九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

中原氏と紀氏、富来氏と紀氏(1)

2019-10-13 | 紀氏

宇都宮宗房と関係がありそう・・・・というところから、今度は以前解明できなかった「紀長雅」、ココから始めようと思う。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/80d03746ddda6c6096778448d0f2ed1c

少し脱線…
石清水八幡宮別当頼清ー紀祐安ー紀実貞

1072 頼清(常盤)石清水八幡宮 権別當「護国寺」法橋 
    ・1076 宮寺:法眼兼清から院主法師頼清に譲度
        ・長門国美祢郡「大峰荘」
    ・1087-8-29 八幡宮第23代別當・宮寺 法印
       ・親戚の貧しい永秀に笛用の寒竹を取り寄せる
       ・金銭の援助もし、笛の名手永秀となる
    ・1103-1-3「観音寺」「大山寺」兼行 
    ・父:石清水八幡宮 兼清 法印・別当
    ・母:石清水八幡宮 元命の娘      
    ・男子:石清水八幡宮 垂井光清
    ・女子:紀朝臣頼子 皇后令子内親王の女房
    ・63歳入寂(1040-1103)


この頼清の遠戚永秀は笛の名手だったようで、後に鴨長明 『発心集』の中にも記載があるとのことです。

===*===


紀長雅

紀氏のルーツさんから
②「長安寺」天台宗
     ・山号:金剛山
     ・六郷満山の中山本寺、鎌倉時代に入ると六郷満山の
      100以上の寺院を統括する地位を占めた
     ・開基:仁聞菩薩
     ・太郎天像の胎内銘に紀季次=末次の名
     ・1141 長安寺の銅板経の作者の名に
         紀重永・紀長雅の名
     ・住所:豊後高田市加礼川635(新城)

ー 荘園 ー
   ①1057「田原別府」
      ・郡名:国崎郡 西国東郡太田村 
                桂川上流と支流石丸川流域、
                安岐川上流の谷地と分水嶺地帯            
      ・領家:宇佐八幡宮領
         ・1057-3 紀季兼の開発申請状にもとづいている
・1158-5-3 田数:59庁反30
      ・荘官職:紀氏(石清水八幡宮の出身
         ・1141 石清水八幡宮惣別当僧暹意らと共に紀重永
             紀長雅の名が見える
      ・郡司職:1287 紀氏 田原別府惣徴符に
      ・史料村郷名:田原郷・波多方名・田郷・小野一万名・利行名
      ・明治村字:小野・白木原・永松・上沓掛・背野
            上波多方・下波多方・石丸・俣見・下沓掛
        ※出典:紀氏系図・入江文書・長谷雄景信文書
            長安寺の銘の銅板経(国重文)

     ※1142 求菩提山の銅経板に御馬所検校紀重永の名
         ・同経板制作には石清水八幡宮別当僧暹の援助が
          銘文にある


石清水八幡宮の領家である宇佐宮領国東郡田原郷(田原別府)は、歴博のデータベースでは【領家・本家】後白河院領・栗田宮領・皇室領【初見年和暦】寿永三年
【初見年西暦】1184 …となっているが、それ以前にも文書はあるようである。

領家(開発領主)が紀季兼で、その後石清水八幡宮惣別当僧暹意らと共に紀重永・紀長雅が担当したとみえる。
このように、宇佐八幡宮と石清水八幡宮とは、相互に助け合っていたのだろうか。人手が足りないときには派遣するなど。

そこに出てくる紀重永・長雅は石清水からの派遣とみることができる事。
また、『建久中、大友能直に従って下向し、富来に住し姓を富来に改めている。初代実貞は紀祐安男で、永井石見守,富来左衛門尉と称し富来氏系図によると紀長雅・秦氏四子』と以前書いた記事にもあったように、大友氏に追随していった者たちもいた。

紀氏につながりのある者たちであったように思える。そのグループに富来氏も入っていたのだ。
大友能直は1173-1223年で、中原祐安は年代がわからないが、兄の頼業は1122~1189年である。
充分紀祐安の息か孫は富来左衛門尉実貞とも考えられるのである。

ここが、紀祐安=富来の先祖、ともなると、出納家の平田家や深尾家とも繋がってくる。

しかし、全く別の意見もある。
(プロのご意見はこのように…これによると富木氏と富来氏は全く別の一族となるが、富来氏も藤原秀郷の関係であるらしい。)
とても重要なことも書かれている。

「鎌倉前期の左馬允俊朝の長男が溝部太郎秀俊であり、その弟が富来氏の祖・富来次郎朝忠であって、その子の「秀忠-長忠-忠虎(忠政)」と続いて、忠虎の子が延元元年(1336)時に足利尊氏を出迎えた富来雅楽助(弥五郎)忠茂となります。 」
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/saito-bungo1.htm

