山﨑氏の周辺をランダムに調べてみた。
山﨑・柳田・矢田部教授(朝ドラの「らんまん」の田辺教授)
佐々木氏にはいくつかの流の山崎氏がいたようである。
【姓氏と家紋の山崎氏】さんのページから ↓
「武家の山崎氏では、宇多源氏佐々木氏流が有名である。佐々木神主系の分流といい、系図によれば佐々木源四郎大夫行家の子六郎憲家が佐々木を改めて山崎を称したことになっている。 『寛政重修諸家譜』には、「相模国山崎に住し、のち近江国に赴き、犬上郡山崎の城に住し代々佐々木氏に属した」とあり、相模国山崎は鎌倉郡内山内荘山崎郷に該当するようだ。代々、佐々木六角氏の被官であったが、戦国時代の山崎片家は織田信長に仕え、次の家盛は豊臣秀吉、その子家治は徳川家康に仕えて讃岐国丸亀五万三千石の大名に出世した。
佐々木氏系からは隠岐氏から分かれた山﨑氏、佐々木秀綱の五男山﨑六郎重清に始まる山﨑氏などがある。いずれの山﨑氏も「四つ目結」を家紋に用いているのが特徴である。
此の秀綱のwikipedia
田中氏の系譜(佐々木哲学校 ブログ記事より)
私が気になった部分を書きだそう。
高島郡田中郷の所職は、もともと「田中入道」と呼ばれた山崎憲家(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)の子孫が有していたと考えられる。-略ー
(愛智流田中入道憲家の子孫山崎氏が越前にいた。)
明徳二年(1391)九月には、田中殿が賀茂別雷社から高島郡安曇川御厨の所務を預けられた(朽木470)。
明徳二年(1391)九月には、田中殿が賀茂別雷社から高島郡安曇川御厨の所務を預けられた(朽木470)。
高島七頭は室町将軍奉公衆(直臣団)
佐々木越中刑部大輔孝俊や田中四郎兵衛尉頼長が足利義輝元服式でも警固を勤めており(光源院殿元服記)、越中家と田中氏がそれ相当の軍事力を動員できたことを示している。田中氏が佐々木出羽家の嫡流と分かる。
愛智流山崎氏と高島七頭
高信の子孫は西近江に地盤を築き、嫡流の越中家(高島)をはじめ能登家(平井)・朽木・横山・田中・永田の高島一族、および本佐々木愛智流の山崎氏を含めて「高島七頭」と言い、「西佐々木」と称された。能登家と平井氏は同氏であり、西島太郎氏は山崎氏を高島七頭のひとつとしたが、卓見である。
愛智流山崎氏と高島七頭
高信の子孫は西近江に地盤を築き、嫡流の越中家(高島)をはじめ能登家(平井)・朽木・横山・田中・永田の高島一族、および本佐々木愛智流の山崎氏を含めて「高島七頭」と言い、「西佐々木」と称された。能登家と平井氏は同氏であり、西島太郎氏は山崎氏を高島七頭のひとつとしたが、卓見である。
平井村も愛智家次の子平井家政にはじまる平井氏が開発したものと考えられる。能登家も高島郡に移住した愛智流平井氏の跡を継承したものだろう。
愛智家次は愛智郡大領や近江掾(在庁官人)を勤めた愛智秦公の子孫と考えられる。
愛智家次は愛智郡大領や近江掾(在庁官人)を勤めた愛智秦公の子孫と考えられる。
佐々木愛智流山崎氏が愛智郡から高島郡に進出したように、
愛智郡と高島郡につながりがあったことが確認できる。
山崎氏に関わりのある五番領が14頁目の地図にある。↑
継体天皇にゆかりの場所のすぐ近くである。