天福元年 | 1233 | 智定坊熊野那智浦より渡海 | 吾妻鏡・観音冥応集・北条九代記・和漢三才図会 |
下河辺行秀 = 智定房(坊)
こちらの講演会のレポートの5ページに書かれていて、興味深いものがあった。以前ブラタモリでも補陀落渡海を取材?していたと思う。
【南方往生の企て― 補陀落渡海の諸相】 根井 浄 著
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30141/kbb09-02nei.pdf
下河辺家は代々「弓術の家」であったようである。
更に面白かったのは、弓馬の友が「北条泰時」という箇所である。
早熟で堅物のイメージの泰時にも友人がいた!よかった~!
北条泰時は九里にとっても大事な時期の執権であったと思う。
ちょうど大きな族であった中原氏から独立しつつ、違う氏となっていく過程である。
中原太郎経久は九里の祖と系図の註に書かれているが、実際は、遡るとこの人物が祖だよね?という事なのではないだろうか?
確信は持てないのだが、やはり上総の常衡の息か孫の片岡常春の弟となった為春(または弘経)の息の片岡太郎経久だったのではないか?
そこが、始まりのように思えてならない。
片岡氏は確かに大和国出身だったが、ある時に上総に来たのである。
更に上野国に所領もあるという。
大中臣秋家が中原秋家であったように、この片岡も大中臣氏の一部で、やはり中原氏であったのではないだろうか?
片岡氏に関しては、まだ続きがあります!