上記のページとは意見は違っているが、私的には充分鎌倉周辺にいた富来氏(=富木氏)で在り得ると思うのである。
「永井実継の父は永井刑部助実貞(一に実直)であり、この者は紀(?。清原?)祐安とは無関係です。上記のように、永井実貞の子孫に富来忠茂が出たわけでもありません。」

その実貞のことはどうかはわからないが、中原祐安と紀祐安は同一人物で、富木氏と富来氏も同じ一族なのではないだろうか。
そのように考えることで、近江国の日牟礼神社やその周辺に住していた一族とも「紀氏」でつながり、祐安や兄の頼業、また、源頼政、土岐氏とも繋がってくるのではないだろうか。

以下のようなweb情報もあった。大友氏とのつながりである。九里の祖も中原氏なので、当然つながりがある。

「大友泰広(やすひろ)は、京で生まれ、豊後国国東地方に地頭職を得て、宇佐宮領国東郡田原郷(田原別府とも荘とも呼ばれる)に定住するようになり、田原(たばる)氏を称することになる」

「国前臣(豊後の称紀朝臣姓諸氏は紀長谷雄の族裔と称するが、実際には国前臣の流れの仮冒とみられる。

溝部-豊後国国東郡人、紀継雄系と称。

横手、立野、富来、長木、柳迫、速見、何松、志手、岐部、櫛来、姫島、曾根崎-溝部同族。

生地、紀田-豊後国速見郡若宮四社権現神主、溝部同族。

上田-豊前の宇佐神宮御馬所別当で宇佐郡上田村住人、紀諸雄系と称。

永松-豊後国国東郡田原八幡神主

野原-同速見郡人。永井、長谷雄〔長谷王〕、足立、小野-上田同族で国東郡等に住。国東郡田原八幡祠官の是松、永吉も同族か。

宇佐神官で下毛郡住人の藍原やその同族とみられる朝来野も紀姓で、おそらく同族。宇佐の鷹居社祠官の紀姓鷹居氏も同族か)、国前直(渡辺-豊前国上毛郡の古表八幡神社大宮司家)、日子臣、日子直(日名子〔雛子、日奈古〕-豊前国築城郡人。

国前〔国崎〕-豊前宇佐宮貫首。浅田、無佐、由布、芦原田-豊後人。

武川〔竹川〕、井関、鷹尾、山嵜、森脇、桂川、鎌谷、高塚-播磨人。

柏木-江州柏木人

藤原姓を称する宇佐宮土器長職の高村〔高牟礼〕氏も国崎氏の同族か)。

また、豊前国仲津郡の高桑臣も同族か。

葦北君、刑部靱負部、刑部、刑部公、日下部、日下部公、規矩連、日奉部、日奉直、日奉宿祢(横尾-肥後国益城郡人、陸奥下野筑後に分る。

那賀、合志-横尾同族。竹崎-同国八代郡人。

その同族に野中や筑後国御井郡の三井

また、肥後国玉名郡の大津山は藤原姓を称し、公家日野氏の庶流とか菊池一族合志の初期分岐という所伝もあるが、疑問もある。

むしろ筑後国三池郡の日奉宿祢後裔とするのが妥当か。

その一族には玉名郡の小野、関、三池、津山があり、同郡の江田も同族か)、
大伴部(出水〔和泉〕、井口、上村、朝岳、知色〔知識〕、給黎、郡山、杉〔椙〕、鯖淵-薩摩国出水郡人。

高城-同国高城郡人。

武光〔武満〕、高城、寄田-同州薩摩郡人。

宮里、高江-同上族、称紀姓。

日置、河俣、北郷、息水-薩摩国日置郡人。

白坂-日向人。

肝付〔肝属〕-大隅国肝付郡人で一族多く、伴朝臣姓で見える文書あるも疑問で本来は葦北国造同族か、一族は大伴氏族を参照のこと)、桧前部(水俣、佐敷、久多羅木、上野、田浦、湯浦、二見、綱木〔津奈木〕-肥後国葦北郡人。篠原、光武、萩崎、白木、牛尾、永里、薗田、中条、岩崎、楢木、桂木、広武、松本、鵜羽、大籠-薩摩国牛屎院人、篠原は日置郡中原の大汝八幡宮大宮司家にもあり。

税所-肥後国球磨郡人、大隅国曽於郡の税所と同族と伝う)、他田部、白髪部、真髪部(真上部)、真髪部君(球磨郡白髪社祠官の尾方は族裔か)。

また、肥後国葦北郡の家部、八代郡の高分部も同族か。

『大同類聚方』には葦北郡の姫島直が見えており、実在したなら葦北国造の族か。」

(2)に続く。




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