兼
久兼孫の大江久康が近江国の中原景康の養子となる
景康は経久は同じ時代に活躍期。同じ系図内。
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九里氏は日野氏の被官としての活躍も見えるのだが、日野俊基の家司?後藤助光もまた、九里の和歌山系図の中の人物なのではないか?と思うことに出会った。次回へ