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紀伊国田仲荘 と 楠本(村)河辺

2024-03-21 | 後藤氏
武蔵国河越荘河辺郷の情報はほとんど出てこないので、違う角度から考察をしてみようと思う。

佐藤氏の中の清兼であったならば、田仲荘付近にあるのではないか?と。(それがあったのである。全国的に河辺(川辺)という地名は多い。)

田仲荘(コトバンクより)
紀伊国那賀郡(現和歌山県紀の川市,旧打田町・旧桃山町)の荘園。11世紀の成立と推定される摂関家領荘園で,1110年(天永1)藤原忠実(ただざね)によって得分(とくぶん)の一部が日吉神社の法華八講料にあてられている。鎌倉時代には近衛家領となったが,近衛家は荘務権を有せず,領家職(りようけしき)は僧円基(近衛基通の子),僧慈禅(近衛兼経の弟)を経て,その法系である浄土寺門跡(もんぜき)が室町末期にいたるまで伝領した。12世紀後半の56年(保元1)以降,紀ノ川南岸の耕地をめぐって荒川荘との間に激しい堺相論が起こった。田仲荘の預所佐藤仲清・能清父子が平家の威勢を背景に押領を企てたためであるが,彼らの行動は鎌倉幕府に支持されず,紛争は86年(文治2)をもって終息した。なお《尊卑分脈》の記述を信じれば,仲清の弟は歌人として著名な西行(さいぎよう)(俗名佐藤義清)である。鎌倉時代には田中氏を称する武士がおり,湯浅党の一員となっている。室町時代にも荒川荘との紛争がみられるが,これは紀ノ川以南にあった田仲荘の入会(いりあい)権をめぐって起こったものらしい。
執筆者:小山 靖憲
田仲荘 ↓

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楠本村 地名に「川辺」の名がみえる。





和歌山県河辺村(コトバンクより)

和歌山市川辺
名草郡に属し、楠本村の東にある。東は那賀郡岩出庄の諸村(現岩出町)。南は紀ノ川が流れる。岩出庄北方山中より流れる住吉川が村の東を流れて郡界をなし、さらに西南に流れて永穂村境で紀ノ川に合流する。北方の雄ノ山峠を越えて当村に入った街道は、一方は南下して川を渡り、吐前村よりさらに南下する中世以来の熊野街道となり、一方は西に永穂村・小豆島村を経て川を渡り、城下に至る大坂街道となる。
川辺は、古代から中世にかけては、当地のほか楠本・神波・上野一帯も含む地域の称であった。国衙領田井郷の内であったと考えられる。
 



佐藤の田仲荘の近くの楠本村の中の河辺か?
那賀郡でもあり、ながかわべ清兼であったか?

いろいろな可能性がありすぎて、どれが本当かはわからないが、、、

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名草郡 田井荘 川邊村 川辺王子 

「この八王子社は熊野御幸記に記載されている川邊王子とされる。」とある。

それを読んだ時に、武蔵少掾となった清兼が「八王子」の名付け親であるかもしれないと妄想が膨らむのであった。
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