九里 【九里】を探して三千里

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久徳氏に関する周辺情報

2019-11-13 | 雑記

長浜市東浅井郡
浅井家臣、小堀遠州を出した小堀氏屋敷。同家は山門領平方荘上郷内の土豪で、永享7年(1435)の勧進猿楽棧敷注文次第に『小堀殿』として登場する。総持寺の文書に土地の寄進者として戦国初期まで登場する。浅井氏に仕え、その滅亡を待たずに秀吉の旗下に入った。

米原町坂田郡近江町
宇賀野館は、宇賀野氏によって現在の宇賀野会館辺りに築かれていた。小字「親方」は、御館の名残とされる。この域内にある長野家は、戦国武将で知られる山内一豊と母法秀院一時身を寄せたところで、一豊と妻千代の出会いの舞台とされている。

彦根市坂田郡原町
原城は、中世城郭分布調査によると、原町集落一帯に比定されている。集落北側には原八幡神社が鎮座しているが、その裏手には丘陵の森がある。これは北方の佐和山山塊と本来山続きだったもので、佐和山城から続く峰の最南端に位置している。

彦根市 犬上郡 14 13 彦根市 大東町 安養寺館 安養寺三郎兵衛 「佐々木南北諸士帳」には彦根安養寺館を居館とした安養寺三郎右衛門がある。14~15世紀頃、近江守護佐々木氏の庶流外村氏がこの地に住し、安養寺氏を名乗った。戦国末期の記録では、13代子孫が相続して大庄屋となったとされ、安養寺三郎兵衛が記されている。南北朝期には、安養寺荘という荘園があった。


久徳城 "久徳氏
多賀二郎定高" 城主久徳氏、浅井氏により滅亡。永正年間(1504-21)隼人正隆の時に八町城に移り曽我城は廃城となり、その後、久徳郷に城を構えたのが久徳城主・多賀二郎定高である。

犬上郡 犬上郡 15 17 多賀町 敏満寺 敏満寺城 "久徳氏
敏満童子" 平安末期:敏満童子。久徳氏支城。敏満寺城は、天台宗寺院が城塞化した城郭寺院で、中世には湖東一大寺院であった。永禄5年、久徳城主久徳実時が、当初京極氏に従っていたが、六角氏に鞍替えしたため、小谷城主浅井長政攻められ40余りあったといわれる坊舎のほとんどは焼失した。




犬上郡 犬上郡 15 9 多賀町 木曽字曽我 曽我城 赤田(曾我)次郎 曽我氏は相模国出身で、承久3年(1221)宇治川合戦で祐重が戦功を挙げ、久徳郷曽我の地頭職に補任され曽我城は築城された。応永年間(1393~1427)京極道誉の勢力が多賀庄に及び曽我氏は衰退、代わって赤田備が近江守護佐々木氏に仕え、赤田栄が曽我城を本拠とした。


犬上郡 犬上郡 15 15 多賀町 中川原 中原城 位置不明。

久徳五箇荘(美濃国)大垣付近か?





この久徳五箇荘と山階山科家、山中氏が関係してくるようである。


コメント
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