九里 【九里】を探して三千里

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九州 古代松浦国(末盧國) 栗川 久利郷あり。

2022-01-31 | 古代からのつながり

此処にも【久利郷】の記載があった!

魏志倭人伝』に見える「末廬国」は松浦のことと考えられ…

あの久里双水古墳のある場所である。

久利郷は松浦郡久里村(唐津市久里)付近にそれぞれ比定される。

久利郷のなかに草野庄があったと記載がある。

草野庄の草野は「カヤノ」と読むそうである。

 

草野庄には安倍宗任が配流されてきたようである。(頼義と戦った後‥‥)wikipediaより

この宗任の母親は清原氏だそうである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AE%97%E4%BB%BB

三男・安倍季任
季任は肥前国松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。
長女・藤原基衡の室(疑問あり)
藤原秀衡の母(異説あり)。宗任が太宰府から東北に戻り授かった子であるとする説がある。
末女・佐々木季定の室
佐々木秀義の母平治合戦の後、本貫近江国蒲生郡佐々木庄(現・近江八幡市)を追われた秀義は、母方の伯母の嫁ぎ先である奥州藤原氏を頼って落ちのびる途中、相模国の武将・渋谷重国に武勇を見込まれて食客することとなった。

 

安倍宗任の娘が佐々木季定の室?そうなのだろうか?

 

佐々木哲先生のメールマガジンを一部紹介させていただくことにしよう。

源秀義(生年未詳-一一八四)は季定の三男であり、母は源義親女(沙沙貴神社本)とも、安倍宗任女(続群書類従百三十三巻)とも伝わる。

ただし母が安倍宗任女であれば、姨(母方のおば)は奥州藤原秀衡室(『吾妻鏡』)ではなく、基衡室である。

ところで沙沙貴神社本では秀義の伯母(父方のおば)を秀衡室とするが、また祖母を源義光女と伝える。

義光の長男検非違使義成(義業)の継室は、藤原清衡後室平氏であり、奥州藤原氏との関係が深く、義成の長男佐竹昌義の妻は奥州藤原清衡女である。やはり奥州藤原氏との関係は深い。

沙沙貴神社本で秀義母を源義親女とする記事と、続群書類従本で母を安倍宗任女とする記事のどちらも正しいのであれば、

西国で反乱を起こした対馬守義親が、西国に流されて松浦党の祖になった安倍宗任の娘を養女にした可能性もあろう。

 

 奥州藤原清衡(母安倍頼時女)―基衡(母平氏)―秀衡(母安倍宗任女)

 

陸奥判官源為義の猶子(『尊卑分脈』『続群書類従』)となり、為義の女婿(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)となった。

通称は佐々木三郎(『尊卑分脈』)とも、佐々木源三(『吾妻鏡』)とも伝わる。

 

佐々木系図では、一般に季定(為俊)の子息は秀義ひとりのみ記されるが、西岡虎之助『荘園史の研究』下巻一に掲載されている和歌山県野田文書所収「□□奉公初日記」では、秀義には兄が二人いたと記されている。

 

同記によれば、源秀義の兄太郎・二郎の二人が佐々木庄で夜討ちのために□□され、三郎秀義(生年十三)が遁れて、奥国判□□□(陸奥判官為義の許)に参り、対馬守が預かったと伝わる。

 

対馬守が預かったという伝承は、秀義の母が対馬守義親女であるという沙沙貴神社本の記事と一致する。

 

以前から気になっていた系図があるのだが、こちらには秀義の註に「源三 正五位 首藤刑部斎藤別当」とある。

何故だろう。

https://www.arakawa-yasuaki.com/information/my-family-pedigree.html

 

googlebooksで検索すると、「平賀四郎義信、郎等には、鎌田兵衛正清、三浦介二郎義澄、山内首藤刑部丞俊通、子息滝口俊憲、長井斎藤別当実盛、信濃国の住人片切小八郎大夫景重、上総介八郎広常、近江国の住人佐々木源三秀義、これらを始めとして、その勢は二百余騎ほどであった。」

 

義平十七騎(保元の乱1156年の為義没の後か?・平治の乱1160年)

河越重頼・鎌田兵衛政家・後藤兵衛実基・佐々木源三秀義・三浦荒次郎義澄・山内首藤刑部丞俊通・長井斎藤別当実盛・岡部六弥太忠澄・猪俣小平六範綱・熊谷次郎直実・波多野次郎延景・平山武者所季重・金子十郎家忠・足立右馬允遠元・上総介八郎広常・関次郎時員・片切小八郎大夫景重

 

この時に、ともに戦った山内首藤刑部丞俊通と長井斎藤別当實盛と同世代の人物であったことを註に入れたかったのかもしれない。

特に斎藤実盛は同じ年代であり、共に京から関東に逃げ延びてきた同志でもあった。

実盛1111年生まれ、秀義1112年生まれである。山内首藤俊通は平治の乱で没している。

 

昨日TVに佐々木秀義が登場し1180年(68歳)のようすだったが、私の頭の中では武者であったため、衝撃であった。

息子たちは、定綱1142年生まれ、経高 不詳、盛綱1151年生まれ、高綱1160年生まれ、義清 不詳、である。

 

いつの間にか佐々木氏の話になってしまった。

 


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