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大納言法印とは?

2017-02-26 | 隋心院

前回の続き。
気になった「大納言法印」とは、どなたのことなのかを調べてみた。
確証はないが、時代と大納言・法印と関連のある人物である。



【静厳】

靜嚴(じょうごん、寛元元年(1243年) - 永仁7年正月7日(1299年2月8日)[1])は、鎌倉時代の真言宗の僧。摂政関白従一位左大臣の一条実経の子。母は大納言・粟田口忠良の子、良性法印の娘[1]。殿大僧正と号す。

厳舜について出家し、勝尊、親杲に灌頂を受ける。醍醐寺[1]座主や随心院門跡[1]、東寺長者[1]となる。法務大僧正[1]。永仁7年(1299年)に57歳で入滅。

~~~*~~~

まず前回の記事の中に「前摂政一条実経に譲られた所領中に「家領 女院方……紀伊国井上本庄〈被寄 月輪殿(九条兼実)高野護摩用途〉」と,年月日未詳の一条実経所領目録案断簡(同前)にも同様に見え…」とある。

次いで、母親が大納言粟田口忠良の子である良性法印の娘である。

では【粟田口忠良】は、どのような人物なのであろうか。

粟田口 忠良(あわたぐち ただよし、長寛2年(1164年) - 嘉禄元年5月16日(1225年6月23日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。摂政近衛基実の次男。母は左京大夫藤原顕輔の娘。異母兄に近衛基通がある。正二位、大納言。鳴滝大納言と号す。粟田口を家号とし、粟田口家の祖となる。
経歴

治承4年(1180年)、元服して正五位下に叙爵。以後、寿永2年(1183年)に従三位・非参議、文治5年(1189年)中納言、建久2年(1191年)権大納言、建仁2年(1202年)に大納言と進み、同4年(1204年)辞職。承久3年(1221年)出家し、その4年後の嘉禄元年に死去した。

体格は痩せていて性質は温和であったといい、政治の表舞台に立つより歌人としての活動が主であった。勅撰集に69首が入集しており、『新百人一首』の一人にも選ばれている。『古今著聞集』には、長期間ろくに出仕しなかったため危うく大納言の地位を剥奪されそうになり、その心境を和歌を通じて兄の基通と語り合う逸話が収録されている。

系譜

父:近衛基実
母:藤原顕輔の娘
妻:権大納言藤原実国の娘
長男:基良(1187-1277)
妻:藤原定能の娘
二男:衣笠家良(1192-1264)
生母不明
良全
良覚
忠源
忠豪
良性
良勝


【近衛基実】は16歳で二条天皇の関白となったが、24歳で亡くなっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%AE%9F

妻となった藤原実国の娘。
その【藤原実国】は、滋野井実国のことで、過去へ遡っていくと、藤原公実の次男実行・三男西園寺通季に行き当たる。

【藤原定能】他は、明日にしようと思う。



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2 コメント

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同じあだ名ですが (自閑)
2017-02-27 07:18:36
同じあだ名大納言法印ですが、親快と言う醍醐寺の僧がいて、方丈記に関係しているので調べた事が有ります。
まあ別人でしょうね。

親快
建保3年-建治2年(1276年)5月26日大納言法印 覚洞院法印 源雅親男。醍醐寺覚洞院,地蔵院の院主 建長8年(1256年)頃太秦桂宮院に転院。

方丈記の大福光寺本の奥書に
右一卷鴨長明自筆也
從西南院相傳之
寛元二年(1244年)二月日親快證之
来週にでもアップします。
返信する
親快 (kunorikunori)
2017-02-27 08:33:53
自閑さま

この方のお名前は、私もどこかで見ました!
同じ真言宗なので、この方かもしれません。

自閑さまの記事のアップを楽しみにしております。
私も、親快調べてみます。

ヒントをありがとうございます。
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