九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

朽木五郎出羽守義綱

2020-03-29 | 朽木氏

以前書いた久多庄の歴博DBよりの部分
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/35aa34a63240a02a909fbe22260e005c

「 永仁7朽木文書=久多庄地頭代貞能と朽木庄地頭出羽義綱代祐聖が堺相論和与=正安1幕府和与裁許・文安6醍醐寺文書=三宝院領門跡領・大見庄と堺相論あり」
の出羽義綱代祐聖とは?一人の名前ではなかった。

出羽五郎義綱という人物と地頭代の祐聖 という事になる。
出羽五郎義綱?…朽木の?
朽木の祖は?…高島隠岐守高信から始まっているようである。 

高信 ー 次男出羽守頼綱 ー 出羽守義綱…経氏

佐々木哲氏のブログ「佐々木哲学校」によると

http://blog.sasakitoru.com/201011/article_1.html

「『尊卑分脈』によると、頼綱(入道道頼)には出羽三郎頼信・五郎義綱・四郎氏綱・五郎有信があった。このうち五郎義綱が勲功の所領近江国朽木庄(承久勲功、祖父近江守信綱拝領所也)と常陸真壁郡本木郷(弘安勲功、頼綱拝領所也)を譲渡されて(朽木147佐々木左衛門尉頼綱譲状案)、朽木氏を立てた。三郎頼信は横山庄、四郎氏綱が田中庄と相伝の所領を相続しており、朽木氏は佐々木出羽家の惣領ではなかったようである。朽木氏が大きく飛躍するのは、朽木庄を相続した五郎義綱が、陸奥国栗原庄一迫板崎郷を母覚意から譲与され、嘉元の乱で活躍して出羽守に補任されるとともに越中国岡成名を得たことによるだろう。」

「元享二年(1322)十一月二十八日付平宗度置文によれば、池宗度は嫡子増一丸(顕盛)に所領を譲る旨を記している(朽木123)。池家は池大納言頼盛の子孫で、頼盛実母で平清盛継母であった池禅尼が、平治の乱で源頼朝の命を救ったことから、頼盛は平氏の都落ちに同行せず、鎌倉殿伺候の公卿となっていた。この置文が朽木家に伝わるのは、頼盛の子池河内守保業の子孫である池河内家の所領が、朽木氏に譲渡されたからである。」


中世久我家と久我家領荘園より
「吾妻鏡』元暦元年二一八四)六月二十日条にも「権大納言平頼盛、侍従同光盛、一三五号)にも、頼盛から保業.光度.為度.維度.宗度.顕盛,そして経氏へという流れが記され、・・・」

「義綱の子孫【朽木経氏】は、桓武平氏の嫡流池氏の池顕盛の猶子となり池氏の所領も相続した。」
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/7ca2760aca88c99ca727642bd674523b

2017年の記事なので、間違いも多々あると思うが、その時に調べた結果である。
つまり、朽木氏は池氏の所領も一部付加されて、より大きくなったという事になる。

===*===

今日の「麒麟が来る」にも朽木荘がでていた!!
しかも足利義輝!!!
九里が匿った「足利義澄」の孫に当たります~~♪




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 昨年の記事を読むと久多庄が... | トップ | 鯖街道~~~出てた~~~♪ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

朽木氏」カテゴリの最新記事