九里 【九里】を探して三千里

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惟宗氏 (3)

2019-11-19 | 雑記
「中世公家と地下官人」中原俊章著 吉川弘文館より気になる部分を書き出してみようと思う。(青い色とする)

惟宗氏…秦氏の一族で、明法関係に多くの人材を出した家柄である。
惟宗允亮は『政治要略』の著者として名高い。
…この一族には史に補されている者も多く、史に代々補された学問の家柄からも侍が出たことが知られよう。


允亮 ‐ 允仲 ‐ 範仲(修理少進)- 仲賢(坊帯刀 刑部少丞 民部丞)- 仲行

...六位政官とは史・外記に代表される。代々史に補された惟宗氏の一族が侍となったことは前述の通りであるし、外記と侍も密接な関係にあったのである。

 
史とは、古代の姓の一つ。記録を司る官にあった書人(ふみひと)が詰まってそのまま姓となったと考えられる。多くは渡来人の子孫。8世紀中頃,毗登(ひと)と一時改められた。 (コトバンク)

wikipedia の 惟宗允亮(藤原道長と同時代を生きた人物のようである。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%AE%97%E5%85%81%E4%BA%AE

===+===

三善信成の例が書かれている。彼は摂関家蔵人所衆で、1156年に権少外記に補任され、かつ関白家司でもあったそうだ。
この時代外記がかなり多くの摂関家の侍となっている。
中原氏も惟宗氏も例外ではないと思う。

次に出納・下司に関しての章があるので、そこからまた書き出してみようと思う。

===+===

下家司とは政所の案主・知家事等のことで、政所の庶務に携わる者たちである。
院庁では主典代、蔵人所では出納等が同じような任に当たっていた。

・・・
以下の3点があって、調べてみようと思ったのである。

①惟宗久経と中原久経が同一人物かどうかが気になった事。
②惟宗氏の中に播磨目がいた事。九里の祖の中原氏にも播磨目が存在している。
③惟宗盛国と乾盛国が同一人物かどうかが気になった事。

この③に関しては、以下のような情報があった。(1298年~1320年)







しかし、乾盛国の情報は天文六年~九年(1537年~1540年)の江源武鑑の二巻に記載がある。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/84ec86566047bee61354231600b6d836 

残念ながら、別人である。

===*===

①はどうだろう。
前回に調べた時には
1168年 仁安    内膳典膳 司奏 中原久経 
1183年 寿永二年  左辨官史生 惟宗朝臣久経
1185年 文治元年  鎌倉殿御使 中原久経

同時代を生きている二人である。
さて、どのように調べていけばわかるのだろうか。



吾妻鑑の中原久経の記載がある部分

典膳大夫中原久経・近藤七国平使節として上洛す
(先々使節たりと雖も、他人相替わる。今度治定すと)。
これ平氏を追討するの間、事を兵粮に寄せ、散在の武士、畿内近国の所々に於いて狼藉を致すの由、諸人の愁訴有り。
仍って平家滅亡を相待たれずと雖も、且つは彼の狼籍を停止せられんが為、差し遣わさるる所なり。
先ず中国近辺の十一箇国を相鎮め、次いで九国・四国に至るべし。
悉く以て奏聞を経て、院宣に随うべし。この一事の外、私の沙汰を交ゆべからざるの由定め仰せらると。
今の両人指せる大名に非ずと雖も、久経は、故左典厩の御時殊に功有り。
また文筆に携わると。
国平は勇士なり。
廉直の誉れ有るの間此の如し。
仰せに依って、各々憲法の沙汰を致すべきの趣、起請文を進すと。

===*===








コトバンクでは…↓

左衛門府生:六衛府の下級職員で、雑役に従事した者。ふせい。ふそう。 

左弁官史生: (「さししょう」とも) 令制で、太政官の左弁官局に属する史生。
      左大少史の下にある雑任の一つ。文書を写したり、
      官人の所に行き文案に署名をとることなどを職務とする。さしせい。
      ※令義解(718)職員「左史生十人。右史生十人」 

内膳典膳(従五位下よりも下と思われる。):
☆令制で、宮内省に属し天皇の食事のことをつかさどった内膳司(うちのかしわでのつかさ)の次官。官位相当は従七位下。定員六人。〔令義解(718)〕
☆ 令制で、後宮十二司の一つである膳司(かしわでのつかさ)の次官。定員二人。准位は従五位。〔令義解(833)〕

===*===

因みに内膳司とは

ないぜんし【内膳司】
令制の宮内省所属の官司。供御(くご)(天皇に供する物)の食事や皇后の食事の調理をつかさどる(供膳は後宮職の膳司がつかさどる)。職員は奉膳(ぶうぜん)(長官)2人,典膳(てんぜん)(判官)6人,令史(主典)1人,膳部(伴部)40人など。飛鳥浄御原令以前から存在した膳職が,大宝令により官人等の食事をつかさどる大膳職(だいぜんしき)と,内膳司に分立した。異例の長官2人制は,令制以前から供御をつかさどった高橋氏(膳(かしわで)氏の一族)と阿曇(あずみ)氏(海人を統率した)が相並んで奉膳に任ぜられるようにはかられたものか。


九里氏は近江国の舟木庄と関わっており、とても関係があると思う。
鮒ずしや納豆を宮内に届けてもいる。

===*===

中原久経と惟宗久経、まだ全く判断がつかない。
もう少し調べてみようと思う。


コメント
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