富山・安楽死疑惑。ほんとうに疑惑なのか?
富山県の射水市民病院で、五〇歳の外科部長が本人の同意なしに人工呼吸器を外したという。
家族の同意と外科部長の判断だったという、一部本人同意があったというが、今度は逆に家族同意はどうだったのか。
安楽死とか尊厳死という定義の第一は本人の同意が必要だという。あなた本人が同意無しに安楽死させれたら、あなたは、その自分の死に納得するだろうか。
なぜ、五〇歳分別盛りの、それも外科医という知的レベルの高い人がこうも簡単に人工呼吸器を外したのか。
一つには、延命が医学の中で治療に当たらないという考えがあるのかもしれない。なぜ治療に当たらないかというと、治療とは回復を指して使う言葉から、延命措置は治療ではないと考えるのだろう。つまり、医学的には延命は意味が無いという判断だったかもしれない。
医学的には延命は意味がないのだから病院にいる必要もない。かといって、家に帰す訳にもいかない。だから、人工呼吸器を外した、と医学的見地から見えなくもないが、もちろん暴論だ。
もうひとつ、治療の余地ない患者は医者にとって敗北だという考えも思いつく。つまり、回復の見込みもなく治療の方法も無い場合、延命状態の患者を診るのは、医者として敗北を毎日に感じなくてはならない。なら、最後の仕事として人工呼吸器を外すという医者の仕事があるではないのか、と考えても医者の立場から考えるとしごく納得できる。
しかし、ここに一つの疑問もある。これらは全て医者を推察して書いたが、そうであるなら、医者以前の人間として、この五〇歳の外科部長はどう思ったのだろうか、ということだ。ビジネスライクに人工呼吸器を外したのか、それもと人間としての葛藤の末に行ったのか。
新聞を読んでみるといろんなことが書いてあるが、どうも納得しがたいところがある。
なぜ殺して悪い、どこかで聞いた言葉が蘇る。
家族で同意で安楽死ができる条件みたいなものは
意思表示が事前に無い。
本人の人格(性格や価値観や人生観)などを十分に熟知している。
病状と治療内容を良く説明されて知らされている。
医師側が患者とその家族の密接な関係と認識している
があるらしい